松尾芭蕉 が奥の細道を歩いてから
300数十年がたつ 当時は西の高野山東の立石寺
とも言われた
しずかさや岩にしみいる蝉の声
当時はここまで来るのも大変だったろう
木陰はすっきりしていて気持ちがいい
JR仙山線の山寺駅
松尾芭蕉 が奥の細道を歩いてから
300数十年がたつ 当時は西の高野山東の立石寺
とも言われた
しずかさや岩にしみいる蝉の声
当時はここまで来るのも大変だったろう
木陰はすっきりしていて気持ちがいい
JR仙山線の山寺駅
自由民権発祥の地 三春藩の藩校の
レベルの高さが知れる
地形を見ても 山間地であるが 養蚕など独自の
地域社会を形成していた 会津藩と共通するところある
三春駒で有名 軍馬の産地
この土偶をみると 古代シルクロードと日本は
繋がっていたことが うかがい知れる
私が好きな 小藩のたたづまい
4月5日の日曜日 滝さくらは開花せず
咲く寸前のように つぼみは膨らんでいた
菜の花とのコントラストが良かった
年輪をたたえるこの姿 街の御神木
滝さくらを称える 草野心平の碑
紅しだれ桜 満開を見たかったなー
夜明けから始まる 館鼻岸壁朝市
3月15日が今シーズンの開幕
早朝から熱気があふれていた 350店がひしめき合い
外国のバザールに来ているかのようだった
混雑の禁止事項が看板に
こちらも生鮮やお惣菜がてんこ盛り
寒いのであったかい せんべい汁やラーメンなど 腹にしみこむ
ミニせんべい汁がとても温まった
シイタケの詰め放題300円は行列が
路上ライブ の喫茶店 こんな雰囲気が北の漁港にはある
本家の湊朝市は日曜日は休みで山の手は営業
パンジーのプレゼントがありました
わりと天ぷらやが目立つ
どうゆうわけかパン屋も多い
朝の5時半ぐらいか
ほっかぶりのおばあちゃんがネコヤナギを売っていた
かわいいので買った
萩焼のマイカップ 毎朝のコーヒーは一日のスタート
ドリップとホーローポット 掃除しないと
コーヒーミル これも朝の運動
我が家の 大切な宝物
ダイハツミゼットは昭和33年ごろ
亡き父が商用車として購入した
その前はダイハツラビット3輪車で
ハンドルはバイクのものだった
初めて丸ハンドルになり操作が
楽になったし小回りも利いたと
後に父に聞いたことがある
3丁目の夕日などに出てくると懐かしい
商用車とはいえ、休みの日には
家族を乗せ海水浴やハイキングなど
まめに我々を連れて行ってくれた
もちろん幌付き荷台にだがとても
楽しかった。いい時代だった。
昭和41年頃の連坊小路通り
東京オリンピックの2年後まだ
地方まで開発の波は来てなかった
作家井上ひさしが通った仙台一高まで
小説「青葉繁れる」の舞台
たき火を囲んで 男二人の芋煮会
ギターをかかえて
小椋桂や松山千春・長渕 剛の気分
二口渓谷 磐地岩 紅葉最後
今年も 二人の芋煮会 晩秋の二口はわりと暖かく眠れた
キャンプ場は3組だけ 男の焚火はいいですよ
気分は千春だが
英国人の女性旅行家 イザベラバードが
大内宿に立ち寄り1泊した。
ここの部屋がバードの泊まったところ
明治12年日光から会津街道を北上してきた
ここの3代前の当主が当時の様子を語り継いでいた
ワインを飲んだのを見て 西洋の人は赤い血を飲むと
騒いだらしい
以前、作家 高橋克彦のバードはどうして日本に
来たのか。仙台文学館で対談を聴いたことがある
戊辰戦争の後12年しか経ていない 会津によく足を踏み入れたことか
北海道までの途中だとはいえ 英国のスパイいだったとの噂もある
ここのどぶろくはなかなかのもの
念願の大内宿を散策
穏やかな秋の日差しは 遠い昔を思い出させる
東北でここだけ 木曽路・中山道の馬篭宿や木曽福島などと比べてもひけを取らない
会津藩が江戸までの街道を最短で結ぶ街道の宿場
日光街道までの道のり
誰が考えたのでしょうね 一本ねぎのナメコそば 一気に食べた ねぎは甘かった
公園ではラジオ体操を
久し振りに一緒に 気持ち良かった
まさか 東京でラジオ体操とは
九段坂の由来
マンホールも東京帝国大学とは 歴史を感じる
安田講堂も改修していた
あの「坂の上の雲」が放映されて
しばらくたつが、2度目の横須賀は新鮮だった
正岡子規役の香川照之も良かった
艦内が展示室で飽きない
陸軍の立役者は児玉源太郎
あまりにも有名 「本日天気晴朗なれども波高し」
おいら岬の灯台守はーーーー
「喜びも悲しみも幾年月」の映画は
子供のころ見た。海の安全を漠然として考えた。
ここからの眺めが素晴らしい
海上保安OBの方が案内してくれた
79段のらせん階段を登る
隣は種差牧場で競争馬を育てている
八戸線のレストラン列車は久慈まで料理のコースは7000円
シェフが手を振ってくれた ここで停車のサービス