Mのブログを紹介したい
枝野官房長官が、言う。「生活様式にまで踏み込んだ抜本的な対策」を。夏の電力供給量不足についての発言。
ものすごく大きな改革をしなければならないのではないだろうか。
オットは以前言っていた。
原発に頼らない生活のために、農業、放牧に重点を置くように発想を転換しなければならない、と。オットは、このところずっと、耕作放棄地や荒れた山の再生のことを考え続けている。山羊を山に放つと良いらしい、とか。豚を耕作放棄地に放つと良いらしい、とか。有り余る竹を堆肥にすると良いらしい、とか。情報を集めては考え続けている。
それらにより、大地はよみがえり、イノシシやシカが田畑を荒らしに山から降りてくることもなくなると。賛同する農家の人や研究者仲間も多く、今はその夢が少しずつ大きく育っているらしい。私も、夢を助ける手伝いをしたいけれど、何しろオットは夢が広がるばかりで、具体的な計画書を書いたり、具体的に予算を算出したりしないので、夢が白紙のままなのだ。ともかく、人間は「農」に立ち返ることが大事ではないか、と。
今回の原発事故で、日本は、世界は、転換を余儀なくされる、と多くの人が言っている。私もそう思う。
けれど、便利を追い求め、消費して支えるこの社会を転換することは可能なんだろうか?家で節電するのとは訳が違う。人々の思想を、根本から変えていく必要がある。それを、国の先導で、変えていくことなんてできるんだろうか?
今回の震災による事故のことで、原発のことを詳しく(例えばどこにあるか、とか、どれだけの電力を作り出しているか、とか)知らないでいた友人がそのことを知るきっかけになった、と言っていた。
でも一方で、原発の問題というのは思想や価値観、政治への見方などにかかわることだから、友人と気軽に話せない一面もある。
なんというややこしさ。
原発で働いている人も大勢いる。日本を明るくするために。自動車を作り出す会社、コンピュータを使ってさまざまなものを作り出す会社、飛行機や宇宙基地、衛星などを作り出す会社。最新技術を用いた先端医療とその研究。
これらに使う莫大な電力は、きっと、今の原発による電力がなければ賄えない。一方で、命を削って、発電所で働く人の安全は確保されているんだろうか、発電所周囲の住民の安全は確保されているんだろうか、などということを考えると、とても心もとない。
どこまで、抜本的な対策ができるのか、すべての日本人が、当事者として本音の意見をぶつけて大きなうねりが生まれるとよいなあと思う。
友人間でも(場合によっては親族間でも)、タブーなく電力の話ができることも願う。
このブログを読んだ時に、枝野さんの「生活様式を含めた抜本的改革」という言葉を、こんな風に身近に受け止める人がいることに心が熱くなった。だから転載を許可してもらった。
今私たちの生活は、こんなにも電気エネルギーに依存した生活(個人的にも社会的にも)だったことに改めて驚いたことは前のブログで私も書いた。そして被災地の復興に当たって、また今、皆の心と体を復興だけではなく二分している原発が何とか落ち着いた時に、11日以前のイケイケ、ドンドンの生活に戻すことがいいのかどうか本気で自分のこととして考えなくてはいけないのではないかと思う。これだけ便利性の中、快適希求の生活に慣れてしまった私たちは、あえて多少の不便があっても、多少の不自由があっても譲りあえることができるだろうか。
何度も何度も考えてみるけれど、今起きていることに自分なりに受け止めたことを考えめぐらしてみるけれど……、気がついたらとってもとっても疲れている。
人と人との希薄になった関係性が、人の心をむしばんで今の社会を生きにくくし、自死者数が減ることなく、不条理な犯罪が頻発していると分析する場面が多い。東北地方での被災者と阪神大地震の被災者を比較する時に、都市型と地方市町村型、地震と津波の差、関西人の笑いながら苦難を乗り越える力と言葉少なく忍耐強く前を見ようとする力と色々という言葉も聞く。どれもこれもありだと思う。
被災地で特に孤立した村落や不自由な避難所生活の中で、自主的に出来上がった人々の支え合う姿、譲り合う姿、立ち上がろうとする力に私は励まされている。どれだけ怖いか、辛いかと思う子供たちがまだ2週間なのに(2週間だから?かもしれないが)大きくなったら人を助ける仕事に就きたいという。外国の人がほめてくれる暴動もなく、冷静で秩序ある生活の陰には勿論泥棒も詐欺も一人占めもないことはないだろうけれど、でも何もできずに考えていて疲れたなんて言っている私よりみんなすごい。彼らの立ちあがった先に、被災しなかった人も自分たちの生活を立て直すきっかけになったら、日本は少し変わるかもしれない。その時世界に胸を張れるかもしれない。
私が何度も思い出すのは、尼崎のJR事故の時に数分を急ぐあまりにスピードをあげて大事故のこと。あれは現代社会の一つのシンボルだと思う。いつも速さを競う。新幹線が新しい車両になるたびに何分早くなったと紹介される。その数分を早くするために多くの技術が開発される。多くの人がそれに携わり、「みんなが共有できる夢」を実現していく。いつも引き合いに出して申し訳ないが、今まで何年もの時間とお金と人が夢に見て、研究に研究を重ねてきているリニアモーターカーが実現して東京と関西を結ぶ時間を縮めることの意味を私は理解できない。
と…PCに向かうことも携帯も持たない生活にあなたは戻れるのかと自問する。大事故や大災害、大事件があると沢山の人が評論家化する。そうならないようにしたいと自戒する。・・・まだまだ続く問いかけと祈り。
枝野官房長官が、言う。「生活様式にまで踏み込んだ抜本的な対策」を。夏の電力供給量不足についての発言。
ものすごく大きな改革をしなければならないのではないだろうか。
オットは以前言っていた。
原発に頼らない生活のために、農業、放牧に重点を置くように発想を転換しなければならない、と。オットは、このところずっと、耕作放棄地や荒れた山の再生のことを考え続けている。山羊を山に放つと良いらしい、とか。豚を耕作放棄地に放つと良いらしい、とか。有り余る竹を堆肥にすると良いらしい、とか。情報を集めては考え続けている。
それらにより、大地はよみがえり、イノシシやシカが田畑を荒らしに山から降りてくることもなくなると。賛同する農家の人や研究者仲間も多く、今はその夢が少しずつ大きく育っているらしい。私も、夢を助ける手伝いをしたいけれど、何しろオットは夢が広がるばかりで、具体的な計画書を書いたり、具体的に予算を算出したりしないので、夢が白紙のままなのだ。ともかく、人間は「農」に立ち返ることが大事ではないか、と。
今回の原発事故で、日本は、世界は、転換を余儀なくされる、と多くの人が言っている。私もそう思う。
けれど、便利を追い求め、消費して支えるこの社会を転換することは可能なんだろうか?家で節電するのとは訳が違う。人々の思想を、根本から変えていく必要がある。それを、国の先導で、変えていくことなんてできるんだろうか?
今回の震災による事故のことで、原発のことを詳しく(例えばどこにあるか、とか、どれだけの電力を作り出しているか、とか)知らないでいた友人がそのことを知るきっかけになった、と言っていた。
でも一方で、原発の問題というのは思想や価値観、政治への見方などにかかわることだから、友人と気軽に話せない一面もある。
なんというややこしさ。
原発で働いている人も大勢いる。日本を明るくするために。自動車を作り出す会社、コンピュータを使ってさまざまなものを作り出す会社、飛行機や宇宙基地、衛星などを作り出す会社。最新技術を用いた先端医療とその研究。
これらに使う莫大な電力は、きっと、今の原発による電力がなければ賄えない。一方で、命を削って、発電所で働く人の安全は確保されているんだろうか、発電所周囲の住民の安全は確保されているんだろうか、などということを考えると、とても心もとない。
どこまで、抜本的な対策ができるのか、すべての日本人が、当事者として本音の意見をぶつけて大きなうねりが生まれるとよいなあと思う。
友人間でも(場合によっては親族間でも)、タブーなく電力の話ができることも願う。
このブログを読んだ時に、枝野さんの「生活様式を含めた抜本的改革」という言葉を、こんな風に身近に受け止める人がいることに心が熱くなった。だから転載を許可してもらった。
今私たちの生活は、こんなにも電気エネルギーに依存した生活(個人的にも社会的にも)だったことに改めて驚いたことは前のブログで私も書いた。そして被災地の復興に当たって、また今、皆の心と体を復興だけではなく二分している原発が何とか落ち着いた時に、11日以前のイケイケ、ドンドンの生活に戻すことがいいのかどうか本気で自分のこととして考えなくてはいけないのではないかと思う。これだけ便利性の中、快適希求の生活に慣れてしまった私たちは、あえて多少の不便があっても、多少の不自由があっても譲りあえることができるだろうか。
何度も何度も考えてみるけれど、今起きていることに自分なりに受け止めたことを考えめぐらしてみるけれど……、気がついたらとってもとっても疲れている。
人と人との希薄になった関係性が、人の心をむしばんで今の社会を生きにくくし、自死者数が減ることなく、不条理な犯罪が頻発していると分析する場面が多い。東北地方での被災者と阪神大地震の被災者を比較する時に、都市型と地方市町村型、地震と津波の差、関西人の笑いながら苦難を乗り越える力と言葉少なく忍耐強く前を見ようとする力と色々という言葉も聞く。どれもこれもありだと思う。
被災地で特に孤立した村落や不自由な避難所生活の中で、自主的に出来上がった人々の支え合う姿、譲り合う姿、立ち上がろうとする力に私は励まされている。どれだけ怖いか、辛いかと思う子供たちがまだ2週間なのに(2週間だから?かもしれないが)大きくなったら人を助ける仕事に就きたいという。外国の人がほめてくれる暴動もなく、冷静で秩序ある生活の陰には勿論泥棒も詐欺も一人占めもないことはないだろうけれど、でも何もできずに考えていて疲れたなんて言っている私よりみんなすごい。彼らの立ちあがった先に、被災しなかった人も自分たちの生活を立て直すきっかけになったら、日本は少し変わるかもしれない。その時世界に胸を張れるかもしれない。
私が何度も思い出すのは、尼崎のJR事故の時に数分を急ぐあまりにスピードをあげて大事故のこと。あれは現代社会の一つのシンボルだと思う。いつも速さを競う。新幹線が新しい車両になるたびに何分早くなったと紹介される。その数分を早くするために多くの技術が開発される。多くの人がそれに携わり、「みんなが共有できる夢」を実現していく。いつも引き合いに出して申し訳ないが、今まで何年もの時間とお金と人が夢に見て、研究に研究を重ねてきているリニアモーターカーが実現して東京と関西を結ぶ時間を縮めることの意味を私は理解できない。
と…PCに向かうことも携帯も持たない生活にあなたは戻れるのかと自問する。大事故や大災害、大事件があると沢山の人が評論家化する。そうならないようにしたいと自戒する。・・・まだまだ続く問いかけと祈り。