楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

南原繁の言葉

2007-07-03 04:49:19 | 読書
南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由

東京大学出版会

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この忙しい1ヶ月、通勤電車で何冊か読んだ。その感想。

この本は心にしみた。
昨年、東大の安田講堂で8月15日の終戦記念日に開催された集会の抄録と南原繁総長の演説集からのエッセンスである。

東大の正門から出て行く出陣学徒。皆、死を覚悟している。
それを血のにじむ苦渋で送る大学人。
軍部が本土決戦の総司令部として本郷を接収しようとする場面での命を掛けた抵抗。
占領米軍がやはり、日本のGHQ本部として本郷を接収しようとした時の抵抗。
その背景に大学人としての未来を見据えた「本気」があった。

その背景に、新渡戸稲造、内村鑑三につながる明治クリスチャンの自由の系譜があった。
明治に2つの系譜あり。1つは明治新政府が模範とした、破竹のプロイセンードイツ帝国。
そして北海道がモデルとした新世界の国、アメリカ。
それはそれぞれ、東京大学と札幌農学校(北海道大学)の理念へと受け継がれた。
南原繁は内村鑑三に師事し、その北海道の明治クリスチャンの精神を受け継いだのだ、というのが立花隆の理解である。

(注)北海道の新渡戸稲造、内村鑑三、有島武郎などの明治大正クリスチャンリベラリズムの系譜は、北海道で戦前「遠友夜学校」を作り、貧しくも向学心に燃える子供達を育てた。しかし、それらもやがて時代の荒波の中で危険思想として弾圧の嵐にさらされていく。戦後ではこの系譜は三浦綾子へとつながった、というのは私の勝手な解釈である。今はどうなっているのだろうか?

私は北海道の出身なので、この気風は共感できる。

地質学では、東大へはドイツからナウマン、そして北海道へはマサチューセッツからライマンが来たのである。
北海道大学にはクラークがやって来て、去るにあたり島牧村で馬上から「少年よ大志を抱け!」と残していった。
そして、それが理念となった。
東京大学で、この気風に通ずるのは、この本の中にも出てくる大江健三郎、そして編者の立花隆などはまさにその具現である、
と勝手に解釈。
理系では、寺田寅彦の自由な気風である。その寅彦の弟子の中谷宇吉郎は北海道大学へ移り、その気風を受け継いだ。
ただ、戦後は、そのアメリカ的自由な気風は、ソ連流左傾大学の中で多くの批判にさらされたようだ。

今の時代、この常識にとらわれない、自由な価値観「学問の自由」が危機にある。
その「学問の自由」こそ大学の命であるとは、南原繁のこころの底から沸き上がるメッセイージである。


戦後東大の正門から大きな菊の御紋がはずされたというが、なるほど、上の方にはまだ残っている。
この本を読んでいた時に、東大正門をおとづれる機会があり、思わずシャッターを切ってしまった。
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長安から北京へ

2007-05-16 08:11:13 | 読書
長安から北京へ

中央公論社

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先の九州の古本屋でやはり100円で手に入れた本である。
北海道への機中で読んだ。
手に取ったきっかけは、中国における首都の移転に関わる歴史と思ったがそうではなかった。1976年、文化大革命のまっただ中、4人組の時代に中国を訪れた旅行記と感想であった。中国で接待を受けたせいなのか、必要以上に褒め過ぎではあるが、革命中国が1つとなることは秦漢帝国2000年来の歴史になかったことであり、貧しく文化大革命の嵐の中にあってもこの国の統一は間違いなく世界史的事件であったことは確かだ。
 この本の書かれた時点(1970年代半ば)で中国の人口は8億、それから30年たった今、5割増の12億である。そして今、圧倒的な経済の発展を遂げ、大幅な黒字国家というのが今朝の新聞である。このような大中華は歴史の中で瞬間的には異民族のモンゴル(元)しかなかった。しかし、それは中国人ではなかった。今の中国の君臨はまさに1万年という時間スケールで位置づけられる人類史的事件なのであることを改めて思う一冊であった。
 私は1986年と1987年に、旧満州の北朝鮮の国境近くまで行ったことがある。今の映像を見ると当時とあまり変わらないようにも思うが、北京や西安などは全く違う世界のようである。
 ハンチンソンの「文明の衝突」が激烈に進行しているね。私の人生と寿命を超えて、我が日本、如何に生きん、と思う。
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ちょいスケ

2007-02-15 18:09:28 | 読書
スケッチは3分

光文社

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本屋に行って気がつく最近の特徴は、新書の氾濫。
いくら読みやすいといっても凄すぎる。それもほとんどキャッチーなものばかりが一方的に増える。
その意味は、瞬時にして読み終わるということ。手頃であるとも言えるが何か損をした気分になる。
岩波のような重厚なものは売れないのだろう(新戦略で頑張ろうとしているようだが)。
いわば、漫画化している。
でも、ワンポイントメッセージがあればまだ許せる。
(ちなみに私は漫画を馬鹿にしている訳ではない。昔はその中で生きていた。手塚治虫なんてほとんど全部読んだ。立派な作品は山のようにある。相当長い間私はスピリッツファンであった。いまはほとんど見ない。たまに子供のを横取りしたりしてみているが。)

これはそんな本かな?
電車片道(30分)で読み終わった。
でもメッセージは良かった。ワンショットでつかみ取る。なにやら自然から瞬間で直感でメッセージをつかみ取る科学に通じるものがある。私は絵を描くことは大好きであったが、昔この本に出会っていたら良かったなと思う。
いまからでも遅くないかな?老後の楽しみにしよう。
科学と芸術の違いは、そのつかみ取ったものが人間の頭の中ではなく、自然の中に誰が見ても存在することであることを証明する作業が求められること。
でも、観察観測から誰も描いていないメッセージを抽出する瞬間は同じである。
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西洋哲学史

2007-02-14 12:14:42 | 読書
西洋哲学史―古代から中世へ

岩波書店

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ひと月くらいかかかったか?
全く畑違いの哲学入門書
ことばが違いすぎる!2000年ひとっ飛び。しかし、なんとなく分かる。

この本を読んだ理由は、自然科学における現代のジレンマ:決定論的科学/還元論的科学=物理帝国主義と確率論的科学と複雑系科学をめぐる人間の思考の背景となった世界観をめぐる歴史を知りたいと思ったからである。地球科学はもちろん後者の中にある。

この本を読んで、この論争は実に哲学のはじまりから延々と続くものであることが伝わってくる。時代とともに、ことばを整理、定義しながら前へ前へと進んで来ていることがわかる。中世の神を巡る議論など圧倒的におもしろい。
先日の国際会議缶詰の時に、言葉の定義を巡って議論していた時、一人のアメリカ人が「科学は自然とは異なる、自然の真理、それを神と呼びたい人は読んでもいいのだがーー」と議論を展開した。この本の中の「存在」を巡る議論や、神を巡る議論はまさに、我々が知っている法則や、根本原理、そしてそれを希求している最中の科学の議論と同じである。私はこの本の中で紹介されていることばを科学上の言葉や私の中のことばに置き換えながら読んだ。すると面白いほど、伝わってくる。古代人も優れて賢かったのである。深く考えない?現代人以上であることは確実である。
この続編こそ、科学発展を受けて哲学世界へどうはね返っているのか。それを哲学者はどう俯瞰しているのか?楽しみである。
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驚くべき小説ー永遠のゼロ

2007-02-12 15:30:53 | 読書
永遠の0 (ゼロ)

太田出版

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連休だというので、本屋で通りすがりに手にした一冊。
帯に記された「児玉清のひとこと」で手にしたが、やはりこれはすごい!
本当に涙を流しながら読んでしまった。
この小説の追跡者は、私らの子供たちの世代。追跡されるものは私たちの父の世代。私はその狭間の世代。
その狭間世代故に今まで分からなかったものが、目から鱗がはがれるように落ちていく。

第2次大戦の特攻の青春と、戦後のその子たちの青春、そして今の青春をつなぐ壮絶な小説である。

私の叔父は陸軍士官学校出の軍人であった。私の妻の父はまさにこの小説の舞台、九州の特攻基地の通信兵であった。
彼らは飲むと当時の青春を振り返り、軍歌を歌っていた。
私の父は、教員であった。恐らく軍国教育をし、かつ戦後教科書に墨をぬった類いであろう。
彼は周りが飲む時でも、戦争賛美には一切組していなかったかに見えた。
一度だけ、訓練中に銃の木の柄に傷をつけてしまい、死ぬほど殴られ、必死になってそれを修復したことを酔って話しているのを聞いた。
軍隊とはなんと恐ろしいところだという恐怖が私には植え付けられた。彼らは当時の多くを私ら子供に語ることはなかった。
私らも彼らが戦争で人を殺したのかどうかは、恐ろしくて聞くことは出来なかったし、彼らも語ることは決してなかった。

彼らの多くは、既に世を去った。私の父も妻の父もすでにない。
でも、この小説は、彼らの子供たちには語ることの出来なかったことでも、時間を経て孫には語ることができるようになったこと、死ぬ前に語らなければならないことを小説として訴えている。

安っぽい戦争賛美や戦争反対ではなく、戦争とは壮大な悲劇であることが圧倒的な迫力で迫ってくる。
そしてその中で守ろうとした「愛」(それすら安っぽく響く)をこんなにも見事に描き出した小説はかつてあったであろうか?

読んだ後に、本当に生きる力がわき上がってくる作品である。
私にはこの小説を斜に構えて評論する気にはなれない。


コメント (3)
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