祖父が勤務していた英国の貿易会社
A. CAMERON & CO., LTD.
祖父は母が就学前に亡くなりましたから、私が知るはずもありません。
でも、この件を時々私は思い出します。
何年か前に、テレビ局の方々や横浜歴史関係の方々が見にいらして、コピーをとったりするうちに、写真の数々が見つからなくなっていたのですが、部屋の隅で発見。
念のために何枚かスキャンしました。
A. CAMERON & CO., LTD.は、横浜の居留地(居留地103番地)にありました。
左から7人目が祖父(安室富太郎)です。
パネルになったこの写真の裏に、大正6年12月22日夜『A. CAMERON & CO., LTD./ヱ カメロン商会』一同忘年会 於「福貴楼上撮影」と書いてあります。
半玉さん二人の間で腕を組んで座っているのがジェームズ社長(Ernest William James)。
その右斜め後ろにいるのが祖父です。社内ではウイリアム社長と呼んでいたそうです。
ところが、
英国人が関東大地震に驚き「こんなに危険なところ(横浜)には居られない」と神戸へ移転。
ジェームズ社長の元で経理をしていた祖父は、
長男ながら、横浜の家をすぐ下の妹に預けて、一家で英国人と共に神戸へ赴任しました。
前列右から6人目がJames社長。二列目(和服の女性から数えて5人目が祖父。横浜時代と比べると、年配になっているので時系列がわかる)
一家は4人(長男・次男)で神戸に暮らし、祖父母が40才過ぎてから
(今さら・・・)という時に、母が神戸で生まれました。
祖父が使っていたという英和辞典。よくも残っていたものです。
ちなみに神戸のジェームズ山は、ジェームズ社長がこのあたりにで外国人クラブを率いていたため、その名前が残っています。
何年か前、神戸へ旅した際に図書館や市役所などでカメロン商会や当時の様子を調べた事があります。その時、祖父一家が暮らした家の跡地は震災で更地になっていましたが、母の記憶にある近所の病院や商店などの建物はそのまま残っていました。
この英語の資料は、その時に資料コピーした[Climpses of Hyogo Prefecture 1932]です。
母より15歳年上だった長兄は、17~18歳になると、A. CAMERON で、倉庫番のアルバイトを始めました。
主な輸出品は「絹」や「陶磁器」(九谷、有田、四日市など)、主な輸入品は「鉄」だったそうです。
カメラマンを夢見ていると話すと、カメラをくださったそうです。
神戸の写真をたくさん撮影して、湊川神社で観光客の集合写真を撮るバイトも始めて、
毎日社務所で待機してかなりの枚数の観光客の写真を撮りました。
ところが戦争が始まり、
ウイリアム社長は昭和16年9月に日本を出国。
母の長兄はカメラマンへの夢は破れ・・・最初は南方へ、さらに中国へ出征。
頭に銃弾が入ったまま、命からがらの復員。それでもなんとか天寿を全うしました。
戦時下の若者たちは、多くの方々が亡くなられ、
将来の夢や希望に向かって努力する機会も奪われ、若い命を生きることさえも難しい状況に置かれていたのだと思うと、どうしようもなく悲しい気持ちになります。辛いです。
私はウイリアム社長が日本を出る際に、記念に置いて行ったグレーのブレザーの生地で仕立てたスーツを着て小学校入学。
ドイツ政府観光局時代から写真家の先生に師事して、国内外の写真を撮り、
「英国」の出版社から本を出すことになったのは、
祖父と英国とのつながりが「伏線」となっているのかもしれません。
祖父が京都の隅々までと言えるほど、多くの社寺の御朱印、京都の老舗のスタンプ、昭和9年清滝駅のスタンプなどなどたくさん集めており、奈良、高野山、琵琶湖周辺や関西各地の旅の記録が残っているのも、今考えると、これも私と京都とのご縁の「伏線」に思えます。
奈良、高野山、琵琶湖、関西各地は、私が好んで京都から旅を続けているデスティネーションです!
ちなみに、
ウイリアム社長の邸宅は今、レストランになっています。