続・戦時体験者の証言 第一章 第二章・に書いていますが、
父の勤めている銀行の朝鮮の小使いさん(現在は用務員でしようか)のたっての頼みで、キュチュベ(娘さん)のお手伝いを二度雇いました。来た時は垢だらけで汚いキュチュベさんも汚いままでは困るので、こぎれいにすると別嬪さん。盆、正月に里帰りさすと、一月ほどして親が引き取りにきました。奇麗になった娘を売るというのです。
泣きながら連れていかれましたが、仕方がありません。同じことが二度続いて母は,朝鮮人の娘さんを高値に売られるために雇ったのではないと、それからは頼まれても断っていたようです。
その他、吉州と恵山鎮では売られていく娘さんを見ていますが,連れていった女衒は同じ朝鮮民族の方でした。
これは、朝鮮人が貧困に追いやられたからだと言うのも当たっていると思います。
併し、朝鮮の方よりは少ないと思いますが日本人の娘さんも親の借金で売られ(年季奉公)ています。その証拠は、当時の日本人専門遊郭には日本人ばかりです。
確かに日本人の方が経済的にはものすごく恵まれ、朝鮮人は貧困者が多いと言うのも間違いない事実です。
しかし、朝鮮のヤンバンサラミ(大金持ち)も結構居られ、このお金持ちの朝鮮人の家にも遊びにいったことがありますが、すごいですよ。寝具に刺繍がされていてもの凄くお金持ちで今でいうセレブです。母はびっくりしていました。
私の父親の勤めていた銀行の支店長は東大出の朝鮮の方でしたし、この体験記にも書きました色長(市長)さんも朝鮮の方でしたから、全、朝鮮民族を差別したとも思えません。
だから数は少ないと思いますが、お金持ちも居たのは間違いないことです。
戦時中、従軍兵士相手の遊郭(現地でどのような呼び方をしていたのか分かりませんから一般的呼び方遊郭と読むことにいたします)が有ったのも確実です。海軍では(酒保)なる名前のものがあったと記憶しています
そして其処には好むと好まざるに拘わらず、体を提供していた女性もいたのも事実です。その中に日本の女性が居たのは、何度も書きますが引揚げて帰って来て一時落ち着き先になった家の娘さんが、戦地で遊女をされていて日本人は将校相手だったとの話も本人から聞いたのですから事実と思います。
ある時、この方が当時の話を従兄弟の奥さんに話しているのを聞き耳たてて聞いていましたが、身を沈めた為にお金はもの凄く溜まったが、朝鮮人も皆お金を貯めて、戦争が終わったら一生食べていけると楽しみにしていた。これは彼女の話ですが、彼女の札束は現実に見ているので間違いない事実なのと、その中から私はお小遣いを貰った現実があります。話の内容からして、戦地の軍人さんは、いつ命を落とすか分からないので、気前が良かったらしいのです。
今、この女性について考えると、もし年季奉公でしたら戦後すぐには自宅に戻れては居なかったと思いますから、志願されて行かれたのではないでしょうか挺身隊という言葉も聞いたような気がしますが遠い昔ではっきりしません。
また、弟の話では終戦直後満州で、両親がまだ元気な頃、三人の朝鮮の遊女が、中国に残るか朝鮮に帰るか迷っていたのを「黙っていたら仕事の内容は判らないのだから朝鮮に帰った方がいいと」逃がしてあげたが、お金を沢山持ってたと父驚いていたそうです。
と言うことは遊ぶ施設が有ったのも事実。そこで働いていた女性の居たのも事実だと言うことです。
問題は、これら女性をどう集めたかが問題なのですね。
以下次回(二、三日うちに書き込みます)
父の勤めている銀行の朝鮮の小使いさん(現在は用務員でしようか)のたっての頼みで、キュチュベ(娘さん)のお手伝いを二度雇いました。来た時は垢だらけで汚いキュチュベさんも汚いままでは困るので、こぎれいにすると別嬪さん。盆、正月に里帰りさすと、一月ほどして親が引き取りにきました。奇麗になった娘を売るというのです。
泣きながら連れていかれましたが、仕方がありません。同じことが二度続いて母は,朝鮮人の娘さんを高値に売られるために雇ったのではないと、それからは頼まれても断っていたようです。
その他、吉州と恵山鎮では売られていく娘さんを見ていますが,連れていった女衒は同じ朝鮮民族の方でした。
これは、朝鮮人が貧困に追いやられたからだと言うのも当たっていると思います。
併し、朝鮮の方よりは少ないと思いますが日本人の娘さんも親の借金で売られ(年季奉公)ています。その証拠は、当時の日本人専門遊郭には日本人ばかりです。
確かに日本人の方が経済的にはものすごく恵まれ、朝鮮人は貧困者が多いと言うのも間違いない事実です。
しかし、朝鮮のヤンバンサラミ(大金持ち)も結構居られ、このお金持ちの朝鮮人の家にも遊びにいったことがありますが、すごいですよ。寝具に刺繍がされていてもの凄くお金持ちで今でいうセレブです。母はびっくりしていました。
私の父親の勤めていた銀行の支店長は東大出の朝鮮の方でしたし、この体験記にも書きました色長(市長)さんも朝鮮の方でしたから、全、朝鮮民族を差別したとも思えません。
だから数は少ないと思いますが、お金持ちも居たのは間違いないことです。
戦時中、従軍兵士相手の遊郭(現地でどのような呼び方をしていたのか分かりませんから一般的呼び方遊郭と読むことにいたします)が有ったのも確実です。海軍では(酒保)なる名前のものがあったと記憶しています
そして其処には好むと好まざるに拘わらず、体を提供していた女性もいたのも事実です。その中に日本の女性が居たのは、何度も書きますが引揚げて帰って来て一時落ち着き先になった家の娘さんが、戦地で遊女をされていて日本人は将校相手だったとの話も本人から聞いたのですから事実と思います。
ある時、この方が当時の話を従兄弟の奥さんに話しているのを聞き耳たてて聞いていましたが、身を沈めた為にお金はもの凄く溜まったが、朝鮮人も皆お金を貯めて、戦争が終わったら一生食べていけると楽しみにしていた。これは彼女の話ですが、彼女の札束は現実に見ているので間違いない事実なのと、その中から私はお小遣いを貰った現実があります。話の内容からして、戦地の軍人さんは、いつ命を落とすか分からないので、気前が良かったらしいのです。
今、この女性について考えると、もし年季奉公でしたら戦後すぐには自宅に戻れては居なかったと思いますから、志願されて行かれたのではないでしょうか挺身隊という言葉も聞いたような気がしますが遠い昔ではっきりしません。
また、弟の話では終戦直後満州で、両親がまだ元気な頃、三人の朝鮮の遊女が、中国に残るか朝鮮に帰るか迷っていたのを「黙っていたら仕事の内容は判らないのだから朝鮮に帰った方がいいと」逃がしてあげたが、お金を沢山持ってたと父驚いていたそうです。
と言うことは遊ぶ施設が有ったのも事実。そこで働いていた女性の居たのも事実だと言うことです。
問題は、これら女性をどう集めたかが問題なのですね。
以下次回(二、三日うちに書き込みます)