戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から
先日、朝日新聞に韓国の方が慰安婦についての投稿されていました。(クリックして下さい)
それと、前回の朝まで生テレビですが、初の女性ばかりの出演者。その中のジャーナリストの高木未貴さんの発言。それに関西版の番組の中でコラムニストの金美齢女史の発言を聞いて、私も自分の見てきたこと聞いたことからこの問題について触れてみたいと思います。
長くなるものか短かいものか見当が付きませんので、何度かに分けて送るとだけ申しておきます。
慰安婦についていろいろ語られています。
慰安婦と言う言葉は1973年の千田夏光の著書のなかに『従軍慰安婦』という名前が登場して、それが定着したと聞き及んでいます。
昔は公娼(公の娼婦)は法的にも認められていました。娼婦を辞書で引いてみると之だけ多くの隠語が有るとは私も驚きました。
しょうふ【娼婦】
娼妓(しょうぎ) 売女(ばいじょ) 売春婦 売笑婦 醜業婦 賎業(せんぎょう)婦 淫売(いんばい)婦 公娼 私娼 街娼 夜の女 街の女 闇(やみ)の女 夜鷹(よたか) 売女(ばいた) パンパン ▽遊女 大夫(たゆう) 花魁(おいらん) 傾城(けいせい) 傾国 女郎 ⇒ゆうじょ【遊女】
この中で無いのは(ピーさん)です。これは兵士相手の娼婦のことを言っていたと思います。ひょっとしたら朝鮮だけの俗語かもと思っていましたら、護憲+の仲間にご存じの方がいらっしゃいましたから、当時の内地(朝鮮時代に日本列島をこう読んでいた)でも使っていたと思います。
また(パンパン)(夜の女)も戦後生まれた言葉で、戦後生活に困った女性が春を売り、生計の足しにしたとのでしょう。私は此のパンパンと呼ばれた女性のおかげで、占領軍の兵士からレイプなどの被害が少なかったのではないかと思っています。
なぜなら、終戦直後、京城で下宿を追い出されお金も底をつき行くところがなく、従兄弟の家に世話になっている時に、酔っぱらった米兵が二人上がり込んで従兄弟の奥さんをレイプしかけたことがあります。男たち皆で阻止している間に従兄弟の奥さんは窓から外に逃げ事なきをえましたが、私は顔が晴れ上がるほど殴られ一週間ほど腫れが引きませんでした。
恐らく一番はじめに進駐してきた兵隊は戦場を経験しているのでしょう、気が荒かった気がします。この時、殺されるのではないかと一瞬思いました。
人から聞いた話を書くのは嫌いですが、戦後一時期何箇所か仕事を変えましたが復員軍人さんは必ず居られ、戦争の話をよく聞かされました。その中でお一人だけレイプの話をされた事があります。いつ死ぬか分からないので焼け糞でレイプしたが、こうして生きて帰ってくると、もの凄く抵抗されてのレイプは後味の悪さが残って、と話された時、従兄弟の奥さんのことを思い出しました。
また、復員軍人の方のお一人は戦友が、少年と思い気を許した隙にその子に殺されたと言って、戦争では女子供にも気が許せないと言う事は、子供女性でも敵だという認識をしないと戦えないと言うことでしょう。だから戦争は悲惨で避けなければいけないのではないでしょうか。
私は戦地を経験していないので分かりません。しかし戦争が続いていましたら、当時の私たちは一人一殺という教育を受けていましたから、私も此の中国少年と同じことをすると思います。
当時は敵兵を殺すのに何の疑念もありませんでしたから。
以下・次回。
先日、朝日新聞に韓国の方が慰安婦についての投稿されていました。(クリックして下さい)
それと、前回の朝まで生テレビですが、初の女性ばかりの出演者。その中のジャーナリストの高木未貴さんの発言。それに関西版の番組の中でコラムニストの金美齢女史の発言を聞いて、私も自分の見てきたこと聞いたことからこの問題について触れてみたいと思います。
長くなるものか短かいものか見当が付きませんので、何度かに分けて送るとだけ申しておきます。
慰安婦についていろいろ語られています。
慰安婦と言う言葉は1973年の千田夏光の著書のなかに『従軍慰安婦』という名前が登場して、それが定着したと聞き及んでいます。
昔は公娼(公の娼婦)は法的にも認められていました。娼婦を辞書で引いてみると之だけ多くの隠語が有るとは私も驚きました。
しょうふ【娼婦】
娼妓(しょうぎ) 売女(ばいじょ) 売春婦 売笑婦 醜業婦 賎業(せんぎょう)婦 淫売(いんばい)婦 公娼 私娼 街娼 夜の女 街の女 闇(やみ)の女 夜鷹(よたか) 売女(ばいた) パンパン ▽遊女 大夫(たゆう) 花魁(おいらん) 傾城(けいせい) 傾国 女郎 ⇒ゆうじょ【遊女】
この中で無いのは(ピーさん)です。これは兵士相手の娼婦のことを言っていたと思います。ひょっとしたら朝鮮だけの俗語かもと思っていましたら、護憲+の仲間にご存じの方がいらっしゃいましたから、当時の内地(朝鮮時代に日本列島をこう読んでいた)でも使っていたと思います。
また(パンパン)(夜の女)も戦後生まれた言葉で、戦後生活に困った女性が春を売り、生計の足しにしたとのでしょう。私は此のパンパンと呼ばれた女性のおかげで、占領軍の兵士からレイプなどの被害が少なかったのではないかと思っています。
なぜなら、終戦直後、京城で下宿を追い出されお金も底をつき行くところがなく、従兄弟の家に世話になっている時に、酔っぱらった米兵が二人上がり込んで従兄弟の奥さんをレイプしかけたことがあります。男たち皆で阻止している間に従兄弟の奥さんは窓から外に逃げ事なきをえましたが、私は顔が晴れ上がるほど殴られ一週間ほど腫れが引きませんでした。
恐らく一番はじめに進駐してきた兵隊は戦場を経験しているのでしょう、気が荒かった気がします。この時、殺されるのではないかと一瞬思いました。
人から聞いた話を書くのは嫌いですが、戦後一時期何箇所か仕事を変えましたが復員軍人さんは必ず居られ、戦争の話をよく聞かされました。その中でお一人だけレイプの話をされた事があります。いつ死ぬか分からないので焼け糞でレイプしたが、こうして生きて帰ってくると、もの凄く抵抗されてのレイプは後味の悪さが残って、と話された時、従兄弟の奥さんのことを思い出しました。
また、復員軍人の方のお一人は戦友が、少年と思い気を許した隙にその子に殺されたと言って、戦争では女子供にも気が許せないと言う事は、子供女性でも敵だという認識をしないと戦えないと言うことでしょう。だから戦争は悲惨で避けなければいけないのではないでしょうか。
私は戦地を経験していないので分かりません。しかし戦争が続いていましたら、当時の私たちは一人一殺という教育を受けていましたから、私も此の中国少年と同じことをすると思います。
当時は敵兵を殺すのに何の疑念もありませんでしたから。
以下・次回。