10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか

2018年03月10日 | 政治社会問題
10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか
3/10(土) 13:00配信 現代ビジネス
10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか
写真:現代ビジネス
 頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

 一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。

10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか
写真:現代ビジネス
10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」
 1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。

 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。

 この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや、そうならなかった。空襲の直後、西尾壽造・東京都長官(現在の知事にあたる)と坂信弥・警視総監も、都民にむけた告諭で次のように呼びかけた。

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【東京都長官と警視総監の連名による告諭】
・罹災者の救護には万全を期している。
・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。
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 「恐れるな」など無理な話だ。しかし、空襲による悲惨な被害実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったはずである。

 さらに、この日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼びかけた。

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【小磯首相のラジオ演説】
・敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります。
・断じて一時の不幸に屈することなく、国民が征戦目的の達成に邁進することを切望する。
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 家族と自宅を失って慟哭する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と呼びかけている。これ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は示されていない。

 2日後には名古屋、その翌日には大阪が大空襲の被害を受けた。いずれも約280機の爆撃機が襲来して猛烈な被害を生じた。

 3月15日付の読売報知には、陸軍当局が示した大空襲の教訓として「やはり初期防火の徹底である」という勇ましい呼びかけを掲載。同日の朝日新聞は、「初期防火と延焼防止 最後まで頑張れ 焼夷攻撃に怯まず敢闘」と一面に掲載した。



夜間大空襲の明朝に、内務省が発した命令は
 空襲の夜が明けて、東京に広大な焼け野原が広がった。この光景をみて直ちに、防空対策を担当する内務省が発した命令がある。

 残念ながら、「避難せよ、身を守れ」という布告ではなく、科学的見地から「このように消火せよ」という指示でもない。空襲予告ビラを所持するなという命令であった。

 空襲予告ビラとは、全国各地で上空から米軍機が散布したものである。時期により内容が異なり、1945年7月に散布されたものは、このように攻撃対象都市を列挙していた。

 なお、ここに書かれた12都市は、1945年7月から8月にかけて予告通りに空襲を受けている(高岡市の空襲被災地域は現在は射水市内となっている)。

 予告ビラが初めて散布されたのは、東京大空襲の1ヵ月前、1945年2月17日であった。関東から東海地方までの広範囲で、落ちたビラを恐る恐る拾ったという体験談が多く残っている。

 この空襲予告を国民が真に受けると、不安や動揺が広がり、都市から大勢が逃げ出す事態が起きたり、政府批判・戦争批判の世論が高まりかねない。

 そこで、憲兵司令部は火消しに走った。

 「(ビラは)荒唐無稽だ」「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表し、それが新聞各紙にも掲載された。

 ところが1ヵ月後の東京大空襲では、空襲予告ビラに書かれたとおり甚大な被害が出た。今後も空襲予告ビラの散布は繰り返されるだろう。政府としては「次はこの街が攻撃される」という動揺が広がるのを何としても避けたい。

 そこで、東京大空襲の日に、「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めてしまった(内務省令「敵の文書、図書等の届出等に関する件」)。

 避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである。

 本来は、空襲予告ビラが撒かれたら、それを隠すのではなく、むしろ周知して「この街から逃げてください」と知らせるべきではないか。そうすれば多数の生命が助けられたのではないか。悔やまれてならない。


焦土に立つ議事堂で「逃げろと言っていただきたい」
 東京大空襲の翌日(3月11日)、午前10時9分から貴族院本会議、午後3時9分からは衆議院本会議が始まった。議事堂の周囲は、1月27日の銀座空襲と前日の東京大空襲により焦土と化していた。

 貴族院では小磯首相が演説した。空襲で傷ついた国民にムチを打つように、「職場に、防衛に、輸送に、国民ことごとく戦列につき、断じて我が国体と我が国土とを護り抜かんこと」を要望した。

 各議員からの質問は、国際情勢や本土決戦をめぐり政府を礼賛する内容が多かったが、最後に登壇した大河内輝耕(おおこうち・きこう)の質問は様相が違った。次のように政府の空襲対策を批判したのである。

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政府のやることが全て後手に回っている。例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。
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 学童以外の疎開を制限してきた政府方針を真っ向から批判する。空襲の翌日、焼け跡の異臭が漂うなかで、1人の人間として政府の方針を批判せずにはいられなかったのであろう。

 大河内議員は、3月14日にも貴族院本会議で登壇した。大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対し、「簡単に質問をいたします」と立ち上がり、次のように迫った。

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私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。
防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。
私は、人を助ける方がよいと思う。
消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。
内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。
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 避難を禁止して消火義務を負わせる防空体制を根本から否定している。この大河内議員は、東条英機首相による選挙干渉を議会で批判するなど、時流に流されない立ち位置を維持してきた稀有な議員であった。

 これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。

 東京大空襲の惨状をみても、国民を守るための軌道修正をしようという姿勢は皆無であった。


たとえ自衛戦争だったとしても
 それから敗戦までの5ヵ月間、全国の地方都市も空襲を受けていくが、政府は「逃げずに火を消せ」という防空法による方針を変更しなかった。

 広島・長崎の惨事をみた後には「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していた(過去記事を参照)。

 日本が「我が国の権益を守るための自衛戦争だ」という名目で始めた戦争だったが、最終的には、国民が命を捨てて国を守るよう命じられた。

 たとえ自衛戦争だったとしても、国民を守るのではなく、国民が犠牲となって国家を守るという意味での「自衛」だったように思う。

 こうした過去の事実は、現代の私たちにも示唆を与える。

 憲法改正や自衛権行使のあり方が問い直されているが、もし将来、国家の自衛のために国民が愛国心をもって「国を守る義務」を負わされるとすれば、それは過去の歴史の繰り返しになってしまう。

 自民党が2012年4月に発表した憲法改正案は、国民は誇りと気概をもって自ら国を守るものだと明記している。それが道徳となり空気となることが恐ろしい。

 かつて日本政府は「戦争には必ず勝てる」「空襲の被害は軽微だ」という嘘を重ねた。それが国民総動員の原動力となった。

 今の政府は、同じような過ちを繰り返さないだろうか。

 ニュースをみれば、資料の廃棄(南スーダン自衛隊派遣、加計学園問題)や、不適切な比較資料(裁量労働問題)など、不都合な事実を隠蔽しているのではないかと疑わしい事態が繰り返されている。

 こうした体質の政府が「非常事態だから自衛のため武力行使をする」というとき、国民に向けて正しい情報と判断材料を提供するだろうか。もし疑問をもっても、特定秘密保護法が壁となって事実を知ったり知らせたりすることは困難なのではないか。

 あらためて、戦争は国民に何をもたらすのか。政府は国民を守るのか。過去の事実から学ぶべきことは多いように思える。

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前回記事はこちら:焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54545
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拙著『逃げるな、火を消せ! ―― 戦時下 トンデモ 防空法』には、戦時中の写真・ポスター・図版を200点以上掲載している。本稿で触れた帝国議会での審理や、当時の新聞記事も豊富に掲載している。敗戦へ向かう社会の空気を感じ取っていただければ幸いである。
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eul********* | 24分前
国民も政権に騙されないよう賢くなければいけない。しかし滅私奉公、皇国史観の教育を植え付けられた当時の日本人にとって国に異を唱えることは、同調圧力に弱い現代の日本人と比較してもさらに難しいことだったろう。現代の日本に再び教育勅語など戦前、戦中の教育を持ち込もうとしている安倍晋三以下、日本会議の面々はこの教育の重要性(有効性)をよく理解している。そしてそれこそが森友学園問題の本質に他ならない。このコラムに書かれていることは決して過去の話ではない。


ame***** | 56分前
原爆の試験的投下、無差別の空襲による大量虐殺、これらは明らかに戦争犯罪だと思いますが、何故追求の声が聞こえないんでしょうか?
日本も他国で酷いことをやったという後ろめたさがあるんでしょうか。


hir***** | 1時間前
現代まで続くファシズム

口では個性を尊重するというが、少しはみ出すとすぐに異端児扱い

人材が育たない国

北と本質は変わらない


ProArgi9Plus | 1時間前
戦争末期に沖縄人を玉砕に追い込んだのと同じ。
また明治の初めにアイヌを叩いたのとも同じ理由。
縄文人の血を引き継ぐ日本人を皆殺しにするためだ。
それが明治維新で個性機制度までつくった超線陣のしていること。
豊洲いちばも東京にいる日本人を殲滅する最終段階に入ったってことだろ。


gon***** | 2時間前
10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、朝日新聞が何と言ったかご存知ですか?
「一億総特攻」「鬼畜米英殲滅」

朝日は今ではそんなことを隠し、捏造慰安婦報道で日本人を陥れ、反日左翼記事ばかり。
「人間は自分の利益のためには豹変する」典型的な見本です。


ai1***** | 2時間前
ウソの代名詞の大本営発表もそうだが、政府マスコミも虚言はったりのウソばかり。
先日国連から報道の自由がないと勧告されたらしいが、この国はまた過去に戻りかねない。

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ヌルッとKANSAI | 2時間前
この空襲を発案・指揮したカーチス・ルメイは
戦後自衛隊の近代化に貢献したとかで日本政府が勲章を贈ったとか。
どこまでお人好しなんだか。

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終末の戦士 | 2時間前
そのまま原発事故と重なりますね。「落ち着いて行動してください」、「放射能は怖くない」…挙句の果てには、「食べて応援」や「早期に故郷へ帰っていただく」と。
世界最悪のフクシマ原発事故を起こした今、もはや戦時体制の様なイカレた政権の暴挙で溢れかえりました。

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戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に

2018年03月10日 | 政治社会問題
戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に
3/10(土) 11:03配信 BuzzFeed Japan
落書きが戦争に
中東のシリアで続く激しい内戦。人口2000万人余の国で、これまでに50万人以上が命を落とし、500万人以上が国を逃れて難民となり、さらに600万人以上が国内避難民となった。世界を揺るがす戦争のきっかけとなったのは、子どもの落書きだった。【BuzzFeed News / 貫洞欣寛】

【写真】戦場で眠る日々。シリアの日常

戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に
2011年2月1日、ムバラク大統領の辞任を求め、エジプトの首都カイロ中心部を埋め尽くした群衆
「アラブの春」興奮の余波
2011年2月、中東と世界全体は異様な雰囲気に包まれていた。

この年の1月、チュニジアで大規模な反政権デモが起きて、23年に渡り独裁を続けたベンアリ大統領が亡命した。それは中東で最大の人口を誇る地域大国エジプトに飛び火。大規模なデモが続き、2月11日に30年にわたる独裁を続けたムバラク大統領も辞任したのだ。
長期独裁にあえぐ国が多い中東で、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動に火がついた。アルジャジーラなどの衛星ニュース局が各地のデモや「革命」を競って報じ、様々な国で繰り返された「体制打倒」などの言葉が流行語となった。

独裁政権が相次いで倒れるなか、多くの人々の目はシリアに向けられていた。シリアもバシャール・アサド大統領と、父親で先代の故・ハーフェズ・アサド大統領親子による支配が約40年に渡り続く独裁国家だったからだ。
こんな状況のなか、シリア南部のヨルダンとの国境に近いダラアという街で2月16日、14歳前後の少年たちが、赤いスプレー缶で学校の壁に落書きしたのだ。「次はあんたの番だ、ドクター」と。

「次はあんたの番だ、ドクター」
「ドクター」とは、父ハーフェズに後継者として指名されるまでロンドンで眼科医として修業を積んでいた現大統領バシャール・アサドのことと読める。

子どもたちには、「アサド政権打倒」を本気に訴えようというほどの政治的な動機はなかったようだ。スプレー缶を手に落書きしたナイフ・アバジードは「まだ子どもだったから、自分が何をしているか理解していなかった。あとで逮捕されて、初めて深刻さを知った」とカナダの新聞に語った。

一緒にいたムアーウイヤ・シヤスネは英紙テレグラフに「ジョークのようなものだった。シリアで反政府運動が起きるなんて想像もしていなかった」。一方で「抑圧と拷問にうんざりして、怒りでいっぱいだった」と語った。

いずれにせよ、多くの国では「子どものいたずら」で済まされる話だろう。

しかし、アサド政権が国中に監視網を張り巡らせて国民の言動を監視していたシリアでは、そうはいかなかった。

シリアは1946年にフランスから独立した。この地域は古代から続く豊かな文化を誇るが、国家としての歴史は日本の戦後よりも短い。今の国境線が生まれたのは第1次大戦後にオスマン帝国を欧州列強が解体した結果であり、一種の「人工国家」といえる。

アラブ人だけなくクルド人やアルメニア人なども暮らす多民族国家であり、宗教も国民の7割を占めるイスラム教スンニ派のほか、アサド一族が属する人口の1割程度の少数派であるアラウィ派、ドルーズ派などがある。キリスト教もシリア正教会、マロン派教会など多岐にわたる。さらに部族が存在する。

国民に「シリア人」という一体感は薄く、独立後は政変も繰り返された。1970年にクーデターで実権を握った空軍出身のハーフェズ・アサドが統治のため採ったのが、軍と治安機関を中心とする中央集権独裁だった。

政権に刃向かうものへの処断は容赦なかった。
世俗主義と社会主義を掲げていたシリアで、イスラムに基づく統治を求めるイスラム教スンニ派の政治組織ムスリム同胞団が1982年、ハマという都市で蜂起した際は、軍が市街地を包囲し、そこに暮らす市民もろとも攻撃。数千とも数万ともいわれる死者を出して武力で鎮圧した。正確な死者数は今も明らかではない。

それから約30年後、ダラアでの落書きに対してバシャールの政権は父親時代と変わらない苛烈さを見せた。少年らを相次いで連行し、投獄したのだ。

少年への拷問に市民の怒り
家族は治安当局の幹部に子どもたちの釈放を求めた。だが当局側は「あんな子どものことは忘れろ。子どもがほしければ新たに作れ。子作りのやり方を知らないなら、おれたちが教えてやる」と取り合わなかったという。

連行から1ヶ月近く経った3月18日、イスラム教では礼拝日のため休日となる金曜日だった。ダラアでこの日、少年らの釈放を求め、治安当局の横暴を糾弾するデモが始まった。釈放だけでなく「自由」「民主主義」などを訴える人も相次いだ。いずれも当時、エジプトやチュニジアなど各地で叫ばれていたスローガンだった。シリアでも反政権デモが本格化したのだ。
これに対する政権側の回答は、治安部隊の投入、そして発砲だった。

翌日もデモは繰り返された。
政権側も一時は妥協姿勢を見せ、少年らを釈放した。ダラアに代表団も送った。

だが、釈放は新たな怒りを呼んだ。
少年らは激しい拷問で傷だらけだった。

獄中で電線でむちうたれ、電気ショックに掛けられ、さらに天井から吊された。落書きの現場で一緒にいた子の名をあげるよう要求され、最終的にその場に実際にはいなかった子を含む23人が逮捕され、拷問された。

この映像がネットで出回り、ダラア、そしてシリア内外でアサド政権への強い反発を巻き起こした。少年たちは地元で「英雄」として迎えられた。首都ダマスカスなど複数の都市で、ダラアに対する連帯の表明や政治改革の要求などを掲げたデモが相次ぐようになった。


戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に
3/10(土) 11:03配信 BuzzFeed Japan
戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に
議会で演説するアサド大統領
「デモは陰謀」
アサド大統領は3月末、議会で演説した。この演説で、大統領が民主化に向けた動きを見せることを期待した国民もいた。

だが大統領は、各地で起きるデモを「国外からの陰謀」と位置づけ、「妥協の道はない。シリア人は平和を愛するが、国益と大義を護るためには戦うことを躊躇しない」と述べ、デモを徹底的に弾圧する考えを示したのだ。アサド政権は、チュニジアとエジプトの状況を分析し、妥協は政権の崩壊につながると考えたようだ。
「陰謀の手先」とされた市民デモの参加者らは、もはや「改革」ではなく「アサド退陣」を公然と求めるようになった。政権側は妥協せず、弾圧による市民の死者が相次いた。ダラアには戦車隊が投入された。

一方、市民への発砲命令に反発して軍から離反する人々も出始めた。7月には離反した兵士らが、反体制派の武装組織「自由シリア軍」を結成。政権側に武力で対抗し始めた。

戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に
2011年8月18日、アサド政権への経済制裁を発表し、アサド大統領に退陣を求めるクリントン米国務長官
列強の介入
米国や欧州連合などは、アサド大統領に対して公然と退陣を求めた。反米色の強いアサド政権を倒す好機とうつったのだ。トルコやペルシャ湾岸の産油国も、こうした反体制派への支援を直接、間接に行った。こうした各国の干渉により、シリアに武器と資金が持ち込まれるようになった。
とはいえ、その受け皿となるシリアの反体制派はバラバラだった。

平和的な民主化や近代化を訴える学生グループから、自由シリア軍、イスラム法による統治を求めるムスリム同胞団、さらに過激なイスラム過激派もいる。混乱を突いて周辺諸国や欧米などから入り込んだ戦闘員が主力の過激派「イスラム国(IS)」は一時、シリアとイラクを広範囲に占領し、世界的な問題となった。
また、人口の1割を占め差別されてきたクルド人の関心は、シリアの民主化よりむしろ、クルド人の自治確立だった。

戦争のきっかけは子どもの落書きだった 死者50万人超のシリア内戦8年目に
2017年12月17日、シリアを訪問し、シリアに作られたロシア軍の基地でアサド大統領(右)との協議に臨むプーチン大統領
ロシアの参戦
反体制派は互いに反目や対立、武力衝突まで繰り返し、まとまりはなかった。単独でアサド政権を軍事的に倒す能力はなかった。

政治面でも、アサドに代わるリーダー候補は見当たらなかった。仮にシリアで完全に自由な選挙が行なわれたとしても、アサドに対抗して立候補し当選する可能性がある人物が出ることを想像するのは、現状では難しい。

その背景には、長年の独裁下、民主主義などに関する教育が行われず国民の政治意識が抑圧されていたうえ、少しでも政治的な動きを見せればすぐに拘束されたり、逆に知識人がシリアを見限って国を出て行ったりすることが続き、政権側が自らを脅かす可能性のある芽を徹底的に摘んでいた、という経緯もある。

一方、アサド政権を助太刀したのは、ロシアとイランだった。

ロシアはシリアと長い友好関係があり、シリアの地中海岸にはロシア国外で唯一の海軍施設を持っていたし、「民主化」を旗頭に権威主義体制が倒され、その陰に陽に西側の影が見える中東の情勢は、同様に権威主義的な統治を続けるロシアにとっては脅威でもあった。

イランは対イスラエル戦略などでシリアと共闘関係にあり、アサド政権を失うと中東政策に穴が空く。ロシアとイランはアサド政権軍とともに戦闘に加わった。

そして戦争は、今も続いている。


「どうして東グータから逃げないのかと訪ねる人たちへ。想像してほしい。マンチェスターやベルリン、NYなどに住んでいるとして、そこにロシア大統領のプーチンが自分の街と家から出なければ1日100回以上空爆し、地元を侵攻しようとする陸軍を支援すると言ったら、どうする? 自分の家に暮らす自分の権利を守ろうとするか、それとも臆病者として逃げるか。もし逃げようとしても、全く逃げる道はない。奴らは嘘つきだ」ーアサド政権軍に攻撃が続く、ダマスカス近郊東グータ地区のドゥーマから報告を続けるジャーナリスト、フィラス・アブドッラーのフェースブックより

落書きで捕まった一人、ムアーウィヤ・シヤスネは大学に行ってビジネスを学びたかったが、内戦となりその夢は失われた。

16歳だった2013年夏、政府軍による砲撃で自宅を破壊され、設計技師だった父親を亡くした。この怒りから政権に対して銃を取ることを決め、自由シリア軍に入った。17歳で初めて「敵」を射殺した。地元に残り、自由シリア軍から受け取る低い給与で母や3人のきょうだいとなんとか暮らしているという。

2017年3月、ダラアで戦闘員として政府軍と戦っている姿が、衛星テレビ局アルジャジーラで紹介された。
ナイフ・アバジードは2012年、隣国ヨルダンに徒歩で逃げた。家の前で政権軍が検問を作り、捕まりそうになったのだ。2年後に戻ったが、政権軍の雨あられのような砲撃や空爆の中での生活を余儀なくされ、今度は欧州に向けて旅立った。多くの難民とともに厳しい道のりを経て、オーストリア・ウイーンにたどり着いた。

そのオーストリアでは2017年秋、難民・移民の厳格化を掲げる新政権が発足した。シリアなどからの難民の波が社会問題となっているからだ。

しかし、シリアで戦争が終わらない限り、シリア難民問題も解決することはない。

(敬称・呼称略)

Yoshihiro Kando
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《ブラジル》ギャング同士の抗争で、女性3人惨殺=男5人が拷問後に殺害、斬首

2018年03月10日 | 事件
《ブラジル》ギャング同士の抗争で、女性3人惨殺=男5人が拷問後に殺害、斬首
3/10(土) 8:35配信 ニッケイ新聞
 ブラジル北東部のセアラー州で3日、若い女性3人が誘拐され、拷問を受けた後に殺され、首をはねられるという事件が起きた。

 同州州都のフォルタレーザ市に隣接するカウカイア市在住の女性3人が、犯罪組織のメンバーと思しき男性5人によって連れ去られたのは3日の事だ。

 男達は、女性3人をセアラー川の河口に近いマングローブの林に連れ込み、拷問を加えた上、銃や刃物で殺害、首をはねた。拷問の様子や、銃を突きつけて「組織を抜ける」と告白させた様子、「殺さないで」と叫ぶ女性の頭に銃弾を浴びせる様子などを録画した犯人達は、その日の内に映像をインターネット上に掲載した。

 犯人達がマングローブの林の中に穴を掘って遺体を隠したため、遺体の捜索は困難を極めたが、警察は6日に容疑者3人を逮捕、未成年者1人の身柄も拘束した。

 逮捕された容疑者2人を同行させた捜索によって、3人の遺体が見つかったのは9日。マングローブの林の中で泥に覆われていた上、ウジ虫がわいた遺体は、かなり腐敗が進んでいたが、警察は消防の助けも借りて遺体を回収し、法医学研究所に持ち込んだ。9日朝の時点では、身元が判明している犠牲者は1人だけだ。
 警察は、逮捕した容疑者らの供述やビデオの映像などから5人目の容疑者も特定したが、9日午後4時現在も、逮捕には至っていない。
 警察は、フォルタレーザ市内で勢力争いを繰り返している犯罪組織の一つが、ライバル組織に属する女性達を誘拐して起こした犯行と見て、さらに捜査を進めている。
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「寝たきりはイヤ」ドクターG・林寛之医師が実父のためにしたこととは

2018年03月10日 | 政治社会問題
「寝たきりはイヤ」ドクターG・林寛之医師が実父のためにしたこととは〈dot.〉
3/10(土) 7:00配信 AERA dot.
「寝たきりはイヤ」ドクターG・林寛之医師が実父のためにしたこととは〈dot.〉
林寛之医師(福井大学医学部附属病院救急科・総合診療部教授)
 命を救うのが医師の仕事である一方で、「命の終わり」を提示するのも医師の務め――。救急や外科手術、がんやホスピスなど死に直面することが避けられない現場で日々診療を行っている医師20人に、医療ジャーナリストの梶葉子がインタビューした『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』(朝日新聞出版)。その中から、NHK人気医療番組「総合診療医 ドクターG」でも知られる、福井大学医学部附属病院救急科・総合診療部教授の林寛之医師を紹介する。

*  *  *
 救急をやっていて一番つらいのは、子どもや働き盛りの人が亡くなった時。人間、死ぬのは1回だけです。医者は常に人が死ぬのを見てますが、その人が死ぬのは1回だけだし、家族にとっても1回だけですね。そういう時のグリーフィングケア、会話の仕方などには訓練が必要です。訓練によって、ある程度はできるようになります。

 患者さんが亡くなった時には、簡潔に死亡したということを伝えます。ご家族は泣かれますが、その間は矢継ぎ早に説明したりせず、一緒にじっと時間を共有し悲しみを十分に吐瀉してもらう。少し落ち着いたところで、経過など事務的な説明をします。そしてその後、元気だった頃の話を聞くんです。亡くなった人を思い起こし、その人について話す機会を与える。

 ご家族の中には、医療ミスじゃないのかとか、ガッと怒りをぶつける人がいますが、これは目の前に受け入れられない現実がある時の「否認(ディナイアル)」という正常な反応です。医者がそれをまともに受けてケンカをしてはダメで、「つらいですね……」ってひとこと言えばいいんです。

■元気なうちに、最期を迎える時の意思を確認しておく

 ただ、実は今はもう「救急医療イコール老年医療」になってきています。

 例えば、98歳の高齢者が救急搬送されて来る。誤嚥性肺炎で6回目の救急搬送、そのたびに入院して持ち直していたけど、今回はもう瞳孔が開いて、救急隊が心マッサージをしている。

 そういう時、よく若い先生方が「人工呼吸器につなぐか、強心剤を使うか、どこまでやるのか、ご家族が決めてください、もう時間がありません! どうしますか!」って言うんです。そうすると家族は焦って、「ぜ、全力でお願いします!」となる(笑)。

 それでまた心臓が動き始めてしまって、ICUに入って1泊50万円も100万円もする治療を2、3日続けて、結局亡くなるんです。その200万~300万円の医療費は税金で払う。どうしてこんな、無駄な医療をするんでしょうか。

 こういう場合には、「蘇生しても植物状態で人工呼吸器につながれ、施設に入るか、家に連れて帰ってご家族が面倒を見なければならないのですよ」という説明の仕方をすると「いや、うちのオヤジはもう十分生きたから結構です」と言う人が多いですね。

 また一番大事なのは、「ご家族の方が決めてください」ではなくて、「ご本人が元気だった時、どんな最期を迎えたいと言ってましたか」と聞くことです。寝たきりは絶対にイヤだと言ってました、そうですか、ではご本人の意見を尊重しましょうか、と。

 家族としては、「蘇生をしないでくれ」というと自分の責任で親が死んだように思うので、かなり過大な負担になるんです。それが分からずに、あなたが決めてください、と言っている医者は多いですね、まだ(トホホ……)。

 死に方のパターンは四つ。わずか7%しかないピンピンコロリ。比較的ピンピンしていてバタバタッと悪くなるがん。COPD(慢性閉塞性肺疾患)や心不全などは、良くなったり悪くなったり上下しながら弱っていく。そして、認知症の老衰は低空飛行ですね。死にそうで死なない。危なくなれば救急車で病院に来るから、また持ち直す。年齢や今までの経過を見ればいつ死んでもおかしくないのに持ち直すものだから、周りはヨーダみたいに900歳まで生きると思ってますよ。主治医に覚悟するように言われたのはもう2年も前だし、ずっと生き延びると思ってました、って(笑)。

いずれにしても本人が元気なうちに、主治医が最期を迎える時の意思をきちんと確認しておかないとダメなんです。そういう意味では医者の教育は非常に大事です。

 今はPOLST(Physician Orders for Life-Sustaining Treatment:生命維持治療に関する医師指示書)というものがあるので、それを作っておくべきだと思いますね。POLSTは医者の処方箋と同じです。蘇生してはダメと指示されていれば、してはいけない。リビングウィルを持っている人がいますが、あれはあくまでも患者さんの主張にすぎないので、医者はそれを無視して治療をしても構わないんです。

■そんなに簡単に親の最期を決められるわけがない

 高齢者医療を真面目に考えなければいけない、と思ったのは、父の死を経験してからです。父は「寝たきりは絶対にイヤじゃ」と言ってたんですが、誤嚥性肺炎を繰り返して入院し、寝たきりになってしまった。

 入院当初はさんざん家に帰りたいと言ってましたが、1カ月もすると何も言わなくなった。目が死んでるんです。

 オムツや色々な臭いもして、あの威厳のあったオヤジが、流木のような姿でそこにいる。父親としてそんな姿を息子に見られるのは嫌だろうな、申し訳ないな、と思って。それに、胃ろうや静脈栄養をするような生かし方はしたくない。結局、主治医や在宅をやっている仲間と相談して、家に連れ帰ることにしました。

 家でオヤジを、いつもの部屋のいつものベッドに寝かせたら、突然動き始めたんです。グー、グーって。OKサインですよ。どれだけ家に帰りたかったんだか。3カ月も入院させてしまった罪悪感を、ものすごく感じましたね。

 家では点滴なし、水分は口を少し湿らせるだけ。最初の2日間は多少意識が戻って、全然喋れないはずなのにお袋と意思疎通した雰囲気があって。3日目から昏睡状態になり、5日目に僕が出張に出掛けようとして声を掛けたら、息をしていなかった。

 葬儀屋さんが、ご遺体が軽いですね、って言ったんです。それを聞いた時、ああ、オヤジ、いい死に方をしたな、と思いました。実は干からびて死ぬほうが自然で、つらくないんですよ。


 オヤジを家に連れて帰ることを決めた時は、自分が親の死を決めてるんじゃないかっていう、大きな不安というか葛藤がありましたね。それでも、絶対に寝たきりはイヤだとしつこく言っていたオヤジの望みは、かなえなきゃいけないだろうと。あのまま病院にいれば、あと半年くらいは生きたと思いますよ。1日に1本点滴するだけで、2~3カ月は生きますから。

 医療者でさえ、そういう不安や葛藤があるのだから、一般の人がそんなに簡単に親の最期を決められるわけがない。色々なプロセスが必要なんです。医者として、そのお手伝いをしてあげたいな、という気持ちがありますね。

■医者は生き方の終わり方を考える手助けもできなければ

 人間は100%必ず死ぬ動物です。人生には必ず、幕引きがある。本人と家族にとって、最も良い人生の幕引きの仕方はどうなのか。医者は患者を助けるだけでなく、「生き方の終わり方」を考える手助けもできなければいけないのではないか。医者も含めて国民の教育が必要です。その理解が広く進めば、多くの人が無駄に医療費をかけず、無駄な罪悪感にも苛まれずに死んでいけるのではないかと思いますね。

 僕自身は、年を取って身体が利かなくなったら施設に入る。家族の24時間介護は疲弊します。仕事でやる人たちは時間で交代ができるし、オムツ替えなども上手です。そのほうが安心して任せられる。そして、蘇生は絶対にしない。特に誤嚥性肺炎は、病気というより老衰からくる機能障害ですから、それで治療なんか一切しない。そのためにも、将来的にはPOLSTをきちんと作っておこうと思っています。

※『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』から



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あおられて頭にきた」逮捕の男供述 神奈川県の車発進

2018年03月10日 | 事件
「あおられて頭にきた」逮捕の男供述 神奈川県の車発進
3/10(土) 8:10配信 産経新聞
 神奈川県二宮町のコンビニエンスストア駐車場で今月、口論相手の男性に車のドア付近をつかまれたまま車を発進させて男性にけがを負わせたとして、傷害容疑で自称会社員の男(56)=同県大磯町国府新宿=が逮捕された事件で、男が事件直前に車を運転中、「後ろの車からあおられたので頭にきた」との趣旨の供述をしていることが9日、捜査関係者への取材で分かった。

 捜査関係者によると、事件直前、男は国道1号の右折車線で停車したが、後続車から「あおられた」と感じたため、窓から顔を出して後方に向けて何かを怒鳴っていたといい、後続者を運転していた男性会社員(56)=二宮町百合が丘=がそれに反応。その場で車を降りて男と口論になっていたという。

 その後、2人は近くのコンビニ駐車場に移動して再び口論となり、男が男性に車の運転席付近をつかまれたまま車を急発進させ、軽傷を負わせていた。

 捜査関係者らによると、周辺の防犯カメラ映像からは、後続車が特段、あおっているような様子は確認されていないという。
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