東北地方北関東沖地震(名前がまだ決定できないらしく、何度も変わりますが)で被災されて亡くなられた方のご冥福をお祈りし、避難できた方々が様々な不安や不便な状況にに過ごしていらっしゃることを思い一刻も早い支援が届くことを祈り、、今まだ良い方向性が見えぬ原子力発電所の被害をどうにか抑えられるように祈る毎日です。早一週間が過ぎました。
先週は、東京で丁度外出中でした。大好きな料理の仲間と教室の真っ最中でした。新築とはいえビルの中での揺れは不気味でした。携帯はなかなかどこへもつながりませんでした。昨日になって母は「娘たちは冷たいのよ、夕方になってやっと連絡してきた」ってヒェェ~~~。真っ先に電話をしても全然つながらなかったのに。どれだけかけたか。・・・メールがやっとつながったのに、メールで済ませたと思ったらしい。先生が貸して下さった電話機もなかなかつながらないけれど携帯よりはましだった。ガァ~ン!という母の一言だった。それはともかく、余震の続く中、私たち30余名は膝を震わせながら、ただただ手順を追いながら料理を作り続け、途中で何度も何度も電話でかけ直し、実習を続けて、とうとう食してから帰路の心配をした。お友達を回り道をしてお送りするか様子を見つつ夜になって結局一人で帰路についた。2時間弱、歩きました。初めは人が沢山流れている大通りを、途中から道をそれて近道をしながら人気のないところも含めて坂を登ったり、下りたり、登ったり、下りたり…最後の坂は走り下りて、また登りきって帰宅しましたっけ。寒い夜でした。
体中冷え切って、家にだどりついてテレビを見てもっとびっくり。本当に信じられない光景だった。冷えたのは体だけではなく心もだった。気分だけ変な興奮の中にあるような~~。
とりあえず、親も子供たち、嫁、孫達の無事は確認できた。親せきも大丈夫。そしてあえて連絡を入れないほうがいいだろう位忙しい職場にいる息子も元気だろうことは推測できるのだからと気持ちを落ち着ける。
翌日は普段通りに仕事にでて、単純作業をしつつ、祈る。この日は何と夕方から夜にかけての講座もあった。
作業を進めながら、こなしながら祈る。勿論被災された方々、行方不明の方々、連絡の取れない方々のために。そして最後にこの緊急事態のために働いているだろう息子のことをちょっと加えて、「神様、みんなに力を下さい。この未曽有の大災害を乗り切るための力を与えて下さい。助けてあげて下さい」何度も何度も祈りを単純化させて祈り続ける。
その晩、長野に帰りました。長野県北部の地震は余震はあるものの家の中に被害もなく、それからの三日余もしなくてはいけない仕事を淡々と、片付けなければいけない仕事をひとつずつと過ごしていたけれど、「すべてを神様あなたにゆだねます」と祈りつつ、本当に情けないのだけれど心の中の小さな不安は息子がどうしているかということが重いのだと分かっていた。
水曜日、東京に戻って計画停電が発表され、嫁に実家に戻った方がいいのでは?と伝えようと思ったらすでに息子と連絡済みで里帰りしていてくれた、ホッ。そこで息子が◎県にいるらしいことを知った。少しだけ、ホッとした。同時期にNHKニュースで息子を見かける頻度が高くなった。連絡はないけれどそれだけで気持ちはちょっと落ち着く。
昨木曜日、やっと息子からメールが届いた。短くても何とか頑張っている様子でもっとホッとした。
引き続き祈り続けることに変わりはない。カトリックの信心の一つにノベナの祈りというのがある。9日間特別な神様への祈りを続けるのだが、その勧めを紹介して頂いたので、いつもは自分固有の祈りだったが皆と心一つにする祈りを加えることにした。やはり①被災者への支援が十分に行きわたりますように ②亡くなられた方の永遠の安息のために ③原発の事故被害が最小に食い止められ、収束に向かいますように といういことだが、欲張って ④安否の分からない親、兄弟、親せき、友人、知人がおられる方々の心労はいかばかりかと思うのでそのことも加えて祈る。そしてキャパシティーの大きな神様にもうひとつ加えるならば⑤原発を始め、津波の後の被災地で、いのちをかけて心身ともに疲労困憊している救助に当たっている方々とその家族のためにも必要な恵みと力が与えられますようにと祈る。
昨日から来週前半まで仕事は休み。頂いた日々を大切に過ごさないと、今を苦しんでいる方々に申し訳ない。できる何かを祈りながら探るつづける。
オーストラリアの娘とインターネット電話で話した。彼女の心配そうな顔を見たら、心細くなるけれど大丈夫、きっと時間はかかるかもしれないけれど、沢山に人の祈りと実際の支援が一杯の必要としている人たちに届くこともまた奇跡的な広がりがあるに違いないから。
神様、お任せします。必要な恵みと力を与えて下さい、すべての人に。
先週は、東京で丁度外出中でした。大好きな料理の仲間と教室の真っ最中でした。新築とはいえビルの中での揺れは不気味でした。携帯はなかなかどこへもつながりませんでした。昨日になって母は「娘たちは冷たいのよ、夕方になってやっと連絡してきた」ってヒェェ~~~。真っ先に電話をしても全然つながらなかったのに。どれだけかけたか。・・・メールがやっとつながったのに、メールで済ませたと思ったらしい。先生が貸して下さった電話機もなかなかつながらないけれど携帯よりはましだった。ガァ~ン!という母の一言だった。それはともかく、余震の続く中、私たち30余名は膝を震わせながら、ただただ手順を追いながら料理を作り続け、途中で何度も何度も電話でかけ直し、実習を続けて、とうとう食してから帰路の心配をした。お友達を回り道をしてお送りするか様子を見つつ夜になって結局一人で帰路についた。2時間弱、歩きました。初めは人が沢山流れている大通りを、途中から道をそれて近道をしながら人気のないところも含めて坂を登ったり、下りたり、登ったり、下りたり…最後の坂は走り下りて、また登りきって帰宅しましたっけ。寒い夜でした。
体中冷え切って、家にだどりついてテレビを見てもっとびっくり。本当に信じられない光景だった。冷えたのは体だけではなく心もだった。気分だけ変な興奮の中にあるような~~。
とりあえず、親も子供たち、嫁、孫達の無事は確認できた。親せきも大丈夫。そしてあえて連絡を入れないほうがいいだろう位忙しい職場にいる息子も元気だろうことは推測できるのだからと気持ちを落ち着ける。
翌日は普段通りに仕事にでて、単純作業をしつつ、祈る。この日は何と夕方から夜にかけての講座もあった。
作業を進めながら、こなしながら祈る。勿論被災された方々、行方不明の方々、連絡の取れない方々のために。そして最後にこの緊急事態のために働いているだろう息子のことをちょっと加えて、「神様、みんなに力を下さい。この未曽有の大災害を乗り切るための力を与えて下さい。助けてあげて下さい」何度も何度も祈りを単純化させて祈り続ける。
その晩、長野に帰りました。長野県北部の地震は余震はあるものの家の中に被害もなく、それからの三日余もしなくてはいけない仕事を淡々と、片付けなければいけない仕事をひとつずつと過ごしていたけれど、「すべてを神様あなたにゆだねます」と祈りつつ、本当に情けないのだけれど心の中の小さな不安は息子がどうしているかということが重いのだと分かっていた。
水曜日、東京に戻って計画停電が発表され、嫁に実家に戻った方がいいのでは?と伝えようと思ったらすでに息子と連絡済みで里帰りしていてくれた、ホッ。そこで息子が◎県にいるらしいことを知った。少しだけ、ホッとした。同時期にNHKニュースで息子を見かける頻度が高くなった。連絡はないけれどそれだけで気持ちはちょっと落ち着く。
昨木曜日、やっと息子からメールが届いた。短くても何とか頑張っている様子でもっとホッとした。
引き続き祈り続けることに変わりはない。カトリックの信心の一つにノベナの祈りというのがある。9日間特別な神様への祈りを続けるのだが、その勧めを紹介して頂いたので、いつもは自分固有の祈りだったが皆と心一つにする祈りを加えることにした。やはり①被災者への支援が十分に行きわたりますように ②亡くなられた方の永遠の安息のために ③原発の事故被害が最小に食い止められ、収束に向かいますように といういことだが、欲張って ④安否の分からない親、兄弟、親せき、友人、知人がおられる方々の心労はいかばかりかと思うのでそのことも加えて祈る。そしてキャパシティーの大きな神様にもうひとつ加えるならば⑤原発を始め、津波の後の被災地で、いのちをかけて心身ともに疲労困憊している救助に当たっている方々とその家族のためにも必要な恵みと力が与えられますようにと祈る。
昨日から来週前半まで仕事は休み。頂いた日々を大切に過ごさないと、今を苦しんでいる方々に申し訳ない。できる何かを祈りながら探るつづける。
オーストラリアの娘とインターネット電話で話した。彼女の心配そうな顔を見たら、心細くなるけれど大丈夫、きっと時間はかかるかもしれないけれど、沢山に人の祈りと実際の支援が一杯の必要としている人たちに届くこともまた奇跡的な広がりがあるに違いないから。
神様、お任せします。必要な恵みと力を与えて下さい、すべての人に。