「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」「硫黄島から手紙」「チェンジリング」と立て続けに名作を作り続けているクリント・イーストウッド監督は、今年の5月31日で79歳になります。特に最近の作品には大切なもの守ろうとする孤高の姿、戦争や体制への批判的メッセージが強く感じます。そして「無常」を必然としてしっかりと受け止め、残された時間の大切さを噛みしめているようにも感じます。だからこそ紹介した全編に哀愁が漂っているのかもしれません。
グラン・トリノはフォードの車種で 1972年から1976年に生産された今から30年以上前のビンテージカーです。フォードといえば1968年公開の映画「ブリット」でマックイーンがサンフランシシスコの急斜面を疾走したカーアクションの元祖映画に登場したマスタングGT390を思い出します。(http://www.youtube.com/watch?v=GMc2RdFuOxI)
映画「グラン・トリノ」では、このビンテージカーがとても大きな役割を果たします。最愛の妻を失った年老いた男ウォルト・コワルスキーの唯一の道楽がグラン・トリノでした。二人の中年の息子がいますが、頑固で口の悪い彼を妻や孫までが毛嫌いしていました。
老犬と共に孤独に生きる人種差別主義者で偏屈老人。彼の家の隣にモン族(古くから東南アジアに居住し、現在ミャンマーとタイ国に80万人以上いる)のファミリーが越して来ます。
その息子タオが悪友達にそそのかされ、グラン・トリノを盗もうとしますが失敗します。そのことからモン族ファミリーとの交流が深まっていきます。東南アジア人をイエローと平気で発言する偏屈老人は、始めモン族ファミリーの古き伝統や誇りに眉をひそめます。しかし、思いがけず次第に彼らの情の厚さに引き寄せられていく様子がユーモアと哀愁を織り交ぜつつ丹念に描かれていきます。
若い神父とのやりとりにも、この映画に対するとても真摯な姿勢が覗えます。偏屈老人の挑みかかる言葉に決して立腹せず、若い神父が熱心に耳を傾ける姿にウォルトだけではなく、見ていた私も共感しました。
また、しっかりした頭のいいタオの姉との会話も印象深い。
「The girls go to college and the boys go to jail. 」 (モン族の)女の子は大学にいって、男の子は刑務所にいく。偏屈老人にトロイ弟とやじられますが、「彼はまだやることが分からないだけ」と言い返します。この辺りの脚本がとても良くて来ています。また、ごろつきに囲まれた時も、彼女の凜とした態度や言葉にも誇り高きモン族の強さを感じます。
長い歴史が誇りや伝統を築いていきます。そこには大切なものを後世に残したいという切なる人の願いが含まれています。個人の家の生活習慣も同じように思います。毎日の挨拶や食事や人との応対にファミリーの伝統が根付いていきます。しかし、その伝統や誇りは急速なグローバル化や時代の変化に伴い、優先順位を変えてしまったように感じます。
大家族から核家族への変化にもそのそれが表れています。このたった数十年の変化が世界を大きく変えていったように感じてなりません。合理化、グローバル化、インターネット。それらすべては根底に感情が流れています。反対に誇りや伝統は理性的なものです。ここに時代の流れに押し流されていくものがあります。
誇りとはいったい何なんでしょうか?
誇りとはいったいどのような価値があるのでしょうか?
「ロッキー・ザ・ファイナル」でロッキーが最後の試合臨むとき、
一人息子の引き留めを振り払い、亡くなったエイドリアンの為でもない、
一人息子のためでもない、 唯一自分の誇りために上がろうと決意します。
「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」では退役した盲目の軍人が、
現役時代の軍服にすべての勲章を付けて、その誇りのために自殺しようとします。
「ア・フュー・グッドメン」では百戦錬磨の大佐が、その誇りのために我を忘れ、若き弁護士の誘導尋問に、はまってしまいます。
大河ドラマの「篤姫」では「女の道は一本道。引返すは恥にございます」と
菊本は、 自分の死を持って、篤姫に役割の大切さと女の誇りを教えました。
オバマ氏は就任挨拶の中でこう云ってアメリカ国民の誇りを喚起しました。
「我々の革命の結末が最も疑わしくなった時、我が国の祖は、この言葉を人々に読むよう命じた。『酷寒の中、希望と美徳しか生き残ることができない時、共通の脅威に気づいた町も田舎もそれに立ち向かうために進み出た』と未来の世界で語られるようにしよう」
<誇りとは如何なるものか?>
この答えは皆様が自分で捜す答えのようです。
映画「グラン・トリノ」は死を前にした頑固な老人の話です。
最愛の妻に先逝かれ、急速な時代の中で家族との絆を失いながらも、
大切なものを信じ、命を賭けて守ろうとする孤高の男性の物語です。
秀作です。是非見て下さい。
グラン・トリノはフォードの車種で 1972年から1976年に生産された今から30年以上前のビンテージカーです。フォードといえば1968年公開の映画「ブリット」でマックイーンがサンフランシシスコの急斜面を疾走したカーアクションの元祖映画に登場したマスタングGT390を思い出します。(http://www.youtube.com/watch?v=GMc2RdFuOxI)
映画「グラン・トリノ」では、このビンテージカーがとても大きな役割を果たします。最愛の妻を失った年老いた男ウォルト・コワルスキーの唯一の道楽がグラン・トリノでした。二人の中年の息子がいますが、頑固で口の悪い彼を妻や孫までが毛嫌いしていました。
老犬と共に孤独に生きる人種差別主義者で偏屈老人。彼の家の隣にモン族(古くから東南アジアに居住し、現在ミャンマーとタイ国に80万人以上いる)のファミリーが越して来ます。
その息子タオが悪友達にそそのかされ、グラン・トリノを盗もうとしますが失敗します。そのことからモン族ファミリーとの交流が深まっていきます。東南アジア人をイエローと平気で発言する偏屈老人は、始めモン族ファミリーの古き伝統や誇りに眉をひそめます。しかし、思いがけず次第に彼らの情の厚さに引き寄せられていく様子がユーモアと哀愁を織り交ぜつつ丹念に描かれていきます。
若い神父とのやりとりにも、この映画に対するとても真摯な姿勢が覗えます。偏屈老人の挑みかかる言葉に決して立腹せず、若い神父が熱心に耳を傾ける姿にウォルトだけではなく、見ていた私も共感しました。
また、しっかりした頭のいいタオの姉との会話も印象深い。
「The girls go to college and the boys go to jail. 」 (モン族の)女の子は大学にいって、男の子は刑務所にいく。偏屈老人にトロイ弟とやじられますが、「彼はまだやることが分からないだけ」と言い返します。この辺りの脚本がとても良くて来ています。また、ごろつきに囲まれた時も、彼女の凜とした態度や言葉にも誇り高きモン族の強さを感じます。
長い歴史が誇りや伝統を築いていきます。そこには大切なものを後世に残したいという切なる人の願いが含まれています。個人の家の生活習慣も同じように思います。毎日の挨拶や食事や人との応対にファミリーの伝統が根付いていきます。しかし、その伝統や誇りは急速なグローバル化や時代の変化に伴い、優先順位を変えてしまったように感じます。
大家族から核家族への変化にもそのそれが表れています。このたった数十年の変化が世界を大きく変えていったように感じてなりません。合理化、グローバル化、インターネット。それらすべては根底に感情が流れています。反対に誇りや伝統は理性的なものです。ここに時代の流れに押し流されていくものがあります。
誇りとはいったい何なんでしょうか?
誇りとはいったいどのような価値があるのでしょうか?
「ロッキー・ザ・ファイナル」でロッキーが最後の試合臨むとき、
一人息子の引き留めを振り払い、亡くなったエイドリアンの為でもない、
一人息子のためでもない、 唯一自分の誇りために上がろうと決意します。
「セント・オブ・ウーマン 夢の香り」では退役した盲目の軍人が、
現役時代の軍服にすべての勲章を付けて、その誇りのために自殺しようとします。
「ア・フュー・グッドメン」では百戦錬磨の大佐が、その誇りのために我を忘れ、若き弁護士の誘導尋問に、はまってしまいます。
大河ドラマの「篤姫」では「女の道は一本道。引返すは恥にございます」と
菊本は、 自分の死を持って、篤姫に役割の大切さと女の誇りを教えました。
オバマ氏は就任挨拶の中でこう云ってアメリカ国民の誇りを喚起しました。
「我々の革命の結末が最も疑わしくなった時、我が国の祖は、この言葉を人々に読むよう命じた。『酷寒の中、希望と美徳しか生き残ることができない時、共通の脅威に気づいた町も田舎もそれに立ち向かうために進み出た』と未来の世界で語られるようにしよう」
<誇りとは如何なるものか?>
この答えは皆様が自分で捜す答えのようです。
映画「グラン・トリノ」は死を前にした頑固な老人の話です。
最愛の妻に先逝かれ、急速な時代の中で家族との絆を失いながらも、
大切なものを信じ、命を賭けて守ろうとする孤高の男性の物語です。
秀作です。是非見て下さい。