今日の午前中は民主党の衆議院議員候補「もとむら賢太郎」さんの
事務所開きにひとりで行って来ました。
事務所開きといっても、大仰なことはなく、県会議員や
市会議員、藤井裕久衆議院議員の挨拶があり、
「これから頑張ろう!」という集会でした。
民主党に風が吹いているといっても、自民党の今までの
長い人脈を考えれば、たくさんの皆さんの思いの結集がなければ
勝てないとの事でした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「5月28日」と今となっては旧聞ですが、
衆議院選に立候補予定の民主党のもとむら賢太郎さんの企画で、
「女性の声をもっと政治に!」という会合が開かれました。
活発に、それ以上に切実に、女性ならではの地に足のついた
意見が交わされました。身近な問題ばかりですから
みなさん、共感することが多く、会場は熱気がむんむんでした。
それは党派を越えた家庭を預かる女性たちの共通の悩み、悲鳴が
参加者から語られました。
例を挙げると、「介護4と介護1の親を抱えていて、不登校の
子どももいる。介護4の親を特養に申し込んでも300人待ちで
入れる可能性は少ない。生活保護世帯なら入れるかと聞いても
入れないそうだ。もうどうして良いか分らない」と訴える方。
「今現在、84歳の介護度5の親を抱えて、1日も外出できない」
という方もいらっしゃいました。
みんな身を乗り出して聞いていました。
今、自宅で介護なさっている方も、他にも何人もいらっしゃいました。
聴いている側も、その内必ず自分達も介護される側になるのですから、
本気で介護している方も心の底からの叫びを共有したのです。
介護する側の手一杯の悲鳴。
ほんの数年先には、確実に介護を受ける側にもなる私たち高齢者の不安。
受け皿がまったく無いような状況で、どうにかなるなんて楽観は無理です。
「私」の部分では支えるのも限界があります。
個人で出来るものと、公しか出来ないもの、両方必要なのですよね。
今の私は長い文章が書けないので、たった一つ、
政策とは違うけれど、一番印象的だった話を書きます。
出席した女性の生の声がどんどんと出て、結果 時間オーバーして
もとむら賢太郎さんの持ち時間が殆どなくなってしまいました(笑)
短い時間でのもとむらさんのお話しです。
もとむら賢太郎さんは生まれは東京の中野区だそうです。
彼が生まれて直ぐに、両親は離婚。1歳になるかならずやです。
お母さんは息子と共に相模原市に移り、女手ひとつで居酒屋をやって
彼を育てたそうです。
居酒屋の2階の部屋で、母親が夜遅く仕事を終えて彼のもとに
戻るのを待っている日々。
ところが時々、母親はいつまで待っても帰って来ない。
そんなとき賢太郎少年は心配で心配で、母親を求めて商店街中を
泣きながら探し回ったそうです。
「母親は、店のお客と飲みに出かけていたんです」と苦笑と共に
母への限りない愛情と感謝を込めて、そう語っておりました。
居酒屋さんを開いているなら、たまにはお客の付き合いで
飲みに行かねばならない時もあったのでしょう。
聴いている私達は、泣き濡れた賢太郎少年を想像しながら、
つい、同情と共感のクスクス笑い。
顔を紅潮させて「ぼくはそういう母に一生懸命育てられたんです。
母のことを話すとき、涙が出てしまうのです」と声を詰まらせました。
今の国会には、お育ちの良い方ばかりが目立ちます。
恵まれた環境の中から出てくる議員さんも必要ですが、
この生きるのに懸命な母親の元、本物の庶民の感覚を
自然に身に着けて育った彼のような政治家を、
ぜひ国政に出したいと、心から願いました。
苦労して育った人にしか、見えない視点と覚悟がある。
最初の国政選挙が、このような厳しい怒涛のような情報戦、
中傷戦の中で行われるのもいい洗礼になるのでしょう。
反面教師の事例をよく見極めてほしい。
駅頭演説会ではじめてお目に掛かったときとは大違いでした。
圧倒されるような情熱と、気迫と、危機感が伝わって来ました。
これは提灯記事ではありません。
家庭破壊もしかねない多くの事態を抱えて苦闘している女性達の声。
外科や産婦人科など、特定の部署の医師の不足、病院の閉鎖の問題など、
私自身が生の状態で聞いて、あらためて政府の長い時間の無策を
感じた日でもありました。
事務所開きにひとりで行って来ました。
事務所開きといっても、大仰なことはなく、県会議員や
市会議員、藤井裕久衆議院議員の挨拶があり、
「これから頑張ろう!」という集会でした。
民主党に風が吹いているといっても、自民党の今までの
長い人脈を考えれば、たくさんの皆さんの思いの結集がなければ
勝てないとの事でした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「5月28日」と今となっては旧聞ですが、
衆議院選に立候補予定の民主党のもとむら賢太郎さんの企画で、
「女性の声をもっと政治に!」という会合が開かれました。
活発に、それ以上に切実に、女性ならではの地に足のついた
意見が交わされました。身近な問題ばかりですから
みなさん、共感することが多く、会場は熱気がむんむんでした。
それは党派を越えた家庭を預かる女性たちの共通の悩み、悲鳴が
参加者から語られました。
例を挙げると、「介護4と介護1の親を抱えていて、不登校の
子どももいる。介護4の親を特養に申し込んでも300人待ちで
入れる可能性は少ない。生活保護世帯なら入れるかと聞いても
入れないそうだ。もうどうして良いか分らない」と訴える方。
「今現在、84歳の介護度5の親を抱えて、1日も外出できない」
という方もいらっしゃいました。
みんな身を乗り出して聞いていました。
今、自宅で介護なさっている方も、他にも何人もいらっしゃいました。
聴いている側も、その内必ず自分達も介護される側になるのですから、
本気で介護している方も心の底からの叫びを共有したのです。
介護する側の手一杯の悲鳴。
ほんの数年先には、確実に介護を受ける側にもなる私たち高齢者の不安。
受け皿がまったく無いような状況で、どうにかなるなんて楽観は無理です。
「私」の部分では支えるのも限界があります。
個人で出来るものと、公しか出来ないもの、両方必要なのですよね。
今の私は長い文章が書けないので、たった一つ、
政策とは違うけれど、一番印象的だった話を書きます。
出席した女性の生の声がどんどんと出て、結果 時間オーバーして
もとむら賢太郎さんの持ち時間が殆どなくなってしまいました(笑)
短い時間でのもとむらさんのお話しです。
もとむら賢太郎さんは生まれは東京の中野区だそうです。
彼が生まれて直ぐに、両親は離婚。1歳になるかならずやです。
お母さんは息子と共に相模原市に移り、女手ひとつで居酒屋をやって
彼を育てたそうです。
居酒屋の2階の部屋で、母親が夜遅く仕事を終えて彼のもとに
戻るのを待っている日々。
ところが時々、母親はいつまで待っても帰って来ない。
そんなとき賢太郎少年は心配で心配で、母親を求めて商店街中を
泣きながら探し回ったそうです。
「母親は、店のお客と飲みに出かけていたんです」と苦笑と共に
母への限りない愛情と感謝を込めて、そう語っておりました。
居酒屋さんを開いているなら、たまにはお客の付き合いで
飲みに行かねばならない時もあったのでしょう。
聴いている私達は、泣き濡れた賢太郎少年を想像しながら、
つい、同情と共感のクスクス笑い。
顔を紅潮させて「ぼくはそういう母に一生懸命育てられたんです。
母のことを話すとき、涙が出てしまうのです」と声を詰まらせました。
今の国会には、お育ちの良い方ばかりが目立ちます。
恵まれた環境の中から出てくる議員さんも必要ですが、
この生きるのに懸命な母親の元、本物の庶民の感覚を
自然に身に着けて育った彼のような政治家を、
ぜひ国政に出したいと、心から願いました。
苦労して育った人にしか、見えない視点と覚悟がある。
最初の国政選挙が、このような厳しい怒涛のような情報戦、
中傷戦の中で行われるのもいい洗礼になるのでしょう。
反面教師の事例をよく見極めてほしい。
駅頭演説会ではじめてお目に掛かったときとは大違いでした。
圧倒されるような情熱と、気迫と、危機感が伝わって来ました。
これは提灯記事ではありません。
家庭破壊もしかねない多くの事態を抱えて苦闘している女性達の声。
外科や産婦人科など、特定の部署の医師の不足、病院の閉鎖の問題など、
私自身が生の状態で聞いて、あらためて政府の長い時間の無策を
感じた日でもありました。
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