「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「わたしの震災記」 ⑩

2023年01月21日 09時33分54秒 | 「ナンギやけれど」   田辺聖子作










・大阪読売新聞には、
阪神間に住む著名人の買い出しを報じている。

西宮市の棋士、内藤国雄さん。

自宅は無事だったが断水でガスも出ない。
買い出しに行かなければ。

日本将棋連盟の順位戦は二日後で、
プロ暦三十五年、一度も不戦敗はないが、
いまはそれどころではなく、
<将棋より水と食料だ>とリュックを背に買い出しに行く。
四十分歩いて<イカリスーパー>を見つけて飛び込む。

ペットボトル、ラーメン、パンを詰めこむ。

店内は大混雑、
帰宅すると順位戦延期の報が届いていたよし。

芦屋に住むヨット冒険家、堀江謙一さんは、
コンビニの行列に三時間並んだが、
すでにパン、飲料水は売り切れて、
りんご、干し柿、せんべいなどを買う。

食パンをお湯に浸してご飯代わりにしたそうだ。

兵庫区の漫画家、高橋孟さんは、
ガスボンベやカップめんを入手するため、
<関西スーパー>に並ぶ。

長田区の詩人、安水稔和さんは、
<ジャスコ>長田店に二時間行列したが、
商品はわずかしかなく、
弁当・バナナ一房・水の一セット千円、
一人一セットのみといわれ、二度並ぶ。

著名人たちもちゃんと行列して買う。

テレビで見ると、
人々はコンビニにも水の配給にも、風呂屋にも、
寒風の中を(寒い盛りであった)
じっとがまん強く並んでいた。

男も女もじつに<いい顔>をしていた。

「感動し続けたのは、ひとびとの表情だった。
神戸だけでなく、西宮、芦屋など摂津の町のひとたちをふくめ、
たれもが人間の尊厳をうしなっていなかった。
暴動の気配もなく、罵る人も少なく、
扇動者も登場しなかった。
たとえ登場しても、たれも乗らなかったろう」

(司馬遼太郎さん、産経新聞、1995・1・30)

みんなが気付いていた。
みんなが感じたそのことを、司馬さんは指摘されている。

栗田勇さん。

「今度の阪神大震災に見舞われ、
亡くなられた方々、被災者の方々には、
心より痛恨の情を捧げたい。
それと同時に、あの地震の最中に、
おのずからTVに映し出された、
日本人の行動の形に深い共感と感動を、
覚えずにはいられない。

人々の表情には、あの惨状にもかかわらず、
淡々とした平常心が浮べられていた。
私はあらためて不思議な光景をみる思いであった。

先年のロスの大地震では、
黒煙の中をサイレンを鳴らした車が走り、
群衆はこん棒を握って店を破り、
銃を手にしたものものしい警官や軍隊が、
いかめしく混乱と闘っていた。

だが、今、阪神大震災の廃墟には、
このような光景はない。

焼け野原でまだ若い男性が、
じっとわが家の跡にたたずんでいたが、
ついにたえきれぬように、少し腕を振って、
足元の焼け屑を思い切りけった。

また焼け跡の灰を小さな木の端で少し掘りながら、

『ここらに女房の骨があるんや』

とつぶやいていた初老の男。

『熱いやろ、熱いやろ』

と小声で話しかけながら、
煙をあげる焼け跡で、両手でおおった顔を、
涙でぬらしていた若い女性。

私は、あらためて、TVで不思議な風景をみるようで、
感動にゆさぶられていた。

これが、やはり、いい表し難い日本人の心の型なのだ、と。

日本のマスコミが行政と政治の功罪を諭じている間に、
いくつかの外国のマスコミは、
この光景をはっきり伝えていた。

たとえば、中国の『光明日報』
『重大な地震の中で落ち着いている様子は感動に値する』
と報じた。

また韓国の『朝鮮日報』は、
『日本人は沈着だった』
『感情を抑制した高度の秩序意識を見せた』とし、
これは、
『日本人が和の精神を学んでいるためだ』

略奪行為が皆無なのに感銘を受けたと伝えた」

(1995・2・1 毎日新聞)






          


(次回へ)

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