フリースクールに関わるアシスタントたち②
▼資格ではなく能力が問われる教育の世界
さて、それでは学校を離れてしまった後、代替の学び場&活動の場としてフリースクールにやってくる子どもたちを、フリースクールの教師たちはどのように迎 えるのだろうか。これは笑ってしまう話だが、学校の先生がフリースクールに尋ねる質問の一つに「教員免許を持っていますか」というのがある。「フリース クールをやるからには当たり前でしょう!」ということにもなるが、逆に言えば、学校の先生は教員免許を持っていればフリースクールなんて自分でもできる、くらいに思っているのかな─と思ってしまう。フリースクールとはそういう感覚の先生が支配する学校から逃れた子どもたちが救いを求めてやってくる場所なのに。そういう子どもたちと真正に向き合い、受け止める資質や能力があるならば、形だけの教員免許なんて本当はなくたっていいのだ(ちなみに、教員免許を必要とされるのは小中高の先生であって、大学で教鞭をとるためなら、そういうレベルで問われる資格は問題ではない。これは起業家、スポーツ選手、芸術家などでも同じ。資格ではなく専門的な分野独自の能力や技能が問われる世界なのだ。でも、近頃、粗悪品とも言える大学生や大学の教員が目につくなあ)。
▼教師としての資質とは何か
だから、フリースクールを運営責任者には現在の教育システムだけでなく、次代を担う子どもたちに必要とされる基本的ないろいろなものに精通していることが求められる。ここにやって来る子どもたちは学校を逃れてきた子どもたちがほとんどであるから(ここに、フリースクール=不登校生の居場所&学び場という日本の特殊性があるが)、そういう子どもたちにとっての育ち学ぶ空間として「イエス」であるものが満たされていなければならない。
ところが、こういうことはまだ具体的な感覚のない新人の教員や若い教員にはとても難しい。また一方、旧態依然の教育方法を頑なに墨守してきた「石部健吉」のようなベテラン教員にも難しいことでもある。
▼問題に精通しかつ乗り越えていること
教員経験があるからとか、学校でカウンセラーの仕事をしてきたからとか、将来教員になりたいからとか、今大学院で臨床心理士になる勉強をしているのでと か、自分にそういう体験があるのでとか…という単純な理由だけではとても「はい、そうですか」とお願いするわけには行かない。
そういう机上の学問を通して子どもたちを見る習性がついてしまっているとか、自身の体験として染み付いているということであるならば、その熱心さ真摯さは買うとしても、ぶっちゃけた話、むしろ一度思いっきり全てを捨ててしまった方がいい。 自分は何も知らないという全く白紙の状態から学び始める方がよっぽどいいのだ。思いこみによるその観念のアンバランスさが怖い。何事にせよ、「あ、それ、 ボク知ってる」という生半可な知識も問題ありだが、トラウマから自由になれない精神状態の危うさはもっと要注意である。まずは自分の課題は克服出来ている こと。それができていなければ悩み多き子どもたちと真正に向き合わせることはできない。まして、任せるわけにはいかないのだ。時に子どもたちの神経は繊毛 のように細く脆い。
▼「顔」で人を判断するということ
だから、フリースクールという場に来たならば、そのアシスタントの過去がどうあれ、「みな、初心者」ということになる。その時にその人物を選ぶ基準になるものは何か。それはその人の「顔」である。面接のときに履歴書と課題の小論文を出してもらうが、それはあくまでも参考に過ぎない。まじめな話から四方山話まで繰り広げて(実は、その下らないしゃべりがとても重要なのだ)、最後は「顔」で決めるのである。この決定はあえて私の独断と偏見に拠っている。
「それは酷い、顔は自分で変えようがないじゃないか」という反論が予想される。なるほど、もっともだ。しかし、かのアメリカのリンカーン大統領もやはりスタッフを決めるときに「顔」で決めたそうである。彼はこう言ったそうな。「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」と。つまり「社会人たるもの、大人になれば自分の顔に責任を持て!」 ということ。子どもの顔はまだ見た目が勝負かもしれないが(そこに生育環境がもろに反映されているが)、大人の顔は単なる自然の造作物ではないし、親から受け継いだだけの顔でもない。自分で作るものなのだ。そこにはあなたのこれまでの育ちだけでなく、今の精神状態、性格、経験、能力、見識などのすべてが言葉と同 じように、あるいはそれ以上に能弁に語られている。
(③に続く)
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▼資格ではなく能力が問われる教育の世界
さて、それでは学校を離れてしまった後、代替の学び場&活動の場としてフリースクールにやってくる子どもたちを、フリースクールの教師たちはどのように迎 えるのだろうか。これは笑ってしまう話だが、学校の先生がフリースクールに尋ねる質問の一つに「教員免許を持っていますか」というのがある。「フリース クールをやるからには当たり前でしょう!」ということにもなるが、逆に言えば、学校の先生は教員免許を持っていればフリースクールなんて自分でもできる、くらいに思っているのかな─と思ってしまう。フリースクールとはそういう感覚の先生が支配する学校から逃れた子どもたちが救いを求めてやってくる場所なのに。そういう子どもたちと真正に向き合い、受け止める資質や能力があるならば、形だけの教員免許なんて本当はなくたっていいのだ(ちなみに、教員免許を必要とされるのは小中高の先生であって、大学で教鞭をとるためなら、そういうレベルで問われる資格は問題ではない。これは起業家、スポーツ選手、芸術家などでも同じ。資格ではなく専門的な分野独自の能力や技能が問われる世界なのだ。でも、近頃、粗悪品とも言える大学生や大学の教員が目につくなあ)。
▼教師としての資質とは何か
だから、フリースクールを運営責任者には現在の教育システムだけでなく、次代を担う子どもたちに必要とされる基本的ないろいろなものに精通していることが求められる。ここにやって来る子どもたちは学校を逃れてきた子どもたちがほとんどであるから(ここに、フリースクール=不登校生の居場所&学び場という日本の特殊性があるが)、そういう子どもたちにとっての育ち学ぶ空間として「イエス」であるものが満たされていなければならない。
ところが、こういうことはまだ具体的な感覚のない新人の教員や若い教員にはとても難しい。また一方、旧態依然の教育方法を頑なに墨守してきた「石部健吉」のようなベテラン教員にも難しいことでもある。
▼問題に精通しかつ乗り越えていること
教員経験があるからとか、学校でカウンセラーの仕事をしてきたからとか、将来教員になりたいからとか、今大学院で臨床心理士になる勉強をしているのでと か、自分にそういう体験があるのでとか…という単純な理由だけではとても「はい、そうですか」とお願いするわけには行かない。
そういう机上の学問を通して子どもたちを見る習性がついてしまっているとか、自身の体験として染み付いているということであるならば、その熱心さ真摯さは買うとしても、ぶっちゃけた話、むしろ一度思いっきり全てを捨ててしまった方がいい。 自分は何も知らないという全く白紙の状態から学び始める方がよっぽどいいのだ。思いこみによるその観念のアンバランスさが怖い。何事にせよ、「あ、それ、 ボク知ってる」という生半可な知識も問題ありだが、トラウマから自由になれない精神状態の危うさはもっと要注意である。まずは自分の課題は克服出来ている こと。それができていなければ悩み多き子どもたちと真正に向き合わせることはできない。まして、任せるわけにはいかないのだ。時に子どもたちの神経は繊毛 のように細く脆い。
▼「顔」で人を判断するということ
だから、フリースクールという場に来たならば、そのアシスタントの過去がどうあれ、「みな、初心者」ということになる。その時にその人物を選ぶ基準になるものは何か。それはその人の「顔」である。面接のときに履歴書と課題の小論文を出してもらうが、それはあくまでも参考に過ぎない。まじめな話から四方山話まで繰り広げて(実は、その下らないしゃべりがとても重要なのだ)、最後は「顔」で決めるのである。この決定はあえて私の独断と偏見に拠っている。
「それは酷い、顔は自分で変えようがないじゃないか」という反論が予想される。なるほど、もっともだ。しかし、かのアメリカのリンカーン大統領もやはりスタッフを決めるときに「顔」で決めたそうである。彼はこう言ったそうな。「40歳になったら人は自分の顔に責任を持たねばならない」と。つまり「社会人たるもの、大人になれば自分の顔に責任を持て!」 ということ。子どもの顔はまだ見た目が勝負かもしれないが(そこに生育環境がもろに反映されているが)、大人の顔は単なる自然の造作物ではないし、親から受け継いだだけの顔でもない。自分で作るものなのだ。そこにはあなたのこれまでの育ちだけでなく、今の精神状態、性格、経験、能力、見識などのすべてが言葉と同 じように、あるいはそれ以上に能弁に語られている。
(③に続く)
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