恩人の孫からの「再恩返し」
江戸時代の飢饉は想像を絶する。飢えで次々と人が絶命する。地獄図の世界だ。天明・天保の飢饉は、冷害におそらく風水害も重なり、経済の根幹である米が実らず、幕府も関東東北地方の多くの藩も空前の困難に直面した。
小田原で成長した尊徳が、報徳仕法で実りを復活させた。武士農民が一体となった結果だった。小田原藩は武士身分にした。それが徳川幕府にもとどろき、現在でいえば国交省大臣に当たる普請奉行となった。その時に相馬藩から出向していた人が、甚大な被害のあった藩の復興への指針を請うた。尊徳は現地へ赴く余裕はなかったが報徳仕法を丁寧に示した。相馬藩は、復興を遂げた。
幕末、戊辰の内乱で徳川側の行末に暗雲が懸念された。相馬藩は、戦場となることが懸念された、日光街道の真岡から尊徳一家の疎開地として名乗りを上げた。恩返しだった。その中に孫の尊親がいた。
相馬で成長した尊親は、恩返しへの再恩返しを実行した。
(つづく)