むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

73番、前中納言匡房

2023年06月13日 08時48分12秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ>


(はるかに見渡せば
高い山の峰の桜が
やっと 咲きはじめた
里近き山々の霞よ
立たずにいておくれ
山の桜とまぎれぬように)






・『後拾遺集』春に、

「内のおほいまうち君の家にて、
人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、
はるかに山の桜を望むといふ心をよめる。
大江匡房朝臣」

として出ている。

「内のおほいまうち君」とは、
内大臣・藤原師通(もろみち)のこと。

高砂というのは、
播磨国の国の名所であるから、
関西人としては地名と思いたくなるが、
ここは地名ではなく、
高い山、山の峰というような意味である。

また、外山(とやま)というのは、
深山(みやま)に対していう言葉で、
里に近い手前の山の意味。

桜は里近きところから咲きはじめ、
次第に深山へと咲き続く。

高い山の峰の桜が咲くころ、
里近き山々はすでに春もたけて、
もわ~んとかすむのである。

この大江匡房は、
大江匡衡(まさひら)と赤染衛門の曽孫である。

内大臣・師通のほうは、
道長の曽孫である。

幼児から秀才のほまれ高く、
漢学者、詩文家として有名だった。

天永二年(1111)七十一歳で死去。
彼の生きた時代は王朝文化の残照時代。

後冷泉・後三条・白河・堀河、
四代の天皇に仕えた。

軍学にも詳しく、
有職故実をきわめた。

勇武をうたわれた武将・義家は、
あるとき、宇治の頼通の邸で、
陸奥国でのいくさ話をしていた。

匡房はそれを聞いて、

「好漢惜しむらくは兵法を知らず」

と独りつぶやいて出た。

義家の従者がそれを聞き、
義家に告げたところ、
義家は急いで匡房のもとへ行き、
弟子の礼をとって、
兵学を学んだという。

のち永保の合戦で、
一群れの雁が刈田へ下りようとして、
にわかに驚いて列を乱して飛び立った。

義家はこの時、
匡房の教えた兵学を思いだす。

伏兵のある時は、
飛雁、列を乱すという。

そこで野の伏兵を討ちとって勝利を得た。

この匡房、かたい学者というだけでなく、
即妙の歌もよめる人だった。

若かったころ、
宮中の女房にからかわれたことがある。

堅苦しい学者だから、
きっと不風流に違いないというので、
女房たちは匡房を御簾のそばへ呼び寄せ、
これを弾いて下さい、と、
あづま琴を押し出した。

匡房はたちまち歌でこたえる。

<逢坂の 関のこなたも まだ見ねば
あづまのことも 知られざりけり>

女房たちは返すことが出来なかったという。

「こと」と「琴」をかけたもの。
なかなかの才気である。






          



(次回へ)

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