このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。
戦時体験記(3)
朝鮮感興南道恵山邑恵山鎮里。鴨緑江の朝鮮と満州の国境の田舎町。恵山鎮の駅は終着駅。ということは始発の駅でもある。
私が居た頃の恵山鎮(朝鮮側)と長白(中国)の国境の橋・恵長橋。
10年前に中国側から写した恵長橋
忘れもしない三月の中ごろで、気温は未だ零下十六度を指していた。十年ぶりに授かったまだ幼い末の妹は母の背中におぶさって、親子七人で駅に向った。二番列車で時刻は八時半を指していた。
防寒をしていて寒さには慣れているが早朝は堪える。父と母は、兄と何かを話している。ここは高度が高くジグザグに登ったり、ループ線が有るので前二輛後ろ一輛の三輛の機関車が付いている。機関車の煙と蒸気が多くなる。ぼちぼち発車だ。
突然、兄が私の前にやって来て、「俺は恐らく生きては帰れないだろう。お父さまとお母さまのこと頼んだぞ」と直立不動で敬礼をするのだ。私は何も言えず、黙ってうなずいた。
最後部の列車の後ろに身じろぎもせず立っている兄。列車が動きだすと敬礼をして帽子を振りはじめた。駅を出て二百メートルも走るとトンネルに入る。母は末妹を背負ってホームの最先端まで小走りに走って、列車が見えなくなっても手を振っている。妹を背負った母の小さな背中が小刻みに震えている。泣いて居るのだろうか。この時、父が家族だけで見送ろうと言った意味が判ったような気がした。恐らく大勢の見送りが有れば、母は泣けなかっただろうと今になって思うのである。母は気持ちの整理が付くのに二、三ヶ月はかかったようだった。
運命の悪戯か、この両親もソ連が不可新条約を破棄して侵入して来る一週間前に、ソ連と満州と朝鮮の国境の阿吾地に転勤になり、逃げ遅れて南には下がれず満州に逃避中死んでいる。
幼い弟妹は、両親と末妹の死後、満州の荒野を彷徨い歩いたそうだ。そして軍隊は自分達を守ってくれないということを身を持って味わっている。勝ち戦で軍に余力が有れば市民を守れるだろう。しかし、戦場で命のやり取りをしている時には、市民は邪魔なだけだ。あべこべに自殺を強要するだろう。沖縄、サイパンが良い例である。
もし日露戦争に負けていたら日本はどうなっていただろう。恐らく今のような日本は無かっただろう。想像するだけでも恐ろしい。ひょっとしたら今の中国や朝鮮の国民と同じことを言っているか、ソ連圏内の属国の国々と同じ運命を辿っているかもわからない。
どこかの大臣が、憲法を改正して自衛隊を正式な軍隊にしなければ国民は守れないと言った。自分が大臣室に座ったままで自衛隊員にイラク派遣を命令する。それなら自分が率先して先頭に立って行きたまえと言いたい。命令だけなら私でも出来る。
近年は戦争経験者が少なくなった。国家の指導者も戦争体験者は全く居ないのと同じである。戦争がどれだけ悲惨なものか全く知らない。軍隊を持つということは、昔犯した過ちを日本が二度犯すことになる可能性を持つことなのだ。
追記
昨日、東京大空襲の遺族112人が戦争責任を問う為国を提訴した。
考えると、なぜもっと早くと思わないでもないが、戦争について改めて考える時間を与えてくれたと思う。
戦争とは何だろう。戦後、戦争で戦死した軍人には恩給というものが支給された。しかし、これも階級によって差別がある。新兵の星一つの軍人と将軍と命の重みは違うのだろうか。
命の重みはこの世に生きているものは皆同じではないだろうか。
恩給が年金という名に変っても、日本国内で安全に暮らしているキャリアの職業軍人はものすごく高額なのである。
そして、働き手を失った遺族とこれら生きているキャリア軍人とどう違うのだろうか。
戦争は国民が始めるのではない。国家の政治に関わる人間が始めるのであるが、何時も言っているように一番被害を被るのは、社会で細々ながら平和に暮らしている庶民なのだ。
だから東京ばかりでなく、世界各地で戦争為、被害にあった国民いや他国の民族も軍人同様、国家は責任を負うべきだと思う。
戦争とは、国民のの命を担保にしてもらわなければ成立しない行為なのだ、国家として全記述の様な責任を取れないものなら現憲法は守るべきだ。
不思議なことにわが国では、その記念日にならなければ其の当時のことは表に出ない。
今年も東京大空襲の遺族112人が戦争責任を問う為国を提訴した記事を見て、ああ、東京大空襲の日だと思い感じたことを書いてみた。
戦時体験記(3)
朝鮮感興南道恵山邑恵山鎮里。鴨緑江の朝鮮と満州の国境の田舎町。恵山鎮の駅は終着駅。ということは始発の駅でもある。
私が居た頃の恵山鎮(朝鮮側)と長白(中国)の国境の橋・恵長橋。
10年前に中国側から写した恵長橋
忘れもしない三月の中ごろで、気温は未だ零下十六度を指していた。十年ぶりに授かったまだ幼い末の妹は母の背中におぶさって、親子七人で駅に向った。二番列車で時刻は八時半を指していた。
防寒をしていて寒さには慣れているが早朝は堪える。父と母は、兄と何かを話している。ここは高度が高くジグザグに登ったり、ループ線が有るので前二輛後ろ一輛の三輛の機関車が付いている。機関車の煙と蒸気が多くなる。ぼちぼち発車だ。
突然、兄が私の前にやって来て、「俺は恐らく生きては帰れないだろう。お父さまとお母さまのこと頼んだぞ」と直立不動で敬礼をするのだ。私は何も言えず、黙ってうなずいた。
最後部の列車の後ろに身じろぎもせず立っている兄。列車が動きだすと敬礼をして帽子を振りはじめた。駅を出て二百メートルも走るとトンネルに入る。母は末妹を背負ってホームの最先端まで小走りに走って、列車が見えなくなっても手を振っている。妹を背負った母の小さな背中が小刻みに震えている。泣いて居るのだろうか。この時、父が家族だけで見送ろうと言った意味が判ったような気がした。恐らく大勢の見送りが有れば、母は泣けなかっただろうと今になって思うのである。母は気持ちの整理が付くのに二、三ヶ月はかかったようだった。
運命の悪戯か、この両親もソ連が不可新条約を破棄して侵入して来る一週間前に、ソ連と満州と朝鮮の国境の阿吾地に転勤になり、逃げ遅れて南には下がれず満州に逃避中死んでいる。
幼い弟妹は、両親と末妹の死後、満州の荒野を彷徨い歩いたそうだ。そして軍隊は自分達を守ってくれないということを身を持って味わっている。勝ち戦で軍に余力が有れば市民を守れるだろう。しかし、戦場で命のやり取りをしている時には、市民は邪魔なだけだ。あべこべに自殺を強要するだろう。沖縄、サイパンが良い例である。
もし日露戦争に負けていたら日本はどうなっていただろう。恐らく今のような日本は無かっただろう。想像するだけでも恐ろしい。ひょっとしたら今の中国や朝鮮の国民と同じことを言っているか、ソ連圏内の属国の国々と同じ運命を辿っているかもわからない。
どこかの大臣が、憲法を改正して自衛隊を正式な軍隊にしなければ国民は守れないと言った。自分が大臣室に座ったままで自衛隊員にイラク派遣を命令する。それなら自分が率先して先頭に立って行きたまえと言いたい。命令だけなら私でも出来る。
近年は戦争経験者が少なくなった。国家の指導者も戦争体験者は全く居ないのと同じである。戦争がどれだけ悲惨なものか全く知らない。軍隊を持つということは、昔犯した過ちを日本が二度犯すことになる可能性を持つことなのだ。
追記
昨日、東京大空襲の遺族112人が戦争責任を問う為国を提訴した。
考えると、なぜもっと早くと思わないでもないが、戦争について改めて考える時間を与えてくれたと思う。
戦争とは何だろう。戦後、戦争で戦死した軍人には恩給というものが支給された。しかし、これも階級によって差別がある。新兵の星一つの軍人と将軍と命の重みは違うのだろうか。
命の重みはこの世に生きているものは皆同じではないだろうか。
恩給が年金という名に変っても、日本国内で安全に暮らしているキャリアの職業軍人はものすごく高額なのである。
そして、働き手を失った遺族とこれら生きているキャリア軍人とどう違うのだろうか。
戦争は国民が始めるのではない。国家の政治に関わる人間が始めるのであるが、何時も言っているように一番被害を被るのは、社会で細々ながら平和に暮らしている庶民なのだ。
だから東京ばかりでなく、世界各地で戦争為、被害にあった国民いや他国の民族も軍人同様、国家は責任を負うべきだと思う。
戦争とは、国民のの命を担保にしてもらわなければ成立しない行為なのだ、国家として全記述の様な責任を取れないものなら現憲法は守るべきだ。
不思議なことにわが国では、その記念日にならなければ其の当時のことは表に出ない。
今年も東京大空襲の遺族112人が戦争責任を問う為国を提訴した記事を見て、ああ、東京大空襲の日だと思い感じたことを書いてみた。