<夕されば 門田の稲葉 おとづれて
蘆のまろ屋に 秋風ぞ吹く>
(夕ぐれになれば
家の前の田の
ゆたかにみのった稲穂に
風は吹きわたる
蘆ぶきの小屋をも 風は
吹きすぎてゆく
それよ この涼しさは
おお 早や秋風なのだ)
・ひんやりした秋風が、
肌を撫でるのを感じられるような佳品である。
大納言経信(つねのぶ)は、
王朝後期の有名な歌人で、
74番の作者、俊頼(としより)の父。
長和五年(1016)~永長二年(1097)
八十二で死んでいる。
彼の生きた時代は、
王朝前期に活躍した人々が長命を保ちつつ、
次々死んでゆき、新しい時代に移る頃おいであった。
紫式部は彼の生まれる二、三年前に死んでいる。(推定)
道長や子の頼通ら藤原氏の実力者たちも死んだ。
頼通が天皇の後宮に納れた一族の姫たちは、
その昔の道長の姫たちのように、
皇子を生むことが出来なかった。
藤原一族の権勢に影がさし初めている。
しかし人々はそれに気付かないで、
平安の夢にふけっていた。
そんな時代に歌人たちは、
次の新たな時代の胎動を直感している。
経信のこの歌、
いかにもフレッシュで、新しい時代の、
精神文化を示唆するようである。
この歌は『金葉集』秋に、
「師賢(もろかた)朝臣の梅津の山里に、
人々まかりて田家秋風といへることをよめる」
として出ている。
源経信、民部卿・道方の六男。
博学で多芸で、王朝の才人、
藤原公任と並び称された。
経信にも公任の同種のエピソードがある。
承保三年(1076)秋、
白河天皇が大堰川に行幸されたとき、
詩・歌・管弦の三つの船を浮かべて、
それぞれの道に堪能の人々を乗せられた。
経信は遅れてやって来たものだから、
船はすべて岸を離れていた。
経信は汀にひざまずき、
「どの船でもいい、お寄せ下さい」
と呼ばわったそうである。
歌人で漢詩文にも長じ、
音楽家であれば、どの船に乗っても、
自信があるということであろう。
公任にも同じ話があるので、
この両人を「三船の才」といっている。
経信は琵琶もよくし、
別荘が桂にあったところから、
桂大納言と呼ばれ、
琵琶の桂流の祖、と物の本にある。
(次回へ)