昨日休みだったので、今日はなんか月曜日の感じでしたね。今週も始まったかと思ったりしましたが、実は明日も休みなんですね。得した感じですよ。家に帰ったら、お袋が”今日は鶴瓶に乾杯があるな”と。違うっていうの。私だけではなかったようです。
語る会で第一部の最後の方でコメントしようかと思っていたことは次の通りです。
一昨年、去年と5度の手術をしたわけですが、私は入院したって直ぐ治って出てくるもんだとばかり思っていました。
なので、初めて病院に顔を出したので9月23日で、“何か欲しい物ねが”と連絡したところ“嫁”と返ってきました。そのメールに対してどうボケようかと思いましたが結局ボケられず、家で採れた魔除けのほうずきと漬けたみょうが持って行きました。
一時退院した10月12日祝日の月曜日にNAさんとNOさんを連れて家にやって来ました。この納屋に入ったのが初めてでした。その時はNSPのビデオを見るべと吉田が言って見ました。
NSPのリーダーの天野滋さんは、2004年(H17)2月に大腸がんが見つかり、医師から「早ければ6ヶ月、長くても2年以内」と余命宣告を受ける。しかしこれをファンには公表せず活動を続けていた。2005年(H18)7月に脳内出血で享年52歳。
5日後の10月17日の土曜日に、今度はTAさんを連れて来ました。TAさんは高橋研と知り合いで、何度かプロデュースをしてコンサートを開いている方で、その時も高橋研のライブビデオを見ながら、この納屋でやたっらどうなるんだべみたいな感じで。皆で跳ねたりしたら床抜けるべがとか。
10月31日に最後の膵臓の手術の後に、お袋を連れて見舞いに。お袋は膝の人工関節の手術を一昨年にやっていて、吉田はその様子も聞きに家に来たことがありました。その時に吉田の左膝の手術の後を見せてもらいましたが、縫った所が綺麗になっていました。やっぱり若いから直りが早いんだと。その時に妹さんの連絡先を聞きそびれた。
11月23日忘年会について、“いけるかだろうか分からんちんだけど、どっか探してでけねべが。今年はこの場所納屋でやろう。
12月2日“特に今年は大忘年会”
12月8日“決意表明。21日の月曜日には退院出来るやう身体を整えます。”忘年会に“三代目を呼ぶべ。今年結婚したそうだからお祝いやるべ”と自分から(言い出しっぺなので私が頼んだ)三代目にアポ取った。“クラッカー鳴らして、投げ銭やるぞ”
12月11日“音響。買えるのは買ってけで。操作を覚えたい。”
12月14日“日帰りのメール”忘年会にお袋さんも連れてくることになっていたので、日帰りにしたのだと思い、“俺が迎えに行って、帰りもお袋さんを届けるから”“ソファーベットも2階に持って行くから”
12月16日の1時53分にメールが入っていて、その日はもともと朝早い方ですが、より早く目が覚めて、そのメールを確認して、3時34分に“大丈夫だ。ひたすら直るんだと信じろ。年内の退院はちょっと無理なようだな”とまだ、のん気な感じで返信したものの、これはちょっとやばいぞと、だんだんと思ってきて、7時頃に大学の仲間に“吉田が容態悪そうなので忘年会どうする”と開催の有無を皆に確認と併せて、SAに“至急、病院に行って具合見てくれ”と疎遠になったFUにも容態が悪い旨伝えてくれと連絡しました。
昼前にABちゃんからのメールで、“吉田が永眠”と。直ぐさま“ほんとか、そんなことメールで寄こすな”
晩年は何もしてやれず、ほんと悔いが残っています。
葬儀の時、弔辞をNA先生と社長が行いましたが、その後に“用意していたものは以上ですが、皆様方でご準備されている方はおられますか”みたいな話があるかと思ったら、直ぐに弔電に移ってしまい“あれ”って。
文面は弔辞としてたが、お別れの言葉として、おられますかと言った時に“はい”と返事をして読もうとしていたのですよ、ずっと緊張しないようと思いつつ。誰かが“ちょっと待った”と言えば良かったのにと言いましたが、私にはそれを言う勇気はありませんでした。
結局、その後の法事で読まさせていただきましたが。
語る会で第一部の最後の方でコメントしようかと思っていたことは次の通りです。
一昨年、去年と5度の手術をしたわけですが、私は入院したって直ぐ治って出てくるもんだとばかり思っていました。
なので、初めて病院に顔を出したので9月23日で、“何か欲しい物ねが”と連絡したところ“嫁”と返ってきました。そのメールに対してどうボケようかと思いましたが結局ボケられず、家で採れた魔除けのほうずきと漬けたみょうが持って行きました。
一時退院した10月12日祝日の月曜日にNAさんとNOさんを連れて家にやって来ました。この納屋に入ったのが初めてでした。その時はNSPのビデオを見るべと吉田が言って見ました。
NSPのリーダーの天野滋さんは、2004年(H17)2月に大腸がんが見つかり、医師から「早ければ6ヶ月、長くても2年以内」と余命宣告を受ける。しかしこれをファンには公表せず活動を続けていた。2005年(H18)7月に脳内出血で享年52歳。
5日後の10月17日の土曜日に、今度はTAさんを連れて来ました。TAさんは高橋研と知り合いで、何度かプロデュースをしてコンサートを開いている方で、その時も高橋研のライブビデオを見ながら、この納屋でやたっらどうなるんだべみたいな感じで。皆で跳ねたりしたら床抜けるべがとか。
10月31日に最後の膵臓の手術の後に、お袋を連れて見舞いに。お袋は膝の人工関節の手術を一昨年にやっていて、吉田はその様子も聞きに家に来たことがありました。その時に吉田の左膝の手術の後を見せてもらいましたが、縫った所が綺麗になっていました。やっぱり若いから直りが早いんだと。その時に妹さんの連絡先を聞きそびれた。
11月23日忘年会について、“いけるかだろうか分からんちんだけど、どっか探してでけねべが。今年はこの場所納屋でやろう。
12月2日“特に今年は大忘年会”
12月8日“決意表明。21日の月曜日には退院出来るやう身体を整えます。”忘年会に“三代目を呼ぶべ。今年結婚したそうだからお祝いやるべ”と自分から(言い出しっぺなので私が頼んだ)三代目にアポ取った。“クラッカー鳴らして、投げ銭やるぞ”
12月11日“音響。買えるのは買ってけで。操作を覚えたい。”
12月14日“日帰りのメール”忘年会にお袋さんも連れてくることになっていたので、日帰りにしたのだと思い、“俺が迎えに行って、帰りもお袋さんを届けるから”“ソファーベットも2階に持って行くから”
12月16日の1時53分にメールが入っていて、その日はもともと朝早い方ですが、より早く目が覚めて、そのメールを確認して、3時34分に“大丈夫だ。ひたすら直るんだと信じろ。年内の退院はちょっと無理なようだな”とまだ、のん気な感じで返信したものの、これはちょっとやばいぞと、だんだんと思ってきて、7時頃に大学の仲間に“吉田が容態悪そうなので忘年会どうする”と開催の有無を皆に確認と併せて、SAに“至急、病院に行って具合見てくれ”と疎遠になったFUにも容態が悪い旨伝えてくれと連絡しました。
昼前にABちゃんからのメールで、“吉田が永眠”と。直ぐさま“ほんとか、そんなことメールで寄こすな”
晩年は何もしてやれず、ほんと悔いが残っています。
葬儀の時、弔辞をNA先生と社長が行いましたが、その後に“用意していたものは以上ですが、皆様方でご準備されている方はおられますか”みたいな話があるかと思ったら、直ぐに弔電に移ってしまい“あれ”って。
文面は弔辞としてたが、お別れの言葉として、おられますかと言った時に“はい”と返事をして読もうとしていたのですよ、ずっと緊張しないようと思いつつ。誰かが“ちょっと待った”と言えば良かったのにと言いましたが、私にはそれを言う勇気はありませんでした。
結局、その後の法事で読まさせていただきましたが。