久しぶりに、JR下総中山駅前の立ち飲み屋「づめかん」に立ち寄ってみました。 一人でも、気軽に立ち寄れる店です。 いつもは、会社の気の合う仲間と月2、3回は必ず立ち寄っていたのですが、最近は会社の近くで飲むことが多くなり、半年近くご無沙汰してしまいました。 今日は一人でしたが、久しぶりということもあり、いつものパターン「ホッピーセット⇒中身ダブル2杯⇒日本酒冷2杯」に日本酒冷とチューハイを各1杯追加していました。 接客態度は相変わらず良く、帰るときには店を出て大きな声で「ありがとうございました」、そして姿が見えなくなるまで見送ってくれました。 一日の疲れが取れた感じがして、気分良く帰れました。 つまみは100円からあり種類も豊富、使うお金も、ひとり1000円から1200円でけっこう酔えるので、満足度の高い店だと思います。 明日も寄ってみようと思います。
必殺シリーズ第15弾の「必殺仕事人」以降、中村主水が「仕事人シリーズ」の主人公として登場することになりました。
職業は江戸南町奉行所の同心で、妻・りつ、姑・せんと三人で暮らす婿養子でした。
「江戸で闇の裏稼業の元締であった鹿蔵は、江戸に再び闇の裏稼業を復活させるため、左遷されていた主水を江戸に呼び戻した上で、彼を仲間にしようとしたが、主水は裏稼業への復帰を断った。
しかし、結局は鹿蔵の説得と目の前の小判に心を動かされ、裏稼業への復帰を決意する。」
《 仕事人仲間 》
畷左門(伊吹吾郎)
非道な主家の家老を斬った事から妻子を連れて江戸に脱藩してきた浪人。
秀(三田村邦彦)
左門と同じ長屋に住む飾り職人。
元締・鹿蔵(二代目 中村雁治郎)
闇の大元締。
半吉(山田隆夫)
鹿蔵とおとわ配下の連絡役。
おとわ(山田五十鈴)
三味線引きを生業としており、鹿蔵の女房でもある女性。
六蔵(木村功)
鹿蔵とおとわには面識がある元締で、木更津のとある漁村の長。
加代(鮎川いずみ)
質屋・上総屋で働く女性。六蔵の配下であり、連絡役として行動している。
おしま(三島ゆり子)
六蔵の繋ぎ場である質屋・上総屋を取り仕切っている女主人。
第65回国民体育大会「ゆめ半島千葉国体」の開会式が、9月25日(土)千葉マリンスタジアムで行われました。(野球場を使っての開会式は初の試みだそうです)
「ゆめ半島千葉国体」は、平成22年9月25日(土)~10月5日(火)の11日間にわたり、正式・公開競技の全39競技、デモンストレーションとしてのスポーツ行事26競技が開催されます。
愛称は「ゆめ半島千葉国体」、スローガンは「今 房総の風となり この一瞬に輝きを」、マスコットは「チーバくん」、イメージソングは「CARNAVAL(カルナヴァル) ~すべての戦う人たちへ~」
趣旨 : 四方を海と川に囲まれた水と緑の豊かな千葉県。
未来へ向かって「ゆめ半島千葉」から夢と感動をあなたに。
600万県民の笑顔で、すべての人が主役となる舞台を演出します。
9月29日に行われる正式競技
(競技名) (会場地) (競技名) (会場地)
サッカー 市原市 自転車 松戸市
ボート 香取市 ソフトテニス 白子町
体操 千葉市 軟式野球 富津市・袖ケ浦市
バスケットボール
船橋市・八千代市 ライフル射撃 千葉市
セーリング 千葉市 ボウリング 千葉市
地元の開催なので、今度の土日には出かけてみようと思います。
フジテレビ開局翌日の1959年3月2日から1964年12月31日まで、約5年間1,835回にわたって放送された時事風刺のバラエティ番組で、月曜日~土曜日の帯番組で、昼12時50分から10分間の生放送で行われました。出演者は「ハナ肇とクレージーキャッツ」で、新聞記事をネタにした時事風刺のコントを演じました。 番組開始当初は、当時多くのテレビバラエティーで構成を担当していたキノトール・三木鮎郎・永六輔がメインの構成作家でしたが、彼らが多忙を極めていたことから、実質は代理要員であった青島幸男が脚本・構成を担当しました。 その後、青島幸男がメインとして構成を担当し、この番組での様々な試みが注目され人気構成作家として台頭することになりました。彼は、後に東京都知事になっています。 クレージーキャッツのメンバー紹介 ハナ肇 (1930年-1993年) ドラム ・ギャグ 「アッと驚くタメゴロー」、「なぬ?」 植木等 (1927年-2007年) ギター・ボーカル ・ギャグ 「お呼びでない、こりゃまた失礼しました」 谷啓 (1932年-2010年) トロンボーン ・ギャグ 「ガチョーン」、「谷だー」 犬塚弘 (1929年- ) ベース 桜井センリ (1924年- ) ピアノ ・ギャグ 「ルーチョンキ」(CM) 安田伸 (1932年-1996年) テナーサックス 石橋エータロー (1927年-1994年) ピアノ
昭和56年に「浅草サンバカーニバル」が開催されてから、今年で30回目を迎えました。
平成22年8月28日(土)、この日も最高気温は33度と真夏日でしたが、馬道通り~雷門通りにかけて行われたパレードには多くの見物客が訪れ、華やかな衣装で踊る各チームに大きな歓声を送っていました。
浅草は、明治時代には日本最初の映画館・水族館・サーカスなど、他の町にはない新しい文化がどんどん取り入れられてきました。 大正時代になると「大正オペラ」や「安来節」など幅広いジャンルの音楽劇を生み出し、昭和に受け継がれました。
しかし、昭和30年代後半から40年にかけて、盛り場の中心は他の地区(新宿・渋谷・池袋等)に移っていきました。
このような状況の中で、当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎さんが、浅草の新しいイメージとして、ブラジルのサンバカーニバルを「浅草のお祭り」として取り入れることを提案し、浅草の商店連合会が主体となる「浅草サンバカーニバル」が誕生しました。 さらに、浅草観光連盟もカーニバル推進協議会に加わり、5月の三社祭と並び浅草の夏を代表するお祭りのひとつにまで成長しました。