今年3月、ロシアのシベリアにある小都市の市長選で、勝利が確実視されていた与党「統一ロシア」候補の市議会議長に、28歳の無名の「主婦」が勝利する番狂わせが起きた。このところ統一ロシアの支持率は低迷し、プーチン大統領の支持率もかつての勢いを失っていることもあり、国内で大きな話題になった。ロシアの田舎町で実際は何が起きたのか。現地を訪ねた。

 モスクワから西に約3800キロ。バイカル湖で知られるシベリアのイルクーツクから19人乗りのプロペラ機に乗り換え、タイガの森の上空を北に向かって約3時間飛ぶと、そこだけバリカンで森を刈り取ったようなウスチイリムスクの街が見えてくる。

 街の人口は約8万人。元は小さな村だったが、1960年代半ば、当時のソ連政府がダム建設とパルプ製造などの林業開発をめざし、ソ連共産党の青年組織「共産主義青年同盟」の若者を派遣して造成した人工都市だ。ソ連全土からさまざまな民族の優秀な若者が集められ、人口は最大で11万人を超えるまでに発展した。

 だが、ダムによる水力発電と林業以外の産業がない同市の経済はソ連崩壊の混乱で勢いを失い、今や人口の減少に歯止めがかからない。冬はマイナス50度にもなる厳しい気候と、大学などの高等教育機関の不足などで若者の流出が続き、存続すら危ぶまれる厳しい状況にある。

 そんな「限界都市」で3月、前職の退任に伴う市長選が行われ、野党の自由民主党から立候補したアンナ・ショキナ氏(28)が、統一ロシアから出馬したセルゲイ・ザツェピン市議会議長の得票を約6ポイント上回る44%を得票し当選した。ショキナ氏は大学を中退し、6歳(当時)の息子を育てるシングルマザー。同党地元支部の元役員だが公式な職歴はなく、候補者としての肩書は「主婦」だ。就職や役職に就く際に学歴が重視されるロシアでは異例で、モスクワでは翌日、ロシア政府発行のロシア新聞も「予想に反し主婦が当選」と報じた。

 同市もロシアの他の地域と同じく、年金の受給開始年齢の引き上げなどによる政府や統一ロシアへの反発は高まっている。だが、市内では他の都市で頻発した年金改革に対する抗議集会などは開かれず、市の与野党幹部らは「反発よりも、あきらめや政治への無関心の方が強かった」と振り返る。おとなしい市民の怒りに火をつけたのは、選挙が与党候補の当選が確実な「出来レース」になったことだった。

 ログイン前の続き選挙戦の始まる前、市民の間ではアナトリー・ドゥバス元市長ら野党の候補予定者が支持を集めていた。だが、同市の選挙管理委員会はドゥバス氏ら有力な野党候補の立候補を、「書類の不備」などを理由に却下。選挙に立てたのは、ザツェピン氏とショキナ氏のほかは、やはり無名の主婦(25)と女性店員(37)だけだった。地元の統一ロシア幹部は、「立候補の却下は、きちんとした書類を提出しなかった本人や野党の責任だ」と主張する。

「技術的候補」の番狂わせ

 ロシアでは、野党のボイコットなどで選挙が不成立になるのを防ぐため、与党に協力する野党などが「技術的候補」と呼ばれる、勝つ見込みのない候補を出馬させることが珍しくない。ショキナ氏を含む女性候補の3人は当初はこの「技術的候補」と見なされ、ショキナ氏自身も選挙戦のさなかに、「選挙なんて出たくなかったけど、党の義務で仕方なく出た。だから私の立候補は無視してほしい」などとSNSに書き込んでいた。市民の怒りは頂点に達していたが、それでも選挙戦は終盤までザツェピン氏の勝利が確実とみられていた。

 だが、投票日の数日前、立候補を却下されたドゥバス氏が動いた。ショキナ氏の支援を表明し、ショキナ氏が当選したら自らは副市長に就任すると宣言。統一ロシアに対する市民の反対票が、一気にショキナ氏に集中した。

 ショキナ氏に投票したアリョーナ・チェレパーノバさん(24)は、「統一ロシアは国民にとって悪いことばかり。ショキナが勝てば統一ロシアは困るでしょう」。モスクワの選挙監視団体「ゴロス」のアルカジー・リュバレフ氏は「政府は国民の声を無視し、政権が選んだ候補に市民が投票するものだと思っている。ショキナ氏が勝ったのではなく、統一ロシアが負けたのだ」と話す。

全土で広がる怒り

 野党候補が出馬を認められず、選挙が統一ロシアに有利に進められる例は全国でも相次いでいる。

 9月に予定されるモスクワ市議選では、立候補のために選管に提出する有権者の署名に違反があったとして有力な野党候補の届け出が軒並み受理されず、市民が猛反発。今月20日にモスクワ市内で開かれた抗議集会には2万人以上が参加し、27日には抗議のためにモスクワ市庁舎前に集まった市民ら600人以上が警察に拘束された。

 ロシア大統領府のペスコフ報道官は「(届け出の受理は)選挙管理委員会の問題。クレムリン(大統領府)は介入しない」と反論する。だが、市民の怒りはおさまらず、反政権ムードは高まる一方だ。統一ロシアは市民の反対票を恐れ、9月のモスクワ市議選では同党の候補が全員無所属で出馬する異常事態になっている。同時に行われる各地の知事選や地方議会選挙でも、無所属にくら替えする同党候補が続出している。

 ウスチイリムスク共産党地区委員会のナタリア・シェスタコワ第1書記は「9月の選挙では、アーニャ(ショキナ氏の名前の愛称)の勝ちを見た全国の市民が、統一ロシアを勝たせないための反対票を投じるはずだ」と影響を予測する。

変化か、安定か

 昨年3月の大統領選。プーチン氏に投票した人々は口々に「90年代の混乱は二度とごめんだ」とプーチン氏の安定を支持した。

 ロシアはソ連崩壊前後の経済の混乱で極端なインフレや物不足に陥った。多くの国民が当時を悪夢として記憶している。ペレストロイカで民主化を進め、冷戦を終結させたと国外で評価されるゴルバチョフ元ソ連大統領がロシア国内でひどく嫌われているのも、ソ連の崩壊で混乱を招いた張本人と見なされているためだ。

 だが、ソ連崩壊の混乱を知らない若い世代の目には、今のロシアは安定よりも停滞に映る。市民の声に耳を貸さず、圧力を強める今の政権は確実に求心力を失いつつある。そうした不満が、中央政府の目が届きにくいウスチイリムスクで暴発し、予想外の結果に結びついた可能性がある。

 「市民を反統一ロシアに走らせ、ショキナ氏を勝たせてしまったのは恥ずべきことだ」。同党ウスチイリムスク支部のイリーナ・ケトロバ事務局長は悔しさをにじませ、「今後の統一ロシアの候補者は、自分から人々の中に入って行き、対話で市民を納得させられる人物でなければならない」と力を込めた。

 今回の取材では、肝心のショキナ氏には会うことができなかった。事前にやりとりした市役所は前向きな返事をくれていたが、地元の自由民主党に「党も市長も取材は受けない」と拒否された。ショキナ氏はこれまで、ロシアメディアの取材にもほとんど応じていない。「技術的候補」を出しただけだったはずの同党にとっては想定外の事態に違いなく、行政経験のないショキナ氏の未熟さが露呈するのを恐れていると見られている。

 2014年には89%にまで達したプーチン氏の支持率はこのところ60%台で停滞し、一時の勢いはない。とはいえ、国内に脅威となる野党がいるわけではなく、ウスチイリムスクの市長選など政権にとっては痛くもかゆくもないだろう。だが、市民が反対票に込めた怒りや政治に対する絶望の気持ちは、確実に全国に広がっている。うっかり市長になってしまったショキナ氏が経験を積み、市民の期待に応えられる政治家に成長することができたら、それはきっと、政治への期待を失った市民の勇気になるはずだ。

 ショキナ氏が市長の任期を終える2024年は、プーチン