教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

ぱいでぃあの社会体験学習の目指すもの

2010年05月28日 | 教育全般
▼アンティーク展とミニ・コンサート
一作日の午後は、「フリースクール・ぱいでぃあ」の子ども達とさいたま新都心のスーパー・アリーナへ。25日と26日の2日間に渡って和洋合わせて210店が参加してアンティーク展が開催された。そして、5月の「ぱいでぃあの社会体験学習」をここにしたのである。(「ぱいでぃあ」ではほぼ毎月社会体験学習を行っている)(ちなみに、「アンティーク」と呼ばれるには、100年以上の歴史の風雪をくぐり抜けたものでなければならない。)
メイン会場の一角では、何とか四重奏団(ヴァイオリン・ピアノ・チェロ・フルート)によるミニ・コンサートも開かれていた。子ども達を生のコンサートに連れて行くのは普段はなかなか難しい。だから、ポピュラーなクラッシク(?)を生で聴くのならこういうところも悪くはない。
▼誰でもが楽しめる発見の場
アンティーク展というと古臭くガビくさいイメージを持つかも知れない。しかし、見方によってはとても楽しめる面白い場所なのだ。昔の調度品、書物や絵画、絵巻物、流行り物など、昔の風俗や歴史を考察するにはもってこいの場所でもある。「新資料発見!」などというものがたまにあるが、それはこういうところが舞台であったりする。
こういうイベントに目がなく、毎回欠かさず足を運ぶ人や、何か面白いものや懐かしいもの、掘り出しものなどを求めてやって来る人もいる。やはり高齢者の割合が高く、その人自身が骨董品的ということもある。しかし、若い人や子どもには逆に何もかにもが新鮮に映る場であると言えなくもない。
▼全ては自分で決めること
また、自分という人間が試される場でもある。展示品は玉石混交である。血統書や保証書など殆どない。出店するには業者としての届け出が必要だが(フリーマーケットではないので、個人は不可)、その品物が偽物か本物か、タダ同然か目が飛び出るほど高価なものか、それを客観的に保証するものはない
他人が気に入っていても、自分は全然食指が動かないこともある。他人には二束三文の価値しかないものでも、自分にとっては大枚を叩いてでも手に入れたいものもある。全ては自分の嗜好と意思と眼力で決めること。代金を払うのも自分、値切るのも自分なのだ。他人の基準はあくまでも他人の基準。それに従うも従わぬも自分次第。全ては自分の判断に掛かっている
▼自分の眼力と自己の楽しみ
「ハンマー・プライス」という番組があった。その道のプロが素人が収集している骨董品や家宝の類を判定するという番組。「いい仕事をしているねえ~」と持ち物が評価され、ガラクタだったものがお宝に化けることもあれば、数100万円もの家宝が1万円もしないガラクタに化けることもある。それと同じことがここでも起こり得る。
自分の眼力がどこまで本物か試される場でもある。ルイ・ビトンの高級品が「made in China」の偽物になってしまうこともある。もちろん、自分で気に入ったなら「これは偽物」と割り切って買うもよし(価値は必ずしも値段で決まらない)、ガラクタはガラクタとして楽しむというようなことがあってもいいのだ。
▼とても買えない高価な湯呑み
残念ながら、私には骨董の陶磁器を見抜く眼力はない。それでも、自分なりにと感じるものがなかったわけではない。ある店頭にあった大きめの湯呑み茶碗。色合いといい、多少厚手の実在感といい、何ともいい感じだ。思わずじっと眺めていた。入れ物に何か書いてる。眼鏡でよく見ると、「八十万円、人間国宝****」とある。思わず唸って、首をふった。見ると、そこの店主(たぶん)も私に合わせて首をふっている。笑ってしまった。「いいなあ」と思うが、とても手が出せない。
▼私が買ったペルーのオカリナ
実際に私が買ったのは、100円の小物数点とオカリナ。このオカリナは会場に入って間もなく、ガラクタの中に見つけたもの。でも、その時は買わないでいた。そして会場を一周りして終りの時間が近くなったとき、やはりそれが欲しいと思った。もし売れないで残っていれば買おう─そう思って行ってみると、そのオカリナは私に買われるのを待っていた。100円の小物と同じ袋に入れて持ち帰ってよく見ると、そのオカリナは南米ペルー産のもの。しかも、そのケースには「The Metropolitan Museum of Art New York」と書かれている。そのオカリナの辿った歴史を見る気がした。このような出会いも何かの縁かも知れない。でも、日本のオカリナと違って特殊な構造をしており、説明書も楽譜もない。うまく吹けるようになるかどうか自信もない。
▼教育行為とコモンセンス
アンティーク展の後は、四重奏団の演奏に耳を傾けた。目の後は耳の保養である。デジタル化された音よりは、やはり生がいい。特に優れた演奏とは言えないが、肌触りというか、質感が違う。これが本物かイミテーションかの違いであろう。
これは教育と実際のこととの違いに似ている教育とは本質的にイミテーションの行為なのだ。なすことも触れるものも、みな複製か模倣の産物である。大人が開発し意味付けたものを子どもに理解させ、伝達させようという行為である。そこに生まれ育ちでもしない限り、まず、本物に直接触れるということはない。これは批判ではなく事実の確認である。そしてそれはそれで意味のある行為だと思っている。
しかし、教育的行為の中でも、時には本物に触れさせることが必要であろう。温室栽培の野菜や草花にも、時には覆いをとって外気に触れさせることが必要なように。フレネ教育の創始者・セレスタン・フレネがよく子ども達を校外へ連れ出したように、その流れを引く「フリースクール・ぱいでぃあ」においても、それを重視している。個性的な子ども達であるからこそ尚更に、社会人としての正常なコモンセンスを身につけてもらうために
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