私の大伯父(母の伯父)はシベリア抑留者である。
満鉄にいて何がなんだか分からないうちに、
連れて行かれてしまったという。
関東軍のことは口を開けば糞味噌にけなしていた。
平穏時は威張り散らし、ソ連侵攻時には民間人を残して、
橋を落として逃げたという。戦車の侵攻を食い止めるためだそうだ。
軍人の矜恃というものを私は信用しないが、全くのビビリである。
戦時中、陛下の赤子みたいだった奴が、ソ連軍の気に入られようと
オルグ活動を始めたのが一番のショックだったとこぼしていた。
彼はコミンテルンの戦士として、共産党の覚えめでたく真っ先に帰還したという。
大伯父は帰還してからは満鉄出身者お決まりの国鉄入社となった。
体制糾弾は衰えなかったが、組合活動に対してはどこかニヒルな面があった。
いざとなったら何も信じられないとも言っていた。
祖父は戦艦赤城や改装後の空母赤城にも載った写真がある。
どうやって撮ったのかも驚きだが、戦時中に肋膜炎を患い、
失意のうちに亡くなった。
祖父達は当然、靖国神社には入らなかった。
入りたいとも思わないだろう。
間に合いはしなかったが、大伯父への鎮魂という意味では、
シベリア抑留者の救済の方が余程意味があると、
お盆の墓参りの時にふと思った。
満鉄にいて何がなんだか分からないうちに、
連れて行かれてしまったという。
関東軍のことは口を開けば糞味噌にけなしていた。
平穏時は威張り散らし、ソ連侵攻時には民間人を残して、
橋を落として逃げたという。戦車の侵攻を食い止めるためだそうだ。
軍人の矜恃というものを私は信用しないが、全くのビビリである。
戦時中、陛下の赤子みたいだった奴が、ソ連軍の気に入られようと
オルグ活動を始めたのが一番のショックだったとこぼしていた。
彼はコミンテルンの戦士として、共産党の覚えめでたく真っ先に帰還したという。
大伯父は帰還してからは満鉄出身者お決まりの国鉄入社となった。
体制糾弾は衰えなかったが、組合活動に対してはどこかニヒルな面があった。
いざとなったら何も信じられないとも言っていた。
祖父は戦艦赤城や改装後の空母赤城にも載った写真がある。
どうやって撮ったのかも驚きだが、戦時中に肋膜炎を患い、
失意のうちに亡くなった。
祖父達は当然、靖国神社には入らなかった。
入りたいとも思わないだろう。
間に合いはしなかったが、大伯父への鎮魂という意味では、
シベリア抑留者の救済の方が余程意味があると、
お盆の墓参りの時にふと思った。