楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

研究の目的と目標

2006-03-20 02:18:52 | 科学
 目的と目標。卒業論文、修士論文、博士論文へ向かって研究を始める前に、私は学生に「目的と目標」すなわちテーマを決めなさい、という。当たり前のことではあるが。そして、目的と目標の違いは?どちらが上?と問う。この問いに答えられない学生が意外に多い。的は「まと」、標は「しるべ」と読むだろう。道しるべとは、目的地にたどり着くためのもの、だから目的が一番上であり、目標とはそのためのステップ、と説明する。
 ところで理系の大学において、「知ること」を目的としているのが理学部。「役にたつこと」を目的としているのが工学部、農学部、医学部、薬学部など応用系学部。「知った結果、役に立つ」ことと「役に立つ事をめざした結果、知る」こととは違う。
 「知ること」を目的とする理学部では何を知りたいのか?そこにいる人たちは、広大な宇宙の中で「私たちは何もの?私たちはどこから来て、どこへ行くの?そして今、どこにいるの?」ということを知りたいのである。いわば自分探しの旅をしているのである。しかし、このような「知ること」の究極の目的は神の目を持つことと同じで、当面できそうもない。そこでとりあえず、目標として、生命や宇宙、地球、もの、ものの理(ことわり)などに分ける。それも一気には行かないので、さらに目標を低いレベルに分けて、まだ分かっていないが、なんとか分かりそうな課題を選んで、研究のテーマとしているのである。従って、テーマを選ぶ時にはどのような分野であろうと、どれくらい早く、究極の目的「私たちは何もの?私たちはどこから来て、どこへ行くの?そして今、どこにいるの?」へ近づけるかが勝負である。一挙に近づけるテーマほど重要であり、それを研究の当面の目的(目標)とするのである。
 学生諸君、自分は何を知りたいのか?それは、究極の目的とどのようにつながっているのか?本当に重要な意味のある課題なのであるか?を自問自答すると良い。目的と目標、という系列の中に並べると、きっと見えてくる。
 
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研究の本末転倒

2006-03-19 19:49:31 | 科学
 山崎豊子「白い巨塔」という小説がある。大学医学部における権力と金と名声を軸として人間が翻弄されていく話。テレビドラマ・映画になり好評を得た。40年前、日本の大学が荒れ狂う先駆けとなった。今も変わらない科学するものの心の一面を象徴的に描く事に成功している。
 悪の主人公でも、いざ手術という時、新しい発見に遭遇した時、俗世間の権力と金と名声をめぐる醜いしがらみから解放され、子供のようにのめり込む。しかし、結果として生まれる、新しい「知の獲得に伴う名声」や、その「新しい知が生み出す金や権力」をめぐり科学者のもつ純粋な「知りたい」という心がゆがめられていく。これは結果であったものが目的とすりかわると如何に心が歪んでしまうかを示す、鋭い告発小説である。
「ノーベル賞獲得を目的として研究をしたい」とか、「お金を集めるために研究計画をたてる」とか、本末が転倒していることの目に着く昨今である。目的と結果の本末を転倒させており、「科学者の心が歪む」危険に満ち満ちている。純粋に「知りたい」ということを目的として自分の心に問いかけると、ある種の名声や、お金や、権力に翻弄されることが如何に邪魔であるかが見えてくると思うのだが。
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卒業式と人生行進曲

2006-03-19 18:48:32 | 教育
はれやかな卒業式。
何事かを成し遂げた顔の群。
彼ら彼女らは、これからの夢に向かって羽ばたくために、
これまでの区切りをうまくつけたであろうか。
これまで、楽しいことも一杯あったにちがいない。
いやなことも一杯あったにちがいない。
それらをまるごと自分の中で整理して、
後ろ髪も引かれず、後腐れもなく、羽ばたいて欲しい。
区切りをつけて、前へすすめ。
これから幾度も繰り返される人生行進曲を奏でるために。
祝卒業。
飲み過ぎるなよ、お前たち。
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大学教授もさらしものー外部評価。

2006-03-17 17:01:36 | 時評
最近、大学では外部評価というものが盛んである。第3者には外からよく見えるらしく、なかなか鋭い指摘をされる。大学教授は象牙の塔に住んでいて、誰からも批判されず、安住する時代は遠い昔。peer reviewといって同じ専門家による評価を受ける。しかも、共同研究者や同じ大学で働いていた人は、仲間であり、利益相反と見なされ、排除される。大変ではあるが、なかなか良い仕組みである。教授達はあたかも面接試験の時のように、緊張して望む。その姿は、学会で発表するときより、はるかに緊張しており、なかなかおもしろい。学会発表では批判に対し、居直ったり、ごまかしたりして、時間をやり過ごし、発表後、皆の見ていない会場の隅で、「いや、鋭いね、そこは実はまだわからないのだよ」などと言い訳をしたりする。しかし、外部評価では変な居直りは、逆効果。「この教授ないし教室はものごとが分かっていない。大幅な改善が必要である。」などと評価される。すると、それは強烈な圧力となり、研究なり、教育なりの改善につながる、と期待されている。数年後にまた、繰り返されるので、評価が気に入らなくても、それに対してきちんと対応することが求められるのである。しかし、その評価をする人が、間違った指摘をすると、強烈な反発が生まれ、評価をした人こそふさわしくはなかった、ということになる。アメリカマイナーリーグの審判と同じですね。こんな仕組みが、日本でははじまったばかりであるが、20年くらい続け、うまく機能すると、大学はよくなるね、きっと。
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開設のあいさつ

2006-03-17 01:03:25 | 生活
 さてさて、最近学生諸君がブログだなんだと、騒がしい。これも時代の流れである。ずいぶん楽しいものがブレークしているものである。というわけで、私も早速作ることにした。大学教授は教育を職業としているが、教育とは何か、という教育は受けていない。研究も職業としているが、研究とは何か、に関して最近、少々歪んでいるやに思える。
 私のモットーは、教育とは、する側もされる側もとにかく楽しいこと。研究は苦しんでするものではなく、楽しくて楽しくて、たまらいことが一番大事。しかし、苦しい時もある。それが長く続く時もある。人間なのだから。そんな徒然を、綴っていくことにしよう。
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