異形の仲間たち見聞録

私が見てきた精神疾患者たち

小説 『呆け茄子の花 その四十九』

2021年04月08日 03時30分04秒 | 小説『呆け茄子の花』
尚樹は課長との話を終えて自室に戻っていつもの仕事に戻った。ただ黙々とそして丁寧に。午前中の仕事の記録を付けていると、「この部屋のもう一人の住人」である部長が入ってきた。なにか数時間前の怒りを入ってくる前にわざと沸き立て直して入ってきたような「無理やりな怒り」で入ってきたように見えた。尚樹が何事も無かったかの様に「お疲れ様です。」と声を掛けると、部長はキリッと尚樹を睨み付けた。尚樹はこれまた何事も無かったようにPCに向き直り一心に記録を付けていた。早々に部長は荷物を持って部屋を出て行った。尚樹は一つため息をついて「相変わらず子どもみたいだ。」と思った。尚樹は今までの人生の中でいわゆる「修羅場をかいくぐって来た」ことを思うと下品な言い方をすれば「屁」の様なものだった。尚樹はふと、以前に部長が言っていた医師になった切っ掛けを聞いたことを思い出した。部長は医師の家系で親に従って医学部にはいったもののどの診療科を目指すべきか迷っていた。その頃、「遅れてきた思春期」とでも言おうか、人生に迷い、毎日のように「淡い希死念慮」が頭をもたげてきたそうである。その思いもいつの間にか消え淡い死を考えていた当時を振り返って、「精神科」を選んだそうである。その考えに至ったのも、聞いた当時も今も部長の経験からすれば大きな事だったことかもしれないが、尚樹に取ってみれば「屁」のようなことだと思った。精神疾患者の思う「死」への思いはもっと切迫した、まさに「瀬戸際」の体験であり、人によってはそのまま逝ってしまう事もある「隣人」のようなものであるからだ。記録を書き終えた尚樹は時刻がちょうど昼時を30分ほど超過していることに気づいた。尚樹は自然解凍のおかずの入ったご飯特盛りの弁当を取り出し、一気に掻き込んだ。13時まであと15分ほどあるので机に突っ伏して仮眠を取った。あの会議後の叱責の時に部長は「ろくに仕事もせずに、休んでばかりいる。」というのは、食事を終えた後のこの一服を指しており、時間を超越して働いている部長からすれば昼の一服をしている尚樹のことを「だらけている」程度にしか思っていないように見えるのかもしれないが、以前に聞いた部長が当直明けの時にどうしても日中堪えきれなくなった時には、当直室や自分だけの「診察室」で仮眠をしていることは直接聞いた話しであり,尚樹にとっては事故の後遺症により倦怠感が強く出て「昼の休憩時間」に休息を取ることを「だらけている」とは心外な話しであって、こういう時に本音が出るもんだと思った。また部長であり主治医の発言でも無いなと思った。頭を上げると13時も5分前だったので尚樹は仕事に戻った。部屋を後にして前から指示をもらっていた「ピアカウンセリング」をしに病棟へと向かった。長いカウンセリングを終え、自室に戻り記録を早めに付けて退勤時間の30分前から「準備」を始めた。「退勤の準備」ではなく「退職の準備」に。自分のデスクの上にある持ち込んだ書籍をちょうど帰りに買い物しようと持ってきていた「エコバッグ」と部屋にあった丈夫な紙の袋に詰め込み始めた。二つの袋がいっぱいになっても半分ほどの書籍と持ち込んだ文具等は残ってしまった。「致仕方なし」と思い部屋を後にした。



その五十につづく






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