raraさん、コメントありがとうございます。本当に一歩引くって大事ですね。余裕がなくなるとますます負の思考スパイラルになる。さて、「もういやだ大学院、私の体験記」を記してみよう。人のおかれた状況は皆異なり、パターンなどはない。でも人の体験記は参考になる場合もあるかもしれない。
私は修士時代がもっとも苦しく、追いつめられつらい時代であった。
学部学生時代のことはまた書くとして、大学院へいくべきかどうかはいろいろ悩んだが勇んで進学した。そこでの研究課題は卒業論文の延長であった。その課題は卒論選択の時に悩んだり相談したりした結果として選んだものであった。しかし、卒論は必ずしも納得のいくものではなかった。そして修士の間も、とにかく手足を動かしてデータが蓄積されてくれば何かが見えてくるはずだ、と思いながら続けた。しかし、なかなか見えてこない。見えた!と思ってもすぐその先を考えるとまた行き詰まる。そんなことが2年間つづいた。そしていよいよ修士論文締め切りが近づいてくる。もはや夜も眠られないほどに追いつめられてくる。先輩達は「あいつはもう通らないかもしれない」とうわさしていた、と後で聞いた。最後の年末と正月は本当に不眠不休。実験室と院生の部屋との間の階段を登ったり、降りたり大量のデータの蓄積が進んだ。そして何となく様になるグラフが出来上がった。結果はオーライであり、私は博士課程へすすんだ。
でも、その後に博士で何をなすべきか、本当にこれでいいのか?こんな苦しいものなのか研究は、と真剣に考えた。そして私は決意した。もう一度ゼロからやり直すと。博士課程の時限は3年。しかし、私は手法を変え、ある意味で専門を変えることとした。そのためには最初から勉強しなければならない。修士課程からやり直すつもりで5年は掛ける、と決意した。先など全く見えない。指導者も近くにいない。当時も博士課程を終えても就職のないオーバードクター問題があった。今ほど深刻ではないが先輩達に取っては深刻な問題としてのしかかっていた。博士にはなっても何の保証もないのである。かれらはただただ研究をしたいという思いだけで生きている、世間的には特殊な人種の集まりであった。<お前もその変人の仲間になるのか?>と自問自答を繰り返したが、<一度しかない人生だ、後で後悔したくない>と思った。
その当時私にはすでに大学1年のときからつきあっている女性がいた。学部を卒業する時、親に結婚したいといったら一括された。「これから大学院へいこうと言う時に何をいうか!すねかじりの分際で!」その通りだと思った。それからさらに2年経っていた。しかし、今度はさらに5年かける決意をしたのである。もう彼女を待たせる訳にはいかなかった。私も待てなかった。修士の間は、ほとんど親の援助なしに過ごせたので、ついに親もあきらめた。全ての人生のセットアップができあがった。
何も先の見えない、貧乏生活開始の決意であったが、自分で決意したというさわやかさがあった。そして1年、死ぬ気で新しい課題に取り組んだ。そして面白さが見えてきた。それを論文として公表できたときは本当にうれしさがこみ上げた。もう研究生活からは抜けられない、人生を歩み始めていた。そして予定したより1年早く4年目に、博士の学位を余裕を持って、自信をもって発表できるところまで攻め切ることができた。
私のこの研究の苦しさからの脱却の教訓は、人の振りを見てそれの合わせていると、何をしていいかわからず追いつめられ、閉じ込められる。ぎりぎりまで自分の思いで人生を設計する、そして決意したらすぐに実行に移すことによってのみ道は開かれる、ということであった。若いときの時間は長い、ときには振り返り、時にはゼロからの再出発もいいのである。3年や4年どうということない。急がば回れ、というからね。
私はいまでも、急がば回れ、をやってる。年とともにだんだんとグルグル同じところを回っているけれどね。それでもいいや、と思っている。先へ行きたい奴は先へ行け、おれはゆくっりがいいや、とね。
私は修士時代がもっとも苦しく、追いつめられつらい時代であった。
学部学生時代のことはまた書くとして、大学院へいくべきかどうかはいろいろ悩んだが勇んで進学した。そこでの研究課題は卒業論文の延長であった。その課題は卒論選択の時に悩んだり相談したりした結果として選んだものであった。しかし、卒論は必ずしも納得のいくものではなかった。そして修士の間も、とにかく手足を動かしてデータが蓄積されてくれば何かが見えてくるはずだ、と思いながら続けた。しかし、なかなか見えてこない。見えた!と思ってもすぐその先を考えるとまた行き詰まる。そんなことが2年間つづいた。そしていよいよ修士論文締め切りが近づいてくる。もはや夜も眠られないほどに追いつめられてくる。先輩達は「あいつはもう通らないかもしれない」とうわさしていた、と後で聞いた。最後の年末と正月は本当に不眠不休。実験室と院生の部屋との間の階段を登ったり、降りたり大量のデータの蓄積が進んだ。そして何となく様になるグラフが出来上がった。結果はオーライであり、私は博士課程へすすんだ。
でも、その後に博士で何をなすべきか、本当にこれでいいのか?こんな苦しいものなのか研究は、と真剣に考えた。そして私は決意した。もう一度ゼロからやり直すと。博士課程の時限は3年。しかし、私は手法を変え、ある意味で専門を変えることとした。そのためには最初から勉強しなければならない。修士課程からやり直すつもりで5年は掛ける、と決意した。先など全く見えない。指導者も近くにいない。当時も博士課程を終えても就職のないオーバードクター問題があった。今ほど深刻ではないが先輩達に取っては深刻な問題としてのしかかっていた。博士にはなっても何の保証もないのである。かれらはただただ研究をしたいという思いだけで生きている、世間的には特殊な人種の集まりであった。<お前もその変人の仲間になるのか?>と自問自答を繰り返したが、<一度しかない人生だ、後で後悔したくない>と思った。
その当時私にはすでに大学1年のときからつきあっている女性がいた。学部を卒業する時、親に結婚したいといったら一括された。「これから大学院へいこうと言う時に何をいうか!すねかじりの分際で!」その通りだと思った。それからさらに2年経っていた。しかし、今度はさらに5年かける決意をしたのである。もう彼女を待たせる訳にはいかなかった。私も待てなかった。修士の間は、ほとんど親の援助なしに過ごせたので、ついに親もあきらめた。全ての人生のセットアップができあがった。
何も先の見えない、貧乏生活開始の決意であったが、自分で決意したというさわやかさがあった。そして1年、死ぬ気で新しい課題に取り組んだ。そして面白さが見えてきた。それを論文として公表できたときは本当にうれしさがこみ上げた。もう研究生活からは抜けられない、人生を歩み始めていた。そして予定したより1年早く4年目に、博士の学位を余裕を持って、自信をもって発表できるところまで攻め切ることができた。
私のこの研究の苦しさからの脱却の教訓は、人の振りを見てそれの合わせていると、何をしていいかわからず追いつめられ、閉じ込められる。ぎりぎりまで自分の思いで人生を設計する、そして決意したらすぐに実行に移すことによってのみ道は開かれる、ということであった。若いときの時間は長い、ときには振り返り、時にはゼロからの再出発もいいのである。3年や4年どうということない。急がば回れ、というからね。
私はいまでも、急がば回れ、をやってる。年とともにだんだんとグルグル同じところを回っているけれどね。それでもいいや、と思っている。先へ行きたい奴は先へ行け、おれはゆくっりがいいや、とね。