<高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ>
(はるかに見渡せば
高い山の峰の桜が
やっと 咲きはじめた
里近き山々の霞よ
立たずにいておくれ
山の桜とまぎれぬように)
・『後拾遺集』春に、
「内のおほいまうち君の家にて、
人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、
はるかに山の桜を望むといふ心をよめる。
大江匡房朝臣」
として出ている。
「内のおほいまうち君」とは、
内大臣・藤原師通(もろみち)のこと。
高砂というのは、
播磨国の国の名所であるから、
関西人としては地名と思いたくなるが、
ここは地名ではなく、
高い山、山の峰というような意味である。
また、外山(とやま)というのは、
深山(みやま)に対していう言葉で、
里に近い手前の山の意味。
桜は里近きところから咲きはじめ、
次第に深山へと咲き続く。
高い山の峰の桜が咲くころ、
里近き山々はすでに春もたけて、
もわ~んとかすむのである。
この大江匡房は、
大江匡衡(まさひら)と赤染衛門の曽孫である。
内大臣・師通のほうは、
道長の曽孫である。
幼児から秀才のほまれ高く、
漢学者、詩文家として有名だった。
天永二年(1111)七十一歳で死去。
彼の生きた時代は王朝文化の残照時代。
後冷泉・後三条・白河・堀河、
四代の天皇に仕えた。
軍学にも詳しく、
有職故実をきわめた。
勇武をうたわれた武将・義家は、
あるとき、宇治の頼通の邸で、
陸奥国でのいくさ話をしていた。
匡房はそれを聞いて、
「好漢惜しむらくは兵法を知らず」
と独りつぶやいて出た。
義家の従者がそれを聞き、
義家に告げたところ、
義家は急いで匡房のもとへ行き、
弟子の礼をとって、
兵学を学んだという。
のち永保の合戦で、
一群れの雁が刈田へ下りようとして、
にわかに驚いて列を乱して飛び立った。
義家はこの時、
匡房の教えた兵学を思いだす。
伏兵のある時は、
飛雁、列を乱すという。
そこで野の伏兵を討ちとって勝利を得た。
この匡房、かたい学者というだけでなく、
即妙の歌もよめる人だった。
若かったころ、
宮中の女房にからかわれたことがある。
堅苦しい学者だから、
きっと不風流に違いないというので、
女房たちは匡房を御簾のそばへ呼び寄せ、
これを弾いて下さい、と、
あづま琴を押し出した。
匡房はたちまち歌でこたえる。
<逢坂の 関のこなたも まだ見ねば
あづまのことも 知られざりけり>
女房たちは返すことが出来なかったという。
「こと」と「琴」をかけたもの。
なかなかの才気である。
(次回へ)