☆オヤジの晩ごはん ☆オヤジの館

昭和をこよなく愛する団塊オヤジです。
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ロイ・オービソン

2010年05月03日 | 昭和30年代の出来事&思い出

 初めてロイ・オービソンの曲を聴いたのは、私が中学3年生の時で「カムバック・トゥ・ミー」でした。学校からの帰り道に、クラスメイトがこの曲を口ずさんでいたのを憶えています。高校入学後に、ザ・ヴェルヴェッツの「いとしのラナ」というシングル盤を購入しましたが、そのB面に「カムバック・トゥ・ミー」が収められていました。(このレコードは20年以上聴いていませんが、現在も大事に保管しています)  ロイ・オービソンは、1936年4月23日、テキサス州ヴァーノンに生まれました。彼は子供の頃からギターが得意で、ハイスクールに入学早々友人とバンドを結成して、歌手兼リーダーとして活躍しました。  高校時代に結成していたバンド、ティーン・キングスでの手腕がバディ・ホリーのプロデューサーだったノーマン・ペティに見出され、1955年にシングル「ウービィ・ドゥービィ」でデビューしました。1956年から1959年にかけてはサン・レコードとRCAビクターでエルヴィス・プレスリーの後釜的存在として活動し、数枚のシングルを発表しましたがヒットには恵まれませんでした。  その後、1959年にモニュメント・レコードに移籍してからは運気が好転し、ヒット曲を連発、「オンリー・ザ・ロンリー」、「ブルー・エンジェル」、「クライング」、「ドリーム・ベイビー」、「ミーン・ウーマン・ブルース」、「カムバック・トゥ・ミー」、「オー・プリティ・ウーマン」と次々にヒットチャートに送り込み、彼自身の黄金時代を築きました。その中でも1964年に発表された「オー・プリティ・ウーマン」は全米・全英チャートでともに1位を獲得し、全世界で400万枚のセールスを記録する大きな成功を収めました。  1990年にはゲイリー・マーシャル監督の映画『プリティ・ウーマン』の主題歌として大きな注目を集め、オービソンの数あるヒット曲の中では最も有名な作品となっています。

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ザ・ベンチャーズ 1

2010年05月03日 | 昭和30年代の出来事&思い出

 ザ・ベンチャーズによるエレキブームが巻き起こった頃、私は17歳の高校2年生でした。当時、クラスにはビーチ・ボーイズ派とベンチャーズ派がいましたが、わたしは断然ベンチャーズ派でした。これは今でも変わりありません。  ザ・ベンチャーズは、1959年ドン・ウイルソンとボブ・ボーグルにより結成されました。デビュー曲は「ザ・リアル・マッコイ/クッキーズ&コーク」ですが、続く全米メジャーデビューは1960年発売「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」で、地元シアトルのラジオ局がニュース番組のテーマ曲として起用した事から火が付き、ビルボード誌のヒットチャート第2位を記録しました。  日本で人気が出たのは2回目の来日(1965年1月、アストロノウツ等とのパッケージツアー)で、ドン、ボブ、ノーキー・エドワーズ、メル・テイラーの4人で行った日本公演からであリ、日本に大エレキ・ブームを巻き起こしました。低音弦をスライドさせて、ピッキングを行うサウンドで、「ダイアモンド・ヘッド」、「パイプライン」、「10番街の殺人」、「ウォーク・ドント・ラン」、「キャラバン」など、数々のヒット曲を生み出しました。彼らが本国米国で一番人気があったのは60年代で、日本では長く人気を保ち来日回数は50回を超えています。  60年代後半から70年代前半にかけては、日本を意識した曲を作るようになり、作曲家としてのヒット曲は、「二人の銀座」(和泉雅子&山内賢)、「北国の青い空」(奥村チヨ)、「京都の恋」「京都慕情」(渚ゆう子)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)などがあり、特に「京都の恋」は、(1970年)第12回日本レコード大賞企画賞を受賞しています。  また、2004年日米交流150周年記念外務大臣賞を受賞し、2006年には、"Walk Don't Run"でグラミー賞の殿堂入り、2008年にはロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りを果たしています。

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