僕は毎日この海岸で腰を下ろして蒼い海を眺めていた。釣りをするでもなく泳ぐわけでもない。丸いサングラスをかけて古い麦わら帽子を被って、ただ蒼い海を見ていた。西に浮かんでいる水平線は曖昧でぼんやりと見える。その曖昧な水平線から離れて積乱雲が湧き上がっている。それは高校生の時に見た積乱雲とは違っていた。あの頃見た積乱雲は暴力的で、やたら青い空と一線を画すみたいに存在を主張していた。
「ねえ、いつもそこで何をしているの?」
隣で腰を下ろしている少女が不思議そうに訊く。
「海と空と雲を見ている」
「そしてビールを飲んでいる」
「うん」
「ビールを毎日飲んでいるけど美味しいの?」
「美味しいときもあれば、そうでないときもある」
「ふーん、あなたは我慢強い人だね。私は美味しくないものは食べないし飲まないよ」
「それがマトモな人だ」
「じゃあ、あなたはマトモな人じゃないの?」
「多分、そう」
少女は何も言わずに海を見た。彼女も麦わら帽子を被っている。時折風が吹くと麦わら帽子のつばを両手で押さえたりする。
「私もビール飲もうかなぁ?」少女は立ち上がり僕が毎日行く店の方へ歩き出した。オレンジ色のワンピースにアイボリーのカーディガンが軽やかに揺れている。だけど少女はそう言ったきり帰ってこなかった。
ゆっくりと陽が西の空を動いている。学生服を着たポニーテールの女の子が隣に腰を下ろしている。
「雲にいろんな色がついているよ」
僕はおもむろに見上げると空の西半分に、緑、オレンジ、ピンク、黄、紅、水色、灰色と様々な色が混ざった雲が浮かんでいた。
「彩雲って言うの。知っていた?」女子高生は立ち上がり、小麦色に焼けた両手を大きく上に伸ばして背伸びをした。彼女の黒い瞳が僕を真っ直ぐ見つめている。
「何処かで見たような気がする・・・」僕は曖昧な返事しかできなかった。
「エーッ、覚えてないの!」彼女は僕の横に再び腰を下ろした。そしてわざとらしく両腕を組み、ピンクの頬を膨らませ僕を睨んだ。
「一緒に学園祭を準備していた時にあの雲を見たでしょう? 私たちは学園祭のポスターやパンフレット、それにデコレーションとかを夜遅くまで作ったの覚えてないの? 大変だったんだから」
「そうだったかな・・・」
僕は左肩に彼女の頭の重さを感じる。
「ホントに君は大切なことを忘れるんだね」
「そうみたいだ」
「困ったもんだね」いい香りが漂っている。レモンのような酸っぱくて甘い果実のような・・・。高校時代に僕は何をしていたのだろうか。学園祭の裏方をして、何が楽しかったのだろうか? 僕は隣を向くと甘い香りは消えていた。
「君は無口で不愛想だったけど、私は信頼していたんだよ」
ポニーテールの女子高生はまた立ち上がった。そして笑いながら波打ち際に立って僕を見た。西に動いている陽の光が海面に乱反射し、その黄金色の光が彼女を包んだ。そして光の泡のように彼女は消えていってしまった。
僕はその瞬間、思い出した。学園祭が終わった時、彼女が僕に握手求めてきたことを。僕は戸惑いながら彼女の小さな手を包んだ。僕の右手に彼女の涙が落ちてきた。あの時も空にはいろんな色を含んだ雲が浮かんでいた。
海岸の砂の熱さも僕は気にならなくなった。いや、そもそも砂の熱さなんてものを感じていたのだろうか?
僕は左手で鉛色の砂を掬いとった。砂は乾いているだろうと思ったら少し湿っていた。
「乾いているのは表面だけでしょう」紺色のサマースーツを着た女性は断定的に言った。彼女の口調はいつも歯切れがいい。良すぎるのかもしれない。
「もうすぐ夕陽が沈むわ」彼女は右手で庇をつくりオレンジ色の陽光から眼を守ろうとしている。
「サングラスをしているのに眩しいのか?」
「私の眼は光に弱いのよ。知っているでしょ」
「・・・・・・」僕は左手の砂を落として立ち上がった。そして西の空を覆っている茜色の雲を見上げた。彼女も僕と同じように西の空を見上げた。
「私たちは夕暮れとは無縁だったわ」
「夜空に月があることも忘れていた」僕は夜遅くまでオフィスでキーボードを叩いている彼女を思い出した。
「あら、私はお月さまの光、好きよ」彼女はサングラスを外し胸のポケットにそっと入れた。
「月の光じゃなくてBARのダウンライトの光じゃないのか?」
「さあ、どうかしら?」彼女は微笑みながら首を右に傾げた。
「よく飲んだな・・・・・・」
「ワイン、ビール、ウイスキー、日本酒・・・、それから焼酎もね。あなたと飲むお酒は美味しかったわ」
「毎日遅くまで仕事をして、それから遅くまで酒を飲んで。あれはいったい何だったのだろう」
「さあねぇ・・・、だけど私は楽しかったわ」
「そうか・・・」僕は職場とは違う彼女の愛くるしい笑顔を思い出した。
「ビール、飲むでしょ?」彼女から冷えた缶ビールを受け取った。銀色のステイオンタブを引っ張ると白い泡が湧き出てきた。僕は慌てて缶ビールの開け口に口をつけた。そして白い泡と麦色の液体を飲み込んだ。
「夕陽が沈むわ」彼女もビールを飲んでいた。夕陽の近くに漂っている雲は赤紫色になった。夕陽は焦るように水平線に沈んでしまった。
「ねえ、どうして急に仕事を辞めてしまったの?」彼女は紅い夕陽が沈んだ辺りを見つめながら訊いた。
「・・・・・・、うん」僕は上手く答えることが出来なかった。
「正直、私はあなたがいなくなったことが凄くショックだったのよ、いろんな意味で」
僕は言葉を紡ぎ出そうとしたが何も出てこなかった。眼を閉じて彼女と一緒に仕事をした頃のことを思い出そうとした。彼女はオフィスで神経質そうに動いていた。時折僕と眼が会うとホッとした表情を浮かべていた。僕はその彼女の顔を見るといつも微笑みたくなった。
「ポン」と優しく左肩を叩かれる感触があった。僕が眼を開けると彼女の姿は何処にも見えなくなっていた。辺りはただ茜色に染まっていた。
西に浮かんでいる水平線はまだ赤紫色に輝いていた。だけど東の空は藍色に染まり始め灰色の雲は夜が近いことを告げていた。
僕から離れているところに水色のワンピース姿の妻が佇んでいた。潮風にワンピースが膨らみ肩まであるウエーブのかかった髪は揺れていた。
僕は丸いサングラスをサマージャケットのポケットに入れて、くたびれた麦わら帽子を脱いだ。そして足早に妻の傍まで歩いて行った。
「やっと会えた。ずっと君を待っていたんだ」僕の声はくぐもっていた。
「そう? 私はずっとあなたの傍にいたのよ」妻は優しく微笑んだ。
「僕は君がこの世界からいなくなって、いろんなことが分からなくなってしまった」
「・・・・・・」妻は少し困った顔をした。
「あのさ・・・。僕も君のいる世界に行ってもいいかな?」
「私は・・・・・・まだ、それは嫌だな。あなたがこの世界を離れることは。勝手なこと言って、ごめんね」妻は俯いて恥ずかしそうに答えた。
僕らはしばらく黙っていた。
「雲が流れているね」妻は東の空を見上げていた。月の横を白く光った雲が流れている。銀色の雲から赤と青の点滅している小さな光が現れた。点滅する二つの光は寄り添って白い月を横切っていく。そのジェット旅客機の黒い影が僕と妻の間を音もなく移動していった。
「君がいると、この世界は美しく見える」
「それはあなたが美しい瞳を持っているからよ」
「・・・そんな・・・・・・ことは・・・」僕は何度も首を振った。
「ねえ・・・・・・」妻の右手が僕の左頬に触れた。
「私はあなたのことがずっと好きよ」妻は涙を流しながら、困ったように笑っていた。僕は泣いて良いのか笑って良いのか、分からなかった。
「私は幸せだったわ。だから、あなたも幸せになってほしい」
「・・・・・・」僕は何を言って良いのか、やはり分からなかった。
僕は二人を横切った影の在処(ありか)を追うように暗い空を見上げた。 白い月から離れていった雲は灰色に変わり夜空の闇に溶け込んでいく。そして赤と青が明滅したジェット旅客機は東の彼方へ消えていってしまった。
「ハイ! ほら、ビール!」僕の左頬に冷たく痛い感触があった。
「もぉー、やっぱり眠っていたのね! こんなところで眠ったら熱中症になっちゃうよ」麦わら帽子を被った少女は僕に冷えた缶ビールを手渡した。
「うわぁー、大きな入道雲!」少女は大きく眼を見開いた。そしてその意志的な瞳で膨張している積乱雲を見つめた。
「ねえ、あなたはここで海を見ているけど、あの入道雲も好きでしょ?」
「うん・・・」僕は少女の言葉に気圧されたように頷いた。
「私は夏の入道雲を見ると、何か新しいことが起こるような気がするんだ」少女は真面目な顔でそう言った。それから僕の方を恥ずかしそう見た。その黒い瞳は夏の夜空の星を宿していた。
僕が高校時代にいつも夏の積乱雲を眺めていたのは、新しい何かが始まると感じていたのかもしれない。
「アッ! あの入道雲の下の方、灰色だ。下の方は煙っているみたい。夕立が来るかもしれないよ」少女は何故か嬉しそうだった。それから僕の顔を見て一瞬キョトンとした。
「ウフフフッ、あなた、今、少し笑ったでしょ。初めて笑った顔を見たよ」そういうと少女は麦わら帽子のつばを両手で押さえて立ち上がった。そして膨れ上がった積乱雲をまた見上げた。
「そろそろ街へ帰ろうか」僕は呟いた。
「エッ、何か言った?」
「いや、別に・・・」
「そうね。それが良いかもね」少女は夏の空に別れを告げるように両手を大きく拡げた。そして眩しそうに僕を見て優しく微笑んだ。
「ねえ、いつもそこで何をしているの?」
隣で腰を下ろしている少女が不思議そうに訊く。
「海と空と雲を見ている」
「そしてビールを飲んでいる」
「うん」
「ビールを毎日飲んでいるけど美味しいの?」
「美味しいときもあれば、そうでないときもある」
「ふーん、あなたは我慢強い人だね。私は美味しくないものは食べないし飲まないよ」
「それがマトモな人だ」
「じゃあ、あなたはマトモな人じゃないの?」
「多分、そう」
少女は何も言わずに海を見た。彼女も麦わら帽子を被っている。時折風が吹くと麦わら帽子のつばを両手で押さえたりする。
「私もビール飲もうかなぁ?」少女は立ち上がり僕が毎日行く店の方へ歩き出した。オレンジ色のワンピースにアイボリーのカーディガンが軽やかに揺れている。だけど少女はそう言ったきり帰ってこなかった。
ゆっくりと陽が西の空を動いている。学生服を着たポニーテールの女の子が隣に腰を下ろしている。
「雲にいろんな色がついているよ」
僕はおもむろに見上げると空の西半分に、緑、オレンジ、ピンク、黄、紅、水色、灰色と様々な色が混ざった雲が浮かんでいた。
「彩雲って言うの。知っていた?」女子高生は立ち上がり、小麦色に焼けた両手を大きく上に伸ばして背伸びをした。彼女の黒い瞳が僕を真っ直ぐ見つめている。
「何処かで見たような気がする・・・」僕は曖昧な返事しかできなかった。
「エーッ、覚えてないの!」彼女は僕の横に再び腰を下ろした。そしてわざとらしく両腕を組み、ピンクの頬を膨らませ僕を睨んだ。
「一緒に学園祭を準備していた時にあの雲を見たでしょう? 私たちは学園祭のポスターやパンフレット、それにデコレーションとかを夜遅くまで作ったの覚えてないの? 大変だったんだから」
「そうだったかな・・・」
僕は左肩に彼女の頭の重さを感じる。
「ホントに君は大切なことを忘れるんだね」
「そうみたいだ」
「困ったもんだね」いい香りが漂っている。レモンのような酸っぱくて甘い果実のような・・・。高校時代に僕は何をしていたのだろうか。学園祭の裏方をして、何が楽しかったのだろうか? 僕は隣を向くと甘い香りは消えていた。
「君は無口で不愛想だったけど、私は信頼していたんだよ」
ポニーテールの女子高生はまた立ち上がった。そして笑いながら波打ち際に立って僕を見た。西に動いている陽の光が海面に乱反射し、その黄金色の光が彼女を包んだ。そして光の泡のように彼女は消えていってしまった。
僕はその瞬間、思い出した。学園祭が終わった時、彼女が僕に握手求めてきたことを。僕は戸惑いながら彼女の小さな手を包んだ。僕の右手に彼女の涙が落ちてきた。あの時も空にはいろんな色を含んだ雲が浮かんでいた。
海岸の砂の熱さも僕は気にならなくなった。いや、そもそも砂の熱さなんてものを感じていたのだろうか?
僕は左手で鉛色の砂を掬いとった。砂は乾いているだろうと思ったら少し湿っていた。
「乾いているのは表面だけでしょう」紺色のサマースーツを着た女性は断定的に言った。彼女の口調はいつも歯切れがいい。良すぎるのかもしれない。
「もうすぐ夕陽が沈むわ」彼女は右手で庇をつくりオレンジ色の陽光から眼を守ろうとしている。
「サングラスをしているのに眩しいのか?」
「私の眼は光に弱いのよ。知っているでしょ」
「・・・・・・」僕は左手の砂を落として立ち上がった。そして西の空を覆っている茜色の雲を見上げた。彼女も僕と同じように西の空を見上げた。
「私たちは夕暮れとは無縁だったわ」
「夜空に月があることも忘れていた」僕は夜遅くまでオフィスでキーボードを叩いている彼女を思い出した。
「あら、私はお月さまの光、好きよ」彼女はサングラスを外し胸のポケットにそっと入れた。
「月の光じゃなくてBARのダウンライトの光じゃないのか?」
「さあ、どうかしら?」彼女は微笑みながら首を右に傾げた。
「よく飲んだな・・・・・・」
「ワイン、ビール、ウイスキー、日本酒・・・、それから焼酎もね。あなたと飲むお酒は美味しかったわ」
「毎日遅くまで仕事をして、それから遅くまで酒を飲んで。あれはいったい何だったのだろう」
「さあねぇ・・・、だけど私は楽しかったわ」
「そうか・・・」僕は職場とは違う彼女の愛くるしい笑顔を思い出した。
「ビール、飲むでしょ?」彼女から冷えた缶ビールを受け取った。銀色のステイオンタブを引っ張ると白い泡が湧き出てきた。僕は慌てて缶ビールの開け口に口をつけた。そして白い泡と麦色の液体を飲み込んだ。
「夕陽が沈むわ」彼女もビールを飲んでいた。夕陽の近くに漂っている雲は赤紫色になった。夕陽は焦るように水平線に沈んでしまった。
「ねえ、どうして急に仕事を辞めてしまったの?」彼女は紅い夕陽が沈んだ辺りを見つめながら訊いた。
「・・・・・・、うん」僕は上手く答えることが出来なかった。
「正直、私はあなたがいなくなったことが凄くショックだったのよ、いろんな意味で」
僕は言葉を紡ぎ出そうとしたが何も出てこなかった。眼を閉じて彼女と一緒に仕事をした頃のことを思い出そうとした。彼女はオフィスで神経質そうに動いていた。時折僕と眼が会うとホッとした表情を浮かべていた。僕はその彼女の顔を見るといつも微笑みたくなった。
「ポン」と優しく左肩を叩かれる感触があった。僕が眼を開けると彼女の姿は何処にも見えなくなっていた。辺りはただ茜色に染まっていた。
西に浮かんでいる水平線はまだ赤紫色に輝いていた。だけど東の空は藍色に染まり始め灰色の雲は夜が近いことを告げていた。
僕から離れているところに水色のワンピース姿の妻が佇んでいた。潮風にワンピースが膨らみ肩まであるウエーブのかかった髪は揺れていた。
僕は丸いサングラスをサマージャケットのポケットに入れて、くたびれた麦わら帽子を脱いだ。そして足早に妻の傍まで歩いて行った。
「やっと会えた。ずっと君を待っていたんだ」僕の声はくぐもっていた。
「そう? 私はずっとあなたの傍にいたのよ」妻は優しく微笑んだ。
「僕は君がこの世界からいなくなって、いろんなことが分からなくなってしまった」
「・・・・・・」妻は少し困った顔をした。
「あのさ・・・。僕も君のいる世界に行ってもいいかな?」
「私は・・・・・・まだ、それは嫌だな。あなたがこの世界を離れることは。勝手なこと言って、ごめんね」妻は俯いて恥ずかしそうに答えた。
僕らはしばらく黙っていた。
「雲が流れているね」妻は東の空を見上げていた。月の横を白く光った雲が流れている。銀色の雲から赤と青の点滅している小さな光が現れた。点滅する二つの光は寄り添って白い月を横切っていく。そのジェット旅客機の黒い影が僕と妻の間を音もなく移動していった。
「君がいると、この世界は美しく見える」
「それはあなたが美しい瞳を持っているからよ」
「・・・そんな・・・・・・ことは・・・」僕は何度も首を振った。
「ねえ・・・・・・」妻の右手が僕の左頬に触れた。
「私はあなたのことがずっと好きよ」妻は涙を流しながら、困ったように笑っていた。僕は泣いて良いのか笑って良いのか、分からなかった。
「私は幸せだったわ。だから、あなたも幸せになってほしい」
「・・・・・・」僕は何を言って良いのか、やはり分からなかった。
僕は二人を横切った影の在処(ありか)を追うように暗い空を見上げた。 白い月から離れていった雲は灰色に変わり夜空の闇に溶け込んでいく。そして赤と青が明滅したジェット旅客機は東の彼方へ消えていってしまった。
「ハイ! ほら、ビール!」僕の左頬に冷たく痛い感触があった。
「もぉー、やっぱり眠っていたのね! こんなところで眠ったら熱中症になっちゃうよ」麦わら帽子を被った少女は僕に冷えた缶ビールを手渡した。
「うわぁー、大きな入道雲!」少女は大きく眼を見開いた。そしてその意志的な瞳で膨張している積乱雲を見つめた。
「ねえ、あなたはここで海を見ているけど、あの入道雲も好きでしょ?」
「うん・・・」僕は少女の言葉に気圧されたように頷いた。
「私は夏の入道雲を見ると、何か新しいことが起こるような気がするんだ」少女は真面目な顔でそう言った。それから僕の方を恥ずかしそう見た。その黒い瞳は夏の夜空の星を宿していた。
僕が高校時代にいつも夏の積乱雲を眺めていたのは、新しい何かが始まると感じていたのかもしれない。
「アッ! あの入道雲の下の方、灰色だ。下の方は煙っているみたい。夕立が来るかもしれないよ」少女は何故か嬉しそうだった。それから僕の顔を見て一瞬キョトンとした。
「ウフフフッ、あなた、今、少し笑ったでしょ。初めて笑った顔を見たよ」そういうと少女は麦わら帽子のつばを両手で押さえて立ち上がった。そして膨れ上がった積乱雲をまた見上げた。
「そろそろ街へ帰ろうか」僕は呟いた。
「エッ、何か言った?」
「いや、別に・・・」
「そうね。それが良いかもね」少女は夏の空に別れを告げるように両手を大きく拡げた。そして眩しそうに僕を見て優しく微笑んだ。