西野了ブログ テキトーでいいんじゃない?

日々浮かんでくる言葉をエッセイにして・・・・・・。小説は「小説を読もう 西野了」で掲載中です。

ノルウェイの森が読めないわけは?

2014-05-05 10:59:43 | Weblog
 僕は村上春樹さんの大ファンだ。彼の小説は読み返すたびに新しい発見がある。
 
 一番たくさん読み返したのは「ダンス・ダンス・ダンス」でおそらく100回以上は読み返している。主人公の「僕」とユキの会話、それから「僕」と五反田君の会話が大好きだ。こんなふうにお喋りできたら素敵だなと最近とくにそう思う。あと「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」も100回近く読み返していると思う。この物語の「私」のクールな語り口にある種のユーモラスを感じて、それがとても身近に感じる。

 ところがこの時期に書かれた「ノルウェイの森」は5、6回しか読み返すことができない。

 この物語は春樹さんの小説群のなかでは異端児的な作品で、彼自身もリアリティな文体を一度経験しておこうということで書かれた作品だったと記憶している。だからスーパーナチュラルな場面はでてこない。

 もちろん僕がこの物語を読めない理由はそんなことではない、と思う。
 多くの人が死んでいったことも、その理由にはならない。「ダンス・ダンス・ダンス」でも登場人物の多くが死の世界に旅立ったが、不思議なことにそこに救いがある場合も存在する。もっとも「ノルウェイの森」の死は悲しみが連鎖し物理的に僕らを落ちこまさせる。

「ノルウェイの森」は本当の孤独が描かれている。
 僕らは日常のある時間は孤独を求めている。とりわけ僕はその傾向が強い。一人になることのできる時間が必ず必要だ。だから過剰に人を求めてしまう。
「ノルウェイの森」は最初から最後まで「僕」はずっと孤独であるように感じる。「レイコさん」や「ミドリ」とひと時交わることがあっても、「僕」の孤独感はつきまとう。もっとも愛した「直子」とはセックスをしたことで、決定的にその距離を埋めることができないを痛感してしまう。

 人は本当に孤独を抱えて生きていけるのだろうか?おそらく非常に限られた人間だけは孤独のまま死んでいくことが可能なのだろう。

 僕は今、孤独のまま生きて死んでいく、その決意がないのだろう。だから「ノルウェイの森」のページを開くことが出来ないでいる。

 けれども、この物語を読むことができる僕がはたして幸せな人間なのだろうか?
 わからない・・・・・・ 
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