昭和30年頃の芳野旅館

国に歴史があるように、爺にも小さな歴史がある。この建物は爺が高校を卒業すまで生活していた所謂実家です。写真も昭和30年ころのだが今は白壁になって石垣も組み替えられ散歩道路が作られている。この家の間に3階建ての料亭の跡がある一番左端の家がその名残でこの度国指定の建築物の文化財に指定されたとか。もともと相良の殿様の御典医の屋敷跡だったらしく、創業100年になるらし。オヤジの話を思い出すと熊本市内から支店としてできたらしい。木炭と材木で人吉は栄えいたらしい。肥薩線が建設され忙しくなった人吉に機関区もできてその弁当・仕出しを開業したのが成功の素だったらしい。
兄弟が7人いて小学校しか出ていなかった父は上級の学校に進ませて、苦労をかけたようだ。周りがホテル式になっても我慢して補修しながら子供を育てるのに懸命だったのだろう。旅館は分割はできんから教育が遺産別けだと言っていた。
そんなことで文化遺産になったのだろう。もうひとつの文化遺産になった旅館のH旅館の会長は息子さんにあとを譲って,何とこの地の山鹿で再婚して農業をしておられるとか!。数日前病院でお会いした、それこそ数十年ぶりであった。
私らの仲人さんで大変お世話になった方です。会長はW大の建築家出身の方ですから文化財申請に大変お世話になったことだろ」と感謝している。
↑の写真は昭和30年頃のもだと思うが、深い思い出がある。中央に三角の家がある。あの料亭につながるところでその奥に二部屋御殿医の時代の部屋があって我らが使っていた。ところがその部屋に泥棒さんが入ってバッグなどをあさっていたらしい。それに気づいた爺は木刀を持って覗いたところ、その男も顔を上げて双方びっくりして駆け出しその行き止まりでチャンバラを始めた。するとおやじが追うな」と言って応援に来たが打ち込んだ木刀がガラス戸の鍵を叩きおって窓が開いて、その泥棒さんはフラフラになって塀を乗り越えて去っていった。父の手には日本刀が握られていた。
今の時代では大変なことになっていたかもしれないし、父の勇気と子供に対する愛情と優しさを感じた高校2年生の出来事だった。

←御殿医の時代の庭が色濃く残っている中庭
先日人吉に昔からある日刊の「人吉新聞」の「瀬ノ音」というコラムに市民への見学会の様子が書かれていた。無断だがお借りして披露しておきます
◆人吉市の人吉旅館と芳野旅館が登録有形文化財になることを記念し14日に開かれた見学会。最初で最後の機会として地元参加者も多く関心の高さがうかがえた▼考えてみれば、われわれ地元住民が利用する場合は宴会か温泉で宿泊することはまずない。だからこそ客室を一度は見てみたいという好奇心もあったようだ。一見しただけでは分からない床の間、天井、窓と館内随所に施された意匠も専門家の解説で理解でき、参加者たちは驚きの連続▼紙面の都合で紹介できなかったが、例えば舟や水車の古材が使われていたり、お茶の茎を使った壁など多彩でひとつとして同じ部屋がない。その歴史を物語るエピソードも豊富で、芳野旅館では野口雨情や司馬遼太郎が好んだ客室もある▼今回、認められた近代和風建築の建物もさることながら両旅館に欠かせない魅力は温泉だろう。「人吉温泉」といっても旅館は観光客向け、銭湯は常連向けの感も。市外の知名度以前に地元の認識や利用も意外に低そうだ▼20日からは「人吉球磨は、銭湯開始!」の郡市温泉めぐりモバイルラリーが始まる。家の風呂とは違う、わがまちの温泉の魅力を見直す機会にしたい。◆
http://www.hitoyoshi-press.com/editorial/index.php

☆左側が既に開業していた料亭にの宴会場・・併設して旅館の部が併設されようとしている。昭和6年頃か・・しかしこの文化材の指定には問題もありそうだ。現在の山鹿の爺の家も国指定の文化財の史跡上に建っている、転売禁止・建て替え禁止と長男がせっかく2世帯住宅を用意しているのに動けない。国にはご存知のとおり金はないからと逃げてしまう、歴史的価値はともかく経済的には意味がないのかも・・・・☆


☆建物が完成していよいよ旅館の部が発足した。しかし昭和19年の山田川の氾濫でまず出町橋の際から石垣が崩れ始め3階の料亭がの石垣が崩れ、まさに、精霊舟のように流れていった。爺が6歳だから鮮明に記憶がある。バンザーイと叫んだらしい。昭和19年もう戦争が終わりに近づき近くにあった空港に艦載機が襲撃にやってきていた頃で当時消防団長をしていた父は
我が家より一般家庭の警備に走っていった。建物には立ち入り禁止綱を貼って何一つ持ち出しはできなかったが人的被害もなかった。一階は温泉が7つばかりあったと記憶する。右側に柿の木があって兄が木登りしてとってくれたことや。愛犬のブチが石垣のしたの歩道でなくなったのも覚えている。山田川は清流でハヤ釣りの名人のおっさんがよく釣りに来ていた。
出来あがった建物が今の旅館の本体である。一番右の部屋から1番2番と番号が記され50年前私達夫婦は武家式で結婚式を挙げた。あの頑固な父が7人兄弟の結婚式に参加したのはこの時が初めてあった。それから数年後に天草から床柱が芳野のものに違いないと送ってきた。もちろん戦後の話になる。宴会場がなくなってこの端に40畳の広間が継ぎ足しされた☆



国に歴史があるように、爺にも小さな歴史がある。この建物は爺が高校を卒業すまで生活していた所謂実家です。写真も昭和30年ころのだが今は白壁になって石垣も組み替えられ散歩道路が作られている。この家の間に3階建ての料亭の跡がある一番左端の家がその名残でこの度国指定の建築物の文化財に指定されたとか。もともと相良の殿様の御典医の屋敷跡だったらしく、創業100年になるらし。オヤジの話を思い出すと熊本市内から支店としてできたらしい。木炭と材木で人吉は栄えいたらしい。肥薩線が建設され忙しくなった人吉に機関区もできてその弁当・仕出しを開業したのが成功の素だったらしい。
兄弟が7人いて小学校しか出ていなかった父は上級の学校に進ませて、苦労をかけたようだ。周りがホテル式になっても我慢して補修しながら子供を育てるのに懸命だったのだろう。旅館は分割はできんから教育が遺産別けだと言っていた。
そんなことで文化遺産になったのだろう。もうひとつの文化遺産になった旅館のH旅館の会長は息子さんにあとを譲って,何とこの地の山鹿で再婚して農業をしておられるとか!。数日前病院でお会いした、それこそ数十年ぶりであった。
私らの仲人さんで大変お世話になった方です。会長はW大の建築家出身の方ですから文化財申請に大変お世話になったことだろ」と感謝している。

↑の写真は昭和30年頃のもだと思うが、深い思い出がある。中央に三角の家がある。あの料亭につながるところでその奥に二部屋御殿医の時代の部屋があって我らが使っていた。ところがその部屋に泥棒さんが入ってバッグなどをあさっていたらしい。それに気づいた爺は木刀を持って覗いたところ、その男も顔を上げて双方びっくりして駆け出しその行き止まりでチャンバラを始めた。するとおやじが追うな」と言って応援に来たが打ち込んだ木刀がガラス戸の鍵を叩きおって窓が開いて、その泥棒さんはフラフラになって塀を乗り越えて去っていった。父の手には日本刀が握られていた。
今の時代では大変なことになっていたかもしれないし、父の勇気と子供に対する愛情と優しさを感じた高校2年生の出来事だった。

←御殿医の時代の庭が色濃く残っている中庭
先日人吉に昔からある日刊の「人吉新聞」の「瀬ノ音」というコラムに市民への見学会の様子が書かれていた。無断だがお借りして披露しておきます
◆人吉市の人吉旅館と芳野旅館が登録有形文化財になることを記念し14日に開かれた見学会。最初で最後の機会として地元参加者も多く関心の高さがうかがえた▼考えてみれば、われわれ地元住民が利用する場合は宴会か温泉で宿泊することはまずない。だからこそ客室を一度は見てみたいという好奇心もあったようだ。一見しただけでは分からない床の間、天井、窓と館内随所に施された意匠も専門家の解説で理解でき、参加者たちは驚きの連続▼紙面の都合で紹介できなかったが、例えば舟や水車の古材が使われていたり、お茶の茎を使った壁など多彩でひとつとして同じ部屋がない。その歴史を物語るエピソードも豊富で、芳野旅館では野口雨情や司馬遼太郎が好んだ客室もある▼今回、認められた近代和風建築の建物もさることながら両旅館に欠かせない魅力は温泉だろう。「人吉温泉」といっても旅館は観光客向け、銭湯は常連向けの感も。市外の知名度以前に地元の認識や利用も意外に低そうだ▼20日からは「人吉球磨は、銭湯開始!」の郡市温泉めぐりモバイルラリーが始まる。家の風呂とは違う、わがまちの温泉の魅力を見直す機会にしたい。◆
http://www.hitoyoshi-press.com/editorial/index.php

☆左側が既に開業していた料亭にの宴会場・・併設して旅館の部が併設されようとしている。昭和6年頃か・・しかしこの文化材の指定には問題もありそうだ。現在の山鹿の爺の家も国指定の文化財の史跡上に建っている、転売禁止・建て替え禁止と長男がせっかく2世帯住宅を用意しているのに動けない。国にはご存知のとおり金はないからと逃げてしまう、歴史的価値はともかく経済的には意味がないのかも・・・・☆


☆建物が完成していよいよ旅館の部が発足した。しかし昭和19年の山田川の氾濫でまず出町橋の際から石垣が崩れ始め3階の料亭がの石垣が崩れ、まさに、精霊舟のように流れていった。爺が6歳だから鮮明に記憶がある。バンザーイと叫んだらしい。昭和19年もう戦争が終わりに近づき近くにあった空港に艦載機が襲撃にやってきていた頃で当時消防団長をしていた父は
我が家より一般家庭の警備に走っていった。建物には立ち入り禁止綱を貼って何一つ持ち出しはできなかったが人的被害もなかった。一階は温泉が7つばかりあったと記憶する。右側に柿の木があって兄が木登りしてとってくれたことや。愛犬のブチが石垣のしたの歩道でなくなったのも覚えている。山田川は清流でハヤ釣りの名人のおっさんがよく釣りに来ていた。
出来あがった建物が今の旅館の本体である。一番右の部屋から1番2番と番号が記され50年前私達夫婦は武家式で結婚式を挙げた。あの頑固な父が7人兄弟の結婚式に参加したのはこの時が初めてあった。それから数年後に天草から床柱が芳野のものに違いないと送ってきた。もちろん戦後の話になる。宴会場がなくなってこの端に40畳の広間が継ぎ足しされた☆



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