昨夜、わたくしは某クラシック鑑賞団体の例会に参加した。以前にもお知らせしたが、がさつなワタクシもクラシックをたまに聴くのである。しかし傲慢で好き嫌いの激しいわたくしは、なかなか満足しない困った聴衆でもある。大体アンケート用紙に不満タラタラ述べる嫌味な65歳です。
ところが昨夜の五十嵐薫子さんのピアノは面白かった・・・凄かったです。前半2曲目ののバッハ「シャコンヌ」は知らなかったので、焦ってリサイクル数日前にYouTubeで数回聴いただけ。まさに付け焼き刃!
五十嵐薫子さんの「シャコンヌ」はかなり攻撃的で低音部をドゴーンゴーン!と打ち鳴らすのだ。(これってバッハ?)と思いましたが、ブゾーニという人が編曲したので、そういう解釈もあるのであろうかと思いましたが・・・。こういう複雑な時代だからバッハっぽく弾いてもどうなの?という五十嵐薫子さんの想いもあったのであろうか? 謎です。
前半最後はシューベルトのピアノ・ソナタ13番。この曲は知ってるしCDも持ってます。ここでも五十嵐薫子さんの低音が炸裂!うーん、力強い美しさというものがあるのかなと徐々に思い始め、シューベルトの美しい旋律とともに彼女の体のリズムを感じたのであります。(五十嵐さん、ジャズピアノも出来るんじゃね?)とジャズ好きなわたくしは勝手なことも思ったりしたのです。なかなかドライブ感のあるシューベルトで満足でありました。
そして後半はベートーヴェンのピアノ・ソナタ29番「ハンマークラヴィーア」、大曲です。わたくしが傲慢と偏見で言うのですが、ベートーヴェンの素晴らしいピアノ・ソナタを弾ききるにはバックハウスみたいに心技体が揃ってないごっつい人でないと無理ではないのか? ヘラヘラと曖昧な覚悟で弾いたら、本人の力量の無さが暴露される恐ろしい作品群ではないかと、常々危惧しておるのデス。
しかし五十嵐薫子さんは真っ向勝負で「ハンマークラヴィーア」に挑むのかと思いきや、自然体で曲に入っていきました! おおっ、そういう曲の入り方もあるのかと感心したのです。ここでも爆音が炸裂しましたが、全然うるさくなくて、奏者―聴衆-音楽の神様という見事な三角形空間が現出したのではないかと眼を見張りました。前列2列目で観ていたわたくしは五十嵐薫子さんの上の方をじーっと見ましたが、音楽の神様を見つけることは残念ながらできませんでした。
そして聖なる第三楽章では時間が止まっているのか永遠に引き伸ばされているのか分からない時間間隔を楽しむことができたのであります。
なぜ、人は音楽表現するのか? やはり言葉では表せないモノを表す一つの手法として音楽があって、それで言葉にはならないことを奏者と聴衆が対話するのだなあと・・・、そしてその間に調停者としての何者か(音楽の神様?)も確かに存在するのだと感じたわけです。
五十嵐薫子さんはお話するときはチャーミングな女性ですが、ピアノに向かうとあのジャクリーヌ‣デュプレみたいに、とり憑かれたように演奏されます。それは大きな魅力だけど体を壊してほしくないと切に願うのです。
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