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八月十五日 月見の賦 芭蕉 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月01日 17時50分51秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十五日 月見の賦 芭蕉

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

 ことし琵琶湖の月見むとて、しばらく木曾寺に旅寐して、膳所松本の/\を催すに、乙州は洒をたづさえて、泉川に三日の名をつたへ、正秀は茶をつゝみて、信楽(しがらき)に一夜の夢をさます。今宵は茶といひ、酒といひ、かたふの人も二派にわかれて、酒堂は灯にかたぶきて、其荼に玉川が歌を詠じ、丈抑は月にうそぶきて、其洒に楽天が詩を吟ず。

支考は若く、木節は老ひぬ、智月は物のおぼつかなふ、かつぎのあまのなま浮びならず、それが中にも惟然法師は、洒にむどろき茶に感じ、ほむるもそしるもそらに風吹て、爰に三子者の志をためざらんや。まして其外の友とする人も、峩々洋々の心ざしをしれれば、すべては飲中八仙のあそびたらん。誠や、つれ/\゛法師だに、心をつくろはぬ友えらびは、かゝる月見の佗たるやと、思ひしまゝの草の庵に浮世の外の風狂をつくせり。

   米くるゝ友をこよひの月の客

 かくて三盃の興に乗じて、湖水の月に船を浮べんと物このむ人の風情をそへたるに、杖に瓢箪の唐子はなけれども,扇に茶瓶の若男あれば、赤壁の蛤のとぼしさにはあらざめり。さゞ波や、打出の濱の名にしあふ、鏡の山もこなたにさしむかひ、日枝は横川の杉につらなりて、比良の高ねは、雁をもかぞへつべし。うしろに音羽の峰たかく、石山の鐘はあはづの嵐にさえて、そこに楓橋の霜も置ぬらん、矢植の帰帆は、今宵をもてなすに似たるべし。

    名月や湖水に浮ぶ七小町

 されば、我朝の紫式部は、石山に源氏のおもかげを寫し、唐国の蘇居士は、酉洞に越女のよそほひをたとふ。いづれも風俗の名にのこりて、今のまぽろしに浮ざらんや。實そも和漢の名蹤なりけらし。さて松本に舟をさしよせて、茶店の欄干に心をはなてば、目はよし蓬莱の水をへだてす、身はただ芙蓉の露にうるほふ。

’竹林の酒も時ならで、松が江の鱸はこよひなるをや。猶はたかたぶく月の名残には、辛崎の松もひとりやたてる、古き都の名もゆかしければ、尾花川の明ぼのをこそと、千那、尚白をおどろかしぬれば、衣ははや五更に過ぬべし。

    三井寺の門たゝかばやけふの月

 誠よ、推敲のむかしながら、船にこよひの遊をおもへば、此座に韓愈が文章をもあざむき.賈島が詩賦をももどきねべき詩人文客にとぼしからねば、たとへ赤壁の前後といふとも、その地に此人をはづべきやと、見ぬもろこしを相手にとりて、今宵の風流をあらそふほどに、月は長等山の木の間に入りぬ。 (和漢文操)

 

わたましの夜  芭 蕉

名月にふもとの雲や田のくもり

名月の花かと見えて棉畠     (続猿蓑)

今宵誰よし野の月も十六里    (笈日記)

 

【註】元禄七年八月命終の二ケ月前、舊佑里なる長兄の宅地に小庵を作りて其披露をした夜の作「笈日記」に[名月の佳章三句」としてあるのを逍補する。

 

堅田十六夜之辨    芭 蕉

 

 望月の残與なをやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。共日申の時ばかりに、何某茂兵行成秀といふ人の家のうしろにゐたる。酢翁狂客月にうかれて来れりと聲々によばふ。

主思ひがけずおどろきよろこびて、簾をまき簾を拂ふ。

園中に、芋あり、さゝげ有、鰹鮒の切目たゞさぬこそいと興なけれと、岸上に菰をのべて宴をもよほす。月は待つほどもなくさし出、湖上花やかに照らす。

かねてきく、仲の秋の望の日.月の浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によって、三上、水莖岡は南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山顛(いただき)を奎じゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いずれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、折く雲のかゝるこそと客をもてなす心いと切なり。やがて、月雲外にはなれ出て、金風銀波千體佛のひかりに映ず。かのかたぶく月のおしきのみかは、と京極黄門の歎息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、此堂にあそびてこそ、ふたゝび恵心の僧都の衣もうるほすなれといへば、あるじまた云、興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむやと、もとの岸上に盃を揚て、月は横川にいたらんとす。

   鎖(じょう)明て月さし入よ浮御堂   はせを

   安/\と出ていざよふ月の雲      同 (小文庫)

 

 【註】八月十六日 前文とつづいて書かれたものであろらう。支考の「本朝文鱈」に載せてあ

るものは、措辞が大分違つてゐるけれども、此方が原文であらうかと推せられる。

猶此時の句に、「十六夜や海老煮る程の宵の闇」芭蕉

「浮御堂」の中に千但佛が祀ってあるので、月光の波に砕くる様を千體佛の光にたとへ

たのである。

前出[堅田十六夜之辨」に「何某茂兵衛成秀」の家で馳走になったことが書いてある。

その政秀の庭上の松を誉めた言葉である。「元禄四年仲秋日」と眞蹟にある。

「奥の細道」には「十六日、空雲たれば、ますほの小貝拾はと、種の濱に舟を走す、

海上七里あり、天え走ん

  

松 芭 蕉

 

 松あり高さ九尺ばかり、下枝さし出るもの一丈餘、枝上段を重、非葉森々とこまやかなり。風琴をあやどり、雨をよび波をおこす。筝に似、笛に似、靸ににて、波天領をとく。當時牡丹を愛する人、奇出を集めて他にほこり、菊を作れる人は小輪を笑て人にあらそふ。柿木柑類はその實をみて枝葉のかたちをいはず、唯松獨り霜後に秀、四時常盤にしてしかもそのけしきをわかつ。楽天曰く、松能舊気を吐、故に千歳を經と、主人目をよろこばしめ心を慰するのみにあらず、長生保養の気を知て、齢をまつに契るならべし。  (堅田集)

 

種の濱   等 裁

 

 気比の海のけしきにめで、色の濱の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは西上人の形見なりけらし、されば所の小わらまで、その名を傳へて、しほの間をあさり、風碓の人の心をなぐさむ。下官もとし比思ひ渡りしに、此たび武江芭蕉桃青、巡国の序、この濱にまうで侍る。同じ舟にさそはれて小貝を拾ひ袂につつみ、盃にうち人なんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。

                                    福井洞哉書

  小萩散れますほの小貝小盃    桃 青

   (越前種の濱、本陸寺所蔵眞蹟)

   元禄二年仲秋

寂しさや須麿にかちたる濱の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵    (奥の細道)

【註】芭蕉と同行した「ひとりは浪客の士」は奥の細道にも同行した曾良、

ひとりは水雲の僧」は宗波といふ者。「僧にもあらず俗にもあらず」は己れの事。

   秦甸一千里とは、都の四方の郊外は一千里にも及ぶ廣袤あるべきもの、朗詠集に、

奉甸之一千餘里、凛々氷舗云々。日本式尊の言葉とは、後項酒折に註す。

  爲仲は奥州の任に下りし時、宮城野の萩を長櫃十二合に入れて上京したといふ。

 

八月十七日

鹿島の月見んと  芭 蕉

 

 洛の真宗、須磨の浦の月見に行て、松かげや、月は三五夜中納言といひけむ、

狂夫のむかしもなつかしきまゝに、此秋鹿島山の月見むと、おもひ立事あり。

伴なふ人二人、ひとりは浪客の士、ひとりは水雲の僧、僧は烏のごとくなる墨の衣に三衣の袋をえりに打かけ、出山の尊像をダ厨子あがめ入りて、背中に背負う。柱杖曳ならして、無門の關もさはるものなく、天地(あまつち)に獨歩して出でぬ。今独りは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠に間に、名をかうふりの.鳥なき島にも渡りぬべくて、門より船に乗りて、行徳といふ所にいたる。

 船をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力ためさむと、歩行よりぞ行。甲斐国より、ある人の得させたる、檜木もてつくれる笠を、をの/\いただきそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ、ひろき野あり。秦甸(しんてん)の一千里とかや、目もはるかに見わたさるゝ。筑波山向うに高く、二峯ならびたてり。かの唐士の双釼の峯ありと間へしは、廬山の一隅なり、雪は申さず、先むらさきの筑波かなとは、我門人嵐雪が句なり。すべて此の山は、日本武尊(やまとたける)の言葉をつたへて、連哥する人のはじめにも名づけたり。和哥なくばあるべからず、句なくは過べからす、誠に愛すべき山の姿なりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都の土産に持せたるも風流にくからず。きちかう、をみなへし、かるかや、尾花みだれ合て、小男鹿のつま懸ふ聲、いとあはれなり。野の駒、所得がほに群れありく、又あはれ也。日すでに暮れかゝる程に、利根川のほとり、布佐といふ所に着く。此の川にて鮭の網代といふもをたくみて、武江の市にひさぐ者あり、宵のほど、その漁家に入りてや盃にうち入りなんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。

     福井洞哉書

   

小荻散れますほの小貝小盃   桃 青

(越前種の濱、本隆寺所蔵真蹟)

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵   (奥の細道)

 【註】屋何某と云ふもの、破籠小竹(わりこきさえ)筒などこまやかにしたためさせ、

僕あまた舟にとりのせて、追い風時のまに吹着ぬ、濱はわつかなる海士の小家にて、

佗しき法花寺あり、爰に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪へたり…… 

其日のあらまし、等裁に筆をとらせて寺に残す」


八月十日  萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月01日 11時37分31秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十日

 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

貞享五年、吉野に花を見、須磨に夏の月を眺めてより、東に戻りつゝあった芭蕉は、名古屋まで来て、信濃姥捨山の名月が見たいといふ心を起して,そこから木曾路へと、旅の又旅を思付いた。これは其送別である。句は名古屋と熱田の連衆。

 

さらしなに行、人々にむかひて

更級の月は二人に見られけり      荷 兮

   越人旅立けるよし聞て、京より申つかはす。

月に行脇差つめよ馬のうへ       野 水

おくられつおくりつはては木曾の秋   芭 蕉 (嚝野)

 

 

一 葉 捨女(たまも集)

 

来る秋のきりぎは見する一葉哉

ほれしより気づくしや露の玉かづら

粟の穏の實は數ならぬ女郎花

月や空にゐよげに見ゆる簾越

衣明には露まで月のわかれ哉

 

 【註】捨女 田野氏、丹波柏原の人、妙齢にして夫に死別し、剃髪して播州網干に隠栖し、

貞閉尼と称した。元禄十一年八月十日歿。年六十五。 井

 

父は花  西鶴

  笙ふく人留主とはかほる蓬かな

  父・は花酒の母なり今日の月

  里人は臼つきかやす花野かな      (蓮 實)

【註】井原西鶴は戯作者として名高くなり、其俳名に覆はれてしまった。

元禄六年八月十日歿、年五十二

 

八月十一日

訪等裁   芭 蕉

福井は三里計(ばかり)なれば夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たど/\し。

爰に等裁と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。逞か十とせ餘り也、

いかに老さらぼひて有にや、将(はた)死けるにやと人に尊侍れば、

いまだ存命してそこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入て、

あやしの小家に夕顔、へちまのはえかゝりて、鶏頭、はゝき木に戸ぼそをかくす。

さては此うちにこそと門を敲(たゝけ)ば、佗しげたる女の出て、

いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや、あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ、

もし用あらば涼給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。

むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひてその家に二夜泊りて、

名月は敦賀のみなとにとたび立。

等裁も共に逞らんと裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。(奥の細道)

 

【註】この文は永平寺の條に続くので、三里ばかりとは永平寺よりである。

   等裁は連歌師であって、洞哉とも書いてゐる。

「桐をかしうからげて」ともある通りひょうきんな人であったらしく、几右日記に、

「蓮の實の共に飛入る庵かな」とあるのでも其風采が出てゐる。

 

 

蕎麦の花    卓 池

   

山畑や雲かかるまで蕎麦の花

   初雁を見おくる柴の煙かな

   名月をはれに山家の祭かな

   柿の木に梯子かけたり三日の月       (発句題叢)

 

 

八月十二日

 

木曾路 芭 蕉

 

さらしなの里おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。

木曾路は山深く道さかしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。

をの/\心ざし盡すといへども、驛旅の事心得ぬさまにて、共にむぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中/\におかしき事のみ多し。

何ゝといふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもあらず、

ただむつ/\したるが腰たはむまで物おひ、息はせはしく足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、をの/\肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて、馬に付て我をその上にのす。

高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のむもひをなし、尺地もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず、只あやうき煩のみやむ時なし。桟はし、寝覚など過て、猿がばゞ、たち峠などは四十八曲りとかや、九折重りて雲路にたどる心地せらる。歩行より行ものさへ眼くるめき、たましゐしほみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるをあとより見あげて、あやうき事かぎりなし。佛の御心に衆生のうき世を見給ふも、かゝる事にやと無常迅速のいそがしさも、我身にかへり見られてあはの鳴戸は波風もなかりけり。(更科紀行)

 

【註】八月十二日

    此更科行には文にある如く、越人が同行し、荷兮の小僕が伴をした。

桟、寝覚は副島の近くにあり、猿が馬場、たち峠というのは木曾路を出て、姥捨に近い

所にある。修辞の上から一緒にして書いてあるが、地理的には大分違う。

「たましゐしぼみて足定らざりけるに」などいうのは桟あたりの險道であらう。

 

「阿波の鳴門」とは「世の中を思ひくらべて見る時は阿波の鳴門は波風もなし」此途中

の吟として、此紀行の後に載せてある句は、

「桟道や命をからむ蔦かつら」「枝道や先づ思ひ出つ駒迎ヘ」

越人の句は、「霧晴れて桟道は目もふさがれず」

 

栗  小林一茶

 

 立寄らば大木の下とて、大家には貧しき者の腰をかゞめて、おはむき云ふもことはりになん。こゝの諏訪の宮に大きさ牛を隠す栗の古木ありて、うち見たる所は葉一つもあらざりけるに、其の下をゆきゝする人、日々採り得ざるはなかりけり。(おらが春)

 

木曾の宿  芭 蕉

 

夜は草の枕を求て、昼のうち思ひまうけたる景色、むすび捨たる発句など矢立取出て灯の下に目をとぢ、頭かてきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物おもひするにやと推量(おしはかり)し、我を慰めんとす。わかき時拝み巡りたる地、阿弥陀の尊きたふとき數をつくし、をのがあやしとおもひし事共はなしつゞくるぞ風情のさはりとなりて、何を云出る事もせす。とてもまぎれたる月影の壁の破れより木の間隠れにさし入りて、引板(ひだ)の音、鹿追う聲所々に聞えける。まことにかなしき秋の心、爰に盡せり。

 いでや月のあるじに酒振まはんといへば、さかづき持出たり。世のつねに一めぐりもおほきに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人はかゝるものは風情なしとて手にも触れざりけるに、おもひもかけぬ興に入りて、靕碗(せいわん)、玉巵(ぎょくし)の心ちせらるゝも所がらなり。

   あの中に蒔繪書たし宿の月  (更級紀行)

 

八月十四日

 

秋の句合 蕪村

 

蕎麦花  畑ぬしの名をなつかしみ蕎麦の花  菫

野 菊  折とれは莖三寸の野きくかな    居

 

 野を懐かしみ一夜寝るにけりといへる詞をとりて、畑主が名のゆかしさ好みて作れるならんや、きかまほしく思ふも、白妙に咲きみだれたる中に、赤き莖の色たちたる、香気さへ郁々として、花で持て成すと祖翁の見とがめ給ふも、げに此物に癖する人の多き故ならんかし。

野草のながき根さし、芋小篠につれて、ひよろ/\と伸び過たる、莖も折とれば僅かにみつがひとつを得たり。然るを莖三寸と決定したる、俳諧の神卒といふべし。よって至つて好めるそばなれど、野菊をもて勝れりとす。

       ○

落鰷(はや)うらさびて鮎の脊みゆる川瀬哉   董

鹿啼や宵月落る山低し             居

 

 鬼實が句に、「夕ぐれは鮎の腹見る川瀬哉」、此句、鬼を兄とし、腹を脊にかへて弟たり。

俗諺にいふ脊に腹の反斡轉なるべし。

 紀貫之が「夕月夜おくらの山になく鹿の」といへる、五七五につゝめて、宵月の朦朧(もうろう)たるに嵯峨たる山も低しとはいひおゝせたり。しかれども陳腐の譏(そしり)免れがたし。さはいへ實情たるをもて勝とや申べき。 (反古瓢)

     

気比宮夜參   芭 蕉

 

 十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに洒すゝめられて、氣比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥淳をかはかせて、参詣往来の煩なし、古例今にたえず、紳前に餌砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持(すなもち)と申侍ると、亭主のかたりける。

月清し遊行のもてる砂の上