武江年表 寛政~文化年代
寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)
〇正月二十一日、本所松代町より出火、砂村百姓屋迄焼くる。
○三月九日、画人劉安生卒す(号寿山、麻布曹渓寺に葬す)。
○三月十一日、下谷稲荷社祭礼、産子(うぶこ)町々より出し練物出る
(本祭の時は産子の諸侯より長柄鎗の警囚を出さるゝ事旧例也。其の後中絶せり)。
○永代寺にて京都大仏の内弁才天開帳、この問境内見せ物に壬生(みぶ)狂言を出す。
世に行はれて両国に於いても見せ物とし、幇間(ほうかん)の輩も酒宴の興にこれか学ぶ
(箱庭云ふ、此の時壬生狂言は大いに流行り、両国の見世物にも真似て是もはやりしが、
弁天の開帳は流行らず)。
○神奈川浦島寺観世音、江戸にて開帳(其の場所不詳、霊宝に玉手箱を見せたり)。
○八月十四日、狩野栄川院典信歿。(六十一歳)。
○〔筠補〕一八月二十日、大風雨、深川出水、所々家を吹流す。
○八月二十三日、前句付点者川柳歿。
(浅草新堀龍宝寺に葬す。川柳は同寺門前の坊正にして柄井(からい)八右衛門といふ。
俳諧の一体に俗談を旨として狂句を作る。其の集を「柳樽」と号し、数篇を撰ぶ。
今に其の流たえず、今の緑亭川柳五世に及び、「柳樽」の後輯年々に梓行せり。
按ずるに、宝暦の頃「武玉川」といへる俳諧の句集あり、専ら俗情を述ぶる。
川柳もこれより一変せしものとなん)。
○九月六日、儒師山中天水歿。(三十二歳、名恕之、称猶平、浅草行安寺に葬す)。
○十一月二十七日、夜大地震。
○十一月、琉球入来聘、正便宜湾王子、
蒲原の間にて富士を見て詠める、 宜湾王子
かぎりなき山を幾重かながめきてそれぞとしろき雪の富士の根
箱筠云う、琉球人江戸着の日見物多く怪我人あり。
○十二月二日、三日夜、甘露降る。
〇「瀬田問答」或る(天明よりこのかた、瀬名貞雄、太旧蜀漸山、武江の雑事問答の書なり)。
〇「琉球談」刊行(森島中良著、又「朝鮮談」も刊行せり)。
○磁器焼紺屋始まる。