五歳の頃の記憶?
思い出してみましょう。どんな遊びが楽しかったのか。何が美味しかったか。どんなオモチャで遊んでいたのか。やはり父より母の想い出の方が多そうです。そうだ、こんな想い出があります。幼稚園の頃、母が音頭をとってヤマハ音楽教室を始めた手前、私も無理矢理生徒として通わされた苦い記憶があります。毎週金曜日に教室が開かれましたが、私にとっては魔の金曜日でしかありませんでした。楽しい、面白くない、美味しい、怖い、寂しい、こんな感情だけの生活だったように思います。
与六はこんな年頃に、家臣(小姓)として少年のような城主と共に寺での修行に入ったのです。家臣という立場などわかろうはずがありません。母や父から別れた寂しさでいっぱいだったに違いありません。理解できない和尚の話や年上の小姓たちともうまくは行きませんでした。
「わしはこんなとこに来とうはなかった。
喜平次様の小姓になどになりとうはなかった。」
(先週に続きこの泣かせる名セリフが胸を打つ)
喜平次も又、可愛い奴という想いになったでしょう。
実家に逃げ帰った与六を迎えに来た喜平次が、彼をおぶって寺に帰る時の会話が心に残る。
「わしはそなたが寺に来てくれてほんにうれしかったのだ。」
「与六、この喜平次のそばにいてくれぬか。… いつまでもわしのそばにいよ!」
そうすると与六は思わず「母上~…」と云いながら泣き出した。
(母上、わしはどうすればいいのじゃ…)
胸の中が一杯になって答えようがなかったのです。
「泣き虫だ、与六は…」
(泣きながら)
「涙が出てとまらないのじゃ」
涙を出し切ることで共に母への哀愁が薄くなっていった。
「与六はもう頑張れぬ。頑張るのはもういやじゃ…」
「それで良いのじゃ。どうじゃ、泣くとすっきりするであろう?」
涙は<天からの贈り物>かもしれない。与六は素直な気持ちを取り戻していった。
「じゃあ、喜平次様もお泣きになるのか?」
(この時与六は「お泣きになるのか」という敬語を使う。
つまり家臣であることを意識した瞬間かもしれない)
「わしは泣かぬ。上に立つものはみだりに泣いてはならぬのじゃ」
(この時与六は喜平次の首もとを抱きしめる。
与六は泣き虫の自分を戒め、喜平次様はりっぱだと思う)
「喜平次様のおそばにはこの与六がおる。いつもおる。」
5歳の子供にはなかなかしゃべれない言葉。喜平次の心にも突き刺さったはずです。
(こいつとならやっていける。こいつになら何でもしゃべられる)
「では何があってもそなたとわしはいっしょだな」
「はい!」
五歳の与六の覚悟が決まった。
それは母のことは忘れると決めた瞬間かもしれない。
この返事を背中で聞いた喜平次の笑顔がとてもいい。心に残る笑顔でした。
私の五歳の年に日本で何があったのだろうか。
4月5日 - 巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー
8月25日 - 日清食品がチキンラーメンを発売。世界初のインスタントラーメン。
8月31日 - 早稲田実業の王貞治投手の巨人軍入団決定。
10月14日 - 東京タワー竣工
10月21日 - 巨人・川上哲治選手、引退。
10月21日 - 西鉄、日本一。巨人相手に3連敗から4連勝果たす。
11月1日 - 東海道本線東京~大阪間で国鉄初の電車特急「こだま」が運転開始。
11月27日 - 宮内庁、皇太子・明仁と正田美智子の婚約を発表。
12月1日 - 新1万円札発行。
12月7日 - 東京タワー公開開始
12月23日 - 東京タワー完工式
12月27日 - 国民健康保険法公布
私の記憶に残っているのはチキンラーメンだけです。売り出されたチキンラーメンを毎日のように食べた記憶が残っている。大阪に生まれた私は長島のことも王のことも、そして東京タワーのことも記憶にありません。初めて口にいれたチキンラーメンが美味しかったことしか記憶には残っていません。
5歳の頃とは直接触れられるもの、口に入れられる物以外は価値のないものだったのです。同じ5歳の与六は気づいていないですが喜平次への<忠誠心>を持ちます。不安や恐怖や喜び、悲しみや寂しさや母への想い、そして<忠誠心>のような手に上に乗せられない感情と云うものの存在を和尚から聞かされますが分かるはずがありません。
このときも決して知識としてではありません。気づかぬままに他人への<忠誠心>という曖昧なものですが、間違いなく温かい喜平次背中で、母の温かい胸に抱かれて感じたものとは別の熱い感情を確かに感じたのです。楽しい、面白くない、美味しい、怖い、寂しいと云った幼児的感情ではないものを。
雪の中必死で母を求めて逃げ帰り、いったんは母の温かい胸に抱きしめられたのに「貴方はもう母の子ではない。越後の子になったのです。」そう言って母は泣きながら戸に閉めてしまいます。5歳の子供に母の気持ちが分かるはずがありません。捨てられたとしか思えないのです。
母は戸の隙間から迎えに来た喜平次の姿が目に入る。そして自分の背中に与六をおぶる姿を見て、涙を流しながら手を合わせる。
(どうか私の子を宜しくお願いいたします)
喜平次も明かりの漏れた戸の透き間から母の視線を知り、その視線の熱い想いを感じとる。
(はい、必ず与六を大切にします)
喜平次と与六の母は一言も言葉を交わしませんでしたが、二人の心はしっかりとつながったと思います。母は喜平次様のような人で良かった、あのお方なら与六をお任せできると思ったに違いありません。
与六、喜平次、そして与六の母。この3人の気持ちを見ていて本当に共感できました。こんなことは「篤姫」を全編見ましたが、わずか2,3回しかありませんでした。素晴らしいシーンに感動しました。
与六と喜平次は互いの身体の温もりを身体で感じ、母や父以外の身体の温もりを感じます。こんなことは滅多に体験できません。そしてお互いのお心の想いを伝えられた事実が二人の絆を今後太くしていくのでしょう。
これからの二人が楽しみです。
ブキ君と一輝君へ成長したので少し残念な気がしますが…。
思い出してみましょう。どんな遊びが楽しかったのか。何が美味しかったか。どんなオモチャで遊んでいたのか。やはり父より母の想い出の方が多そうです。そうだ、こんな想い出があります。幼稚園の頃、母が音頭をとってヤマハ音楽教室を始めた手前、私も無理矢理生徒として通わされた苦い記憶があります。毎週金曜日に教室が開かれましたが、私にとっては魔の金曜日でしかありませんでした。楽しい、面白くない、美味しい、怖い、寂しい、こんな感情だけの生活だったように思います。
与六はこんな年頃に、家臣(小姓)として少年のような城主と共に寺での修行に入ったのです。家臣という立場などわかろうはずがありません。母や父から別れた寂しさでいっぱいだったに違いありません。理解できない和尚の話や年上の小姓たちともうまくは行きませんでした。
「わしはこんなとこに来とうはなかった。
喜平次様の小姓になどになりとうはなかった。」
(先週に続きこの泣かせる名セリフが胸を打つ)
喜平次も又、可愛い奴という想いになったでしょう。
実家に逃げ帰った与六を迎えに来た喜平次が、彼をおぶって寺に帰る時の会話が心に残る。
「わしはそなたが寺に来てくれてほんにうれしかったのだ。」
「与六、この喜平次のそばにいてくれぬか。… いつまでもわしのそばにいよ!」
そうすると与六は思わず「母上~…」と云いながら泣き出した。
(母上、わしはどうすればいいのじゃ…)
胸の中が一杯になって答えようがなかったのです。
「泣き虫だ、与六は…」
(泣きながら)
「涙が出てとまらないのじゃ」
涙を出し切ることで共に母への哀愁が薄くなっていった。
「与六はもう頑張れぬ。頑張るのはもういやじゃ…」
「それで良いのじゃ。どうじゃ、泣くとすっきりするであろう?」
涙は<天からの贈り物>かもしれない。与六は素直な気持ちを取り戻していった。
「じゃあ、喜平次様もお泣きになるのか?」
(この時与六は「お泣きになるのか」という敬語を使う。
つまり家臣であることを意識した瞬間かもしれない)
「わしは泣かぬ。上に立つものはみだりに泣いてはならぬのじゃ」
(この時与六は喜平次の首もとを抱きしめる。
与六は泣き虫の自分を戒め、喜平次様はりっぱだと思う)
「喜平次様のおそばにはこの与六がおる。いつもおる。」
5歳の子供にはなかなかしゃべれない言葉。喜平次の心にも突き刺さったはずです。
(こいつとならやっていける。こいつになら何でもしゃべられる)
「では何があってもそなたとわしはいっしょだな」
「はい!」
五歳の与六の覚悟が決まった。
それは母のことは忘れると決めた瞬間かもしれない。
この返事を背中で聞いた喜平次の笑顔がとてもいい。心に残る笑顔でした。
私の五歳の年に日本で何があったのだろうか。
4月5日 - 巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー
8月25日 - 日清食品がチキンラーメンを発売。世界初のインスタントラーメン。
8月31日 - 早稲田実業の王貞治投手の巨人軍入団決定。
10月14日 - 東京タワー竣工
10月21日 - 巨人・川上哲治選手、引退。
10月21日 - 西鉄、日本一。巨人相手に3連敗から4連勝果たす。
11月1日 - 東海道本線東京~大阪間で国鉄初の電車特急「こだま」が運転開始。
11月27日 - 宮内庁、皇太子・明仁と正田美智子の婚約を発表。
12月1日 - 新1万円札発行。
12月7日 - 東京タワー公開開始
12月23日 - 東京タワー完工式
12月27日 - 国民健康保険法公布
私の記憶に残っているのはチキンラーメンだけです。売り出されたチキンラーメンを毎日のように食べた記憶が残っている。大阪に生まれた私は長島のことも王のことも、そして東京タワーのことも記憶にありません。初めて口にいれたチキンラーメンが美味しかったことしか記憶には残っていません。
5歳の頃とは直接触れられるもの、口に入れられる物以外は価値のないものだったのです。同じ5歳の与六は気づいていないですが喜平次への<忠誠心>を持ちます。不安や恐怖や喜び、悲しみや寂しさや母への想い、そして<忠誠心>のような手に上に乗せられない感情と云うものの存在を和尚から聞かされますが分かるはずがありません。
このときも決して知識としてではありません。気づかぬままに他人への<忠誠心>という曖昧なものですが、間違いなく温かい喜平次背中で、母の温かい胸に抱かれて感じたものとは別の熱い感情を確かに感じたのです。楽しい、面白くない、美味しい、怖い、寂しいと云った幼児的感情ではないものを。
雪の中必死で母を求めて逃げ帰り、いったんは母の温かい胸に抱きしめられたのに「貴方はもう母の子ではない。越後の子になったのです。」そう言って母は泣きながら戸に閉めてしまいます。5歳の子供に母の気持ちが分かるはずがありません。捨てられたとしか思えないのです。
母は戸の隙間から迎えに来た喜平次の姿が目に入る。そして自分の背中に与六をおぶる姿を見て、涙を流しながら手を合わせる。
(どうか私の子を宜しくお願いいたします)
喜平次も明かりの漏れた戸の透き間から母の視線を知り、その視線の熱い想いを感じとる。
(はい、必ず与六を大切にします)
喜平次と与六の母は一言も言葉を交わしませんでしたが、二人の心はしっかりとつながったと思います。母は喜平次様のような人で良かった、あのお方なら与六をお任せできると思ったに違いありません。
与六、喜平次、そして与六の母。この3人の気持ちを見ていて本当に共感できました。こんなことは「篤姫」を全編見ましたが、わずか2,3回しかありませんでした。素晴らしいシーンに感動しました。
与六と喜平次は互いの身体の温もりを身体で感じ、母や父以外の身体の温もりを感じます。こんなことは滅多に体験できません。そしてお互いのお心の想いを伝えられた事実が二人の絆を今後太くしていくのでしょう。
これからの二人が楽しみです。
ブキ君と一輝君へ成長したので少し残念な気がしますが…。