今年で3回目となった父との花見。最初は奈良の吉野山の桜、昨年は姫路城の桜、今年は万博記念公園の桜でした。今年は例年より少しだけ開花が早く、万博記念公園の桜は素晴らしい満開でした。真っ青な空も私たちを歓迎してくれました。入学式ということもあり、小中学生の姿はなく、年配者の団体や幼いお子様連れのファミリーが桜の下でお弁当を広げていたり、会社の団体で来られている方々もいらっしゃいました。中央駐車場に車を止めて250円を支払って公園内に向かいました。
父の足取りは年々弱ってきており、高血圧気味のこともあり後ろから見るとフラフラしているように見えて、もう長い距離を歩くのは難しいと感じました。今年83歳になった父。連れ添った母が亡くなってからもうすぐ3年が経ちますが、賑やかで気丈夫だった母の突然の死は、父から想像以上に活力を奪い去って行ったように感じます。脳梗塞で入院した母を毎日3回、欠かさず1.5kmほどの道のりを自転車で見舞いにきた父の健常ぶりに多くの看護婦さん達が驚いていたことを思い出します。
父がまだ元気で私となんとかゴルフに行けた頃、好きなビールを飲みながらしみじみとこんなことを呟きました。
「歳を取る、人生でこんな哀しいことはない」
今の父の姿を見ているとこの言葉がどんどん胸に沁みてきます。
公園内の300mほどの広い道に、両サイドから満開の桜の枝が垂れ下がり、まるで桜のアーチのように見えました。その下のベンチに座った父に売店で買ってきたおでんとビールを手渡しました。連れ添いには缶チューハイ、運転手の私はお茶。おでんは普通でしたが、串に刺した大きめのモモ肉の焼き鳥はとても柔らかく美味しかったので、半分父に分けました。父も「これは旨い」と喜んでくれました。
食べ終わってから「もう少し奥に行こうか」と云うと「俺はここで待ってるよ」と座ったまま二人で行ってくるよう促しました。昨年の姫路城では、私たちが天守閣まで上ってくる間、入口付近のベンチで40分ほども待っていたいた父。しかし、昨年は1kmくらいは歩いたはず。今年は車を降りてまだ500mも歩いていません。このわずかな差が私の胸を締め付けました。
「毎日、歩いているか? 歩かないとすぐにあれを使わなきゃならなくなるで」
とレンタルの車イスの方を見て父に云った。
「歩いてるよ。でもな、すぐしんどなるねん」
「……」
返す言葉がなかったが、なんとか言葉を見つけて口にした。
「また写真でも始めたら? 近くの住吉公園の桜でも撮って俺に見せてよ。
俺もオヤジの影響で今でも写真が好きやねん。
小学校の時、カメラクラブの部長してたなんて知らんやろ」
「知らんかった」
「先生の自宅まで行って印画紙に映る様子まで見せてもらったんやで」
「ほう、そんなことあったんか。 前から俺のカメラやると云っていたけど取りに来いや」
「いらん云うてるやろ。また写真に興味を持ってえぇな」
「何をしてもおもろないようになってきてな…」
「……」
またあの言葉が浮かんきてしまった。
「歳を取る、人生でこんな哀しいことはない」
この言葉の奥に、
「やりたくても身体がついてこない」
「やりたいこともなくなってきた」
「生きていくはいりあいがなくなってきた」
「面白く感じることがなくなってきた」が滲んでいます。
私がいる施設のフィットネス会員の中で70歳、80歳を過ぎてもとても元気な方を何人も見受けます。健康を維持したいと想う気持ちは誰しもが持っています。その為に具体的に何をするのか、実際に行動を起こしている人とただ受け入れ、待っているだけの人と差は一体何が違うのでしょうか。
「生きていたい」と思わせる事柄は決して人からは与えて貰えません。一人一人の思いが違うからです。百八つあると云われる煩悩は人の心を平安から乱すものかも知れませんが、人は仏でもないのですから、全てを昇華させることはないように思えてなりません。
私はどの宗教にも属してはいませんが、人が宗教に傾倒していく気持ちが分からないではありません。そして宗教が必要かもしれないとも思っています。それぞれが違う夢や目標や生き方、心のあり方を持っています。だから自分の宗教をいろんな宗教からいいこと取りして作り上げていいのではないか、そして自分のスタンスを形成していくべきだと思っています。
私には生き仏のような生き方はできません。タバコも吸えば賭事もします。こうして自分の煩悩を心の何処かでうまくつき合いながら可愛がっていきたいと思います。どんな事柄でも過多になれば害が生じますが、多少の害?は必要な気がしてなりません。肉が身体に悪いといって牛肉を食べず、野菜と魚だけの食生活を送ろうとは思ったことがありません。自分の宗教にあった、自分のスタンスにあった生き方をすればいいと思っています。
「清水に魚棲まず」と言ったの孔子。
しかし、あまりにも汚れた水にも魚は棲めません。
このバランスと向き合うことこそ、実は人生の真の醍醐味かもしれません。
父に残っている煩悩は幾つあるのだろうか?
最近の父を見ているとそう多くはないように思いますが、
過去の花見の写真も合わせて「父と花見」という名の写真集を早々に作って、
缶ビール半ダース片手に父を訪ねたいと持っています。
そしてもう一度、何台もある写真機の一つを手に取って、
近くの住吉公園や住吉大社の季節を撮って見せて欲しいとお願いしたいと思います。
父の足取りは年々弱ってきており、高血圧気味のこともあり後ろから見るとフラフラしているように見えて、もう長い距離を歩くのは難しいと感じました。今年83歳になった父。連れ添った母が亡くなってからもうすぐ3年が経ちますが、賑やかで気丈夫だった母の突然の死は、父から想像以上に活力を奪い去って行ったように感じます。脳梗塞で入院した母を毎日3回、欠かさず1.5kmほどの道のりを自転車で見舞いにきた父の健常ぶりに多くの看護婦さん達が驚いていたことを思い出します。
父がまだ元気で私となんとかゴルフに行けた頃、好きなビールを飲みながらしみじみとこんなことを呟きました。
「歳を取る、人生でこんな哀しいことはない」
今の父の姿を見ているとこの言葉がどんどん胸に沁みてきます。
公園内の300mほどの広い道に、両サイドから満開の桜の枝が垂れ下がり、まるで桜のアーチのように見えました。その下のベンチに座った父に売店で買ってきたおでんとビールを手渡しました。連れ添いには缶チューハイ、運転手の私はお茶。おでんは普通でしたが、串に刺した大きめのモモ肉の焼き鳥はとても柔らかく美味しかったので、半分父に分けました。父も「これは旨い」と喜んでくれました。
食べ終わってから「もう少し奥に行こうか」と云うと「俺はここで待ってるよ」と座ったまま二人で行ってくるよう促しました。昨年の姫路城では、私たちが天守閣まで上ってくる間、入口付近のベンチで40分ほども待っていたいた父。しかし、昨年は1kmくらいは歩いたはず。今年は車を降りてまだ500mも歩いていません。このわずかな差が私の胸を締め付けました。
「毎日、歩いているか? 歩かないとすぐにあれを使わなきゃならなくなるで」
とレンタルの車イスの方を見て父に云った。
「歩いてるよ。でもな、すぐしんどなるねん」
「……」
返す言葉がなかったが、なんとか言葉を見つけて口にした。
「また写真でも始めたら? 近くの住吉公園の桜でも撮って俺に見せてよ。
俺もオヤジの影響で今でも写真が好きやねん。
小学校の時、カメラクラブの部長してたなんて知らんやろ」
「知らんかった」
「先生の自宅まで行って印画紙に映る様子まで見せてもらったんやで」
「ほう、そんなことあったんか。 前から俺のカメラやると云っていたけど取りに来いや」
「いらん云うてるやろ。また写真に興味を持ってえぇな」
「何をしてもおもろないようになってきてな…」
「……」
またあの言葉が浮かんきてしまった。
「歳を取る、人生でこんな哀しいことはない」
この言葉の奥に、
「やりたくても身体がついてこない」
「やりたいこともなくなってきた」
「生きていくはいりあいがなくなってきた」
「面白く感じることがなくなってきた」が滲んでいます。
私がいる施設のフィットネス会員の中で70歳、80歳を過ぎてもとても元気な方を何人も見受けます。健康を維持したいと想う気持ちは誰しもが持っています。その為に具体的に何をするのか、実際に行動を起こしている人とただ受け入れ、待っているだけの人と差は一体何が違うのでしょうか。
「生きていたい」と思わせる事柄は決して人からは与えて貰えません。一人一人の思いが違うからです。百八つあると云われる煩悩は人の心を平安から乱すものかも知れませんが、人は仏でもないのですから、全てを昇華させることはないように思えてなりません。
私はどの宗教にも属してはいませんが、人が宗教に傾倒していく気持ちが分からないではありません。そして宗教が必要かもしれないとも思っています。それぞれが違う夢や目標や生き方、心のあり方を持っています。だから自分の宗教をいろんな宗教からいいこと取りして作り上げていいのではないか、そして自分のスタンスを形成していくべきだと思っています。
私には生き仏のような生き方はできません。タバコも吸えば賭事もします。こうして自分の煩悩を心の何処かでうまくつき合いながら可愛がっていきたいと思います。どんな事柄でも過多になれば害が生じますが、多少の害?は必要な気がしてなりません。肉が身体に悪いといって牛肉を食べず、野菜と魚だけの食生活を送ろうとは思ったことがありません。自分の宗教にあった、自分のスタンスにあった生き方をすればいいと思っています。
「清水に魚棲まず」と言ったの孔子。
しかし、あまりにも汚れた水にも魚は棲めません。
このバランスと向き合うことこそ、実は人生の真の醍醐味かもしれません。
父に残っている煩悩は幾つあるのだろうか?
最近の父を見ているとそう多くはないように思いますが、
過去の花見の写真も合わせて「父と花見」という名の写真集を早々に作って、
缶ビール半ダース片手に父を訪ねたいと持っています。
そしてもう一度、何台もある写真機の一つを手に取って、
近くの住吉公園や住吉大社の季節を撮って見せて欲しいとお願いしたいと思います。