Kyoko AIHARA's Diary (Writer&Photographer) 相原恭子(作家&写真家)のブログ 

ヨーロッパ紀行、京都花街と着物、ビールとグルメなどをテーマに執筆、撮影、国内・海外での写真展や講演等。今日も良い日!

2016年6月7日(火) 音羽山・観音寺「お葉つきイチョウ」

2016-06-07 | 静寂
奈良・桜井市にある
「音羽山 観音寺」




眼病平癒に霊験があり、「音羽の観音さん」と言われます。
お不動さんを祀った霊水があり、清らかな清流になって流れてゆきます。
この霊水で目を洗うと、眼病が治ったというお話がたくさんあるとか・・・。


『お葉つきイチョウ』の巨木がそびえる境内は、ひっそりと静寂に包まれ


音羽山山頂(851.7m)へ続く道を歩くと、愛らしい白い花木が静かに咲いています。



庵主さん、尼さんたちが、お庭で育てた野菜や自然の材料を丹念に、
時間をかけて、心を込めて料理した
『精進料理』は心に染みる味わいで、まさにスローフード。
一刻一刻を大切にしながら生活する人の心が、味わいに現れています。

学生時代からのご縁で、今もお詣りさせていただき、嬉しく、ありがたいお寺。
またお詣りさせてね!

2013年1月8日(火) 一隅を照らす

2013-01-08 | 静寂
私のガラスの蓮の花。

光が幾筋にもなって、部屋を照らし、
炎が揺らめく。

小さな灯ながら、生き生きとしてエネルギーを感じさせます。




きらびやかなイルミネーション
ライト・・・
どれも当たり前になっているけれど、
こうして暗い中で小さな灯りを眺めると、
小さなものに物凄く大きな価値、大きな力があるのを実感します。


2011年7月6日(水) 不動呪

2011-07-06 | 静寂

先日のブログに書いた、高野山の宿坊に泊まった時のこと。
お寺のご本尊は「不動明王」であった。

朝のお勤めに出ようと、不慣れな早起きをした。

お線香の香りが好きなので、気持ちよかった。
その時、不動呪が何だかずっと頭を巡っているのだ。

「ノーマク サーマンダー バーザラダン センダー
マーカロシャーダー ソワタヤウンタラター カンマン」


これを唱えると、危険を避けられるとか、
お不動さんが守ってくださると、聞いた。

唱えてみては、いかがだろうか。






2011年6月27日(月) 新緑の高野山 モリアオガエルとお不動さん

2011-06-27 | 静寂
今月の某日、(密かに?)高野山へお参りしてきました。

丁寧に修復された宿坊は掛軸も、調度品も、お花も、和の美の極致でありました。
ご住職さまが、お庭で、
「モリアオガエルが居ますよ」
と教えてくださいました。
卵は見るが、カエルに出会うことはとても少ないそうです。
私も卵は何度も各地で見ましたが、モリアオガエルさんに遭遇したのは初めてでした。



カエルとは、失ったものも返ってくる、人も帰って来る、若返る・・・など、
縁起が良いです!


以前、ブログに書いた、近所の無量寺で、
子供の頃、「カエルさん、見えますか?」と、
石でできた大きなカエルに話しかけていたのですが、
それと、ちょうど同じポーズで、
新緑色のモリアオガエルさんが、池を眺めていました。

泊まったお寺の軒下には、
ミソサザイの巣がありました。

輝く新緑の中には、お不動さん。
その前を流れる清い水が色んなものを浄化するかのようでした。


深山のふところで、たくさんの命がそれぞれ営まれている・・・
静かな中に、私は、「生命の活気」を見たのでした。


2011年6月6日(月) 「空」

2011-06-06 | 静寂
今、「ひろさちやの般若心経88講」(新潮社)を読んでいましたら、
印象に残った箇所がいくつもありました。
たとえば、ー感情の社会化ー

・・・名演奏家の音楽にはうっとりせねばならない、人の死は悲しまねばならないと考えるのがそれです。子供のころからそういうふうに教育されてきていて、無意識のうちに強制を受けているのです。しかし、『般若心経』は、もともとわれわれの感情は「空」だと言っています。その『般若心経』の教えを心にとめておいて、自分の心に加わってくる重圧を、ちょっと解放してやるとよいでしょう。・・・


『般若心経』の「空」をどこまで理解できるかはさておき、
皆がしているから(私もしなければならない)、
社会的に評価されているから(私も評価しなければならない)
皆が喜んでいるから(私も喜ぶべきだ)
著名な人が言ったのだから正しいに違いない・・・
確かに今の世の中、そういう風に、無意識に対応する風潮があるかも。


心に重圧が加わらないように、したいものです。

2011年4月23日(土) 石のカエル

2011-04-23 | 静寂
近所に「石のカエルさん」が置いてあるお寺がある。

今日、たまたま時間があったのと、思いついたのとで、
お参りに行った。

時折激しく降る雨を除けるかのように、
池の端の木の下に、石のカエルさんが、相変わらず居た。

1歳だったか3歳だったか、小さい頃
そこへ行くと、いつも私は
「カエルさん め~ますか?」
→(カエルさん 私が見えますか? という意味)
と問いかけたものだった。
以来、ずっと、私はそのお寺を「石のカエル」と呼んでいた。

雨に濡れて緑が美しいお庭。
あいにくの強い雨に打たれて、牡丹は首をうなだれていた。

たまたまいらしたご住職の奥様、初対面であったが、
ヨーロッパ、京都、世間話・・・、長らく話し込み、
帰り際に、ご自身で撮られた牡丹の写真を下さった。



座れば牡丹・・・
美しい。

2011年4月14日(木) 桜の花びら舞う 「刹那」

2011-04-14 | 静寂

桜が、ふわりフワリと風に舞う。
見る見るうちに、蕾から、満開、そして花吹雪。


いずこより 生れ出ずるか 愛しひとひら <© 相原恭子>

先日聞いた「仏教語」のお話を、また思い出しました。
すべてのものは刹那ごとに生れては滅亡し、滅しては生まれ、
その連続がすべてのものを造っている。
刹那消滅・・・


刹那とは、古代のインドで用いられた最小単位の時(とき)で、
指を一回弾く間の65分の1だそうです。

花びらの舞を眺めながら、
あっという間に過ぎつつある美しい桜、
花咲き、花びらがチラチラと蝶の様に舞う、
その「刹那」に感じ入りました。




2011年4月12日(火) 私は無学で・・・

2011-04-12 | 静寂

「私は無学で・・・」

こう言うと、一般的には、
私は学問をしていないし、知識が無いし・・・、という意味になりますが、
仏教語では、逆だとか。

もう学ぶことが無くなるほど、学問を究めつくしました
という意味になるそうです。

さらに、「学」とは、学問のみならず、
修業の意もあるので、
「無学」というと、
もう、修行をする必要がなくなった
修業をし尽くした聖者である
そういう意味にもなるそうな。


・・・安易に「無学」とは言えないなぁと思いました。

2011年4月10日(日) 因果

2011-04-10 | 静寂

今日、仏教語について聞く機会がありました。

たとえば、因果というと、因(原因)と果(結果)です。

仏教においては、総ての事柄、つまり「結果」は、
様々な「要因」から生じている、それが、世の中の原則だそうです。


自分の気に入らない事、都合のよくないことが起こると、
「あの時、あの人が・・・」と、
その原因を一方的に相手だけに当てはめてしまい、
それが、さらにまた悪い原因を作り、
悪い結果を生むそうです。

確かに、人は、自分が相手を苦しめたことは都合よく忘れて、
相手の不備ばかりを責めてしまいがちなのかもしれません。

善くない結果には、善くない行いが根底にあった
逆に、善い結果には、善い行いが根底にあった
少し立ち止まって、考えてみることも大切なのだと...。

2011年1月21日(金) お茶室の小宇宙

2011-01-21 | 静寂
静まり返った世界が好きだ
夜のしじまの中、月を眺め、星を眺めると、生きている事の喜びを感じるのだ。

静かで、造形的な空間の美しさにも魅かれる。
その際たるものが茶室だと思う。

三年ほど前、急に茶室が見たくなった。
そして、京都で、無我夢中であちこちの茶室を巡った。

建仁寺の塔中にある再現された「如庵」(現在、オリジナルは犬山市にある)、「待庵」、「密庵」も拝見した。
大徳寺でも、あちこちの茶室を見せていただき、何人かのご住職さんとお話することができた。掛軸にも、墨跡にも、魅了された。
その気になると、たくさんのチャンスが訪れ、数々の茶室を見学することができた。

・・・路地は、次元を異にする空間への入口のような気がした。
茶室に座っていると、一瞬が永遠にも感じられた。
時の流れが止まるのか、それとも、物凄い速さで流れ去るのか、わからなくなるような空間のように思えた。

狭い広いという物理的な尺度は消えてなくなり、時空を超えた所に私の存在さえも漂い出るかのようだった。

その一瞬が、忘れがたい。