純情きらり」は今日で終わった。久し振りにこの朝のドラマを殆んど見た。物語の内容と言うよりは、自分が生まれた頃の時代背景に興味があったのだろう。.日中戦争が始まり、太平洋戦争に突入し、終戦を迎えた苦難の時代が自分の記憶の始りだったからだ。
昭和20年国民学校1年生として入学し、入学式は戦時中らしく青井神社で行われた。爺が四組200人を代表して神殿に玉串を捧げた。代表になったのは多分、姉が先生をしていたから頼まれたのだろう。兄のお下がりの絣の着物に、親爺が作ってくれた手作りの下駄を履いて教わった通りに行った事を覚えている。
従兄弟や。親爺が出征していく駅の光景や千人針や慰問袋の記憶。そして間もなく始まった各地域での分散教育と疎開。そして小さな空襲もあって終戦を迎えた。
爺にとってはドラマの内容よりは、その時代の記憶をたどるのが楽しかったのだろう。親爺やお袋の事、七人兄弟だったあの頃の姉や兄と、そして従兄弟や幼い頃の友達のことを重ねながら思い出す事が出来たのだった。
桜子は不幸にも結核に侵され、我が子を抱く事も無くこの世を去ってしまった。あの時代の一番恐れらていた病気は「肺病」だった。あの病気の人がおられる所は移るのが怖くて、息を止めて通ったものだった。そんな爺も小3の時、肺門リンパ腺炎と診断され結核の初期と云われたのだった。
西瀬橋の上に矢黒の淵で、そこに鍛冶屋のノリちゃん達と朝早く魚釣に出かけたが、夏なのに寒くて震えていたのが病気の始まりだった。たまらず、一人で帰ったらが、すぐさま親父が九日町の内科の先生を呼んで診察してもらった。レントゲンを撮ったりしたが、哀れなにもそう診断されたのだった。それから間もなくして親父が、何所からかアメリカの薬を手に入れてきた。ストレプトマイシンと言ったと思う。その高価なクスリを毎日お尻に注射された。
そして何故かアヒルの卵をゆで卵にして毎日食べさせられた。お陰で、夏休みと一月位養生して学校に戻る事が出来た。然し何故か顔色は青く、身体は痩せていた、学校でも背の高さは1・2番だったので尚更細く見えたのだろう。爺のあだ名のモヤシの始まりになってしまった。
代用教員をしていた姉は、終戦処理に来ていた北海道の将校さん所にお嫁に行った。余りにも遠い所だったのでお袋と兄が付き添って結婚式には行ったが、そのとき家族写真を持って行くことになった。
その時の写真姿は奇妙だ。少しでも自分の顔をふっくらにしたいと思ったのだろう。病み上がり自分が結核である事を知られたくなかったのだろうか、口の中に息を止めて膨らまして奇妙な姿で写ったのだ。
家族写真は一種の見合い写真みたいなものだったから、奇形児がいると疑われたとあとから兄から聞かされた。大学になって、北海道旅行を1ヶ月一人旅をして、未だ健在だった義兄の母上がいた美唄市に行った時、「あれあれマ~この人があの時の写真の・・・」といわれたからその噂は本当だったようだ。
七人兄弟で6番目の爺だが親爺はあの時代に高価なクスリを求めて自分の命を救ってくれた。少子化の今の時代だと多分存在無かったろうと思うと、親爺やお袋のあの時代の子育ての気力に感謝したい。
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9月最後の夜明けの空 篭り部屋から