「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

33番、紀友則

2023年05月04日 08時14分20秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<久方の 光のどけき 春の日に
しづこころなく 花の散るらむ>


(日の光のゆったりのどかに
あたたかい春の日
まことにおだやかな好日
人みな陶然とやすらぐとき
それなのに桜の花ばかりは
静かなこころもなく
あわただしく散りまがう
音もない花吹雪
なぜそんなに散りいそぐのか)






・『古今集』巻二に、
「さくらの花のちるをよめる」として出ている。

「久方の」は、
光や日、空、月、天などにかかる枕ことば。

この歌は『古今集』の心ともいうようなところがあり、
それだけに『万葉集』派の人々からは、
凡庸単純な作として排斥されてきた。

しかし歌というのは不思議な生き物で、
心を閉ざした人が読んでも、
その中へ入ってきてくれないが、
先入観を持たない自由な心の人が、
こだわりなく親しむと、
にわかに生き生きと起ちあがってきてくれる。

しかもそのゆったりとのどかな心象風景に、
日のかげるような一抹の哀傷もある。

桜の花は散りに散る。

咲いている姿も美しいが、
花吹雪の美しさはまた無類である。

地に落ちても美しい。

友則の視線は地を雪のように埋め尽くす、
桜の花から次第に上がって、
梢に移る。

その間も、花は散り、
友則の頭上にも肩にも降りかかる。

(花よ。なぜそのように、しずこころなく・・・)

友則の唇に「しづこころ」という言葉が
ふと浮かびあがってきたのではあるまいか。

この歌の核心は「しづこころ」という言葉だと、
私は思う。

春の日の、もの悲しきアンニュイ。

それを「しづこころ」という言葉で、
彼は凝縮させた。

作者の紀友則は貫之のいとこ。

『古今集』撰者の一人であったが、
その完成を見ずに没した。

歌人としては有名であったが、
下級役人だったから、その生涯はわかっていない。






          





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