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芭蕉雑談智識字行  正岡子規   引用資料『甲府だより』   伊藤良氏著

2024年08月07日 18時19分49秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉雑談智識字行  正岡子規

                           

引用資料『甲府だより』   伊藤良氏著

 

平民的の事業必ずしも貴重ならず、多数の信仰必ずしも眞成の価値を表する者に非ずと錐も、いやしくも万人の崇拝を受け百歳の名誉を残す所以の者を尋ぬれば、凡俗に異なり尋常に超ゆるの技能無くんばあらざるなり。況んや多数の信仰はあながちに匹夫匹婦愚痴蒙昧の群衆に非ずして其の間幾何(イクバク)の大人君子を包含するをや。顔子の徳、子貢の智、子路の男、皆他人の企てに及ばざる所なり

。然れども三人を一門下に集めて能く之を薫陶し之を啓発し之を叱宅し緯々(シャクシャク ゆるやか)として余裕ある者は孔仲尼其の人ならずや。

蕉門に英俊の弟子多きも一○哲、七二子の孔門に於けるが如し。其角、嵐雪の豪放、杉風、去来の老樸、許六、支考の剛愎、野坡、丈草の敏才、能く此等の異臭味を包含して元禄俳諧の牛耳を執りたる者は、芭蕉が智徳兼備の一大偉人たるを證するに余りあり。

此の人々もとより無学無識の凡俗にあらねは、芭蕉の簀(サク)を易うると同時に各々旗幟を樹て門戸を張って互に合下らざるの勢を成せり。

其角は江戸座を創め、嵐雪は雪中庵を起こし、支考は美濃派を開き、各々之に応じて起こる者亦少からず。その他門流多からずと雖も、暗に一地方に俳権を握る者江戸に杉風、桃隣あり、伊勢に涼菟、乙由あり、上国に去来、丈草ありて相頡せり。後世に及びては門派の軋櫟愈々甚だしく、甲派は乙派を罵り丙流は丁流を排し、各白家の改組を称揚し他家の開祀を擠し、以て白ら高うせんとのみ勉めたり。

然れどもその芭蕉を推して唯一の本尊と為すに至りては衆口一聲に出づるが如く、浄上と法華と互に仇敵視するに拘わらず、猶本尊釈迦牟尼佛の神聖は少しも毫之を汚損せざるに異ならず。是れその徳の博きこと天日の無偏無私なるが如く、その量の大なること大海の能容能函なるが如きによらずんばあらざるなり。 

許六の剛腹不遜なる、同門の弟子を見ること猶三尺の児童の如し。然れども蕉風の神髄は我之を得たりと誇言して猶芭蕉に尊敬を表したり。文考の巧才衡智なる、書を著わし、説を述べ以て能く堅白同異の辯を為し以て能く博覧強記の能を示すに足る。然れども共の説く所一言一句と雖も、之を芭蕉の遺教に帰せざるはなし。甚だしきは芭蕉の教えなりと称して幾多の文章を偽作し、譏(そし)りを後世に取る事甚だ謭陋の所為たるを免れずと雖も、翻って其の裏面を見れば盡く是れ芭蕉の学才と性行とに対する名誉の表彰ならずんばあらず。

 

悪 句

 

芭蕉の一大偉人なることは右に述べたるが如き事実より推し測りても推し測り得べきものなれども、それは俳諸宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉に非ず。文学者としての芭蕉を知らんと欲せば、その著作せる俳諧を取って之を吟味せざるべからず。然るに俳諧宗の信者は句々神聖にして妄りに思議すべからずとなすを以て、終始一言一句の悪口非難を発したる者あらざるなり。寺を建て廟を興し石碑を樹て宴会一を催し連俳を一廻らし連座を興行すること、古より信者としてはその宋旨に対して盡すべき相当の義務なるべし。されど文学者としての義務は毫も之を盡さざるなり。余輩固より芭蕉宗の信者にあらねば其の二○○年忌に逢うたりとて嬉しくもあらず、悲しくもあらず、頭を痛ましむる事も無き代りには懐を煖(あたた)める手段もつかず。只々為す事もなく机に向かい楽書などしいる徒然のいたずらについ思いつきたる芭蕉の評論知る人ぞ知らん、怒る人は怒るべし。

余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗りと称すべき者は共何十分の一たる少数に過きず。否、僅かに可なる者を求むるも寥々晨星の如しと。

芭蕉作る所の俳句一、○○○余首にして僅かに可なるものは一○○余首に過ぎずとせば、比例率は僅かに五分の一に当たれり。度々晨星の如しという亦宜ならずや。然れども単にその句の数のみ検すれば、一人にして二○○の多きに及ぶ者古来稀なる所にして、芭蕉亦一大文学者たるを失わず。その比例率の殊に少なき所以の者は他に原因の在って存するなり。

 

芭蕉の文学は古えを模倣せしにあらずして自ら発明せしなり。貞門、檀休の俳誌を改良せりと謂わんよりは寧ろ蕉風の俳諧を創開せりと謂うの妥当なるを覚ゆるなり。而してその自流を開きたるはわずかに歿時を去る一○午の前にして、詩想愈々神に入りたる者は三、四年の前なるべし。此の創業の人に向かって僅々一○年間に二○○以上の好句を作出せよと望む。亦無理ならずや。

普通の文学者の著作が後世に伝わる者はその著作の霊妙活動せる所あればなるべし。然るに芭魚はその著作を信ぜらるるよりは、寧ろ共の性行を欣慕せられしを以て、その著作といえば悪句駄句の差別なく尽く収拾して句集の紙数を増加する事となれり。基だしきはあらぬ者迄芭蕉の作として諸種の家集に採録したる者多し。此の瓦石混滑の集中より選びし好句の数五分の一に過ぎざるも亦無理ならぬ訳なり。

 

芭蕉の俳句蓋く金科玉條なりと目せらるる中にも一際秀でたるが如く世に暗称せらるものは大略左の如し。

 

古池や蛙とび込む水の古

道のべの木樽は馬にくわれけり

物いえば唇寒し秋の風

あかあかと口はつれなくも秋の風

辛崎の松は花よりおぼろにて

春もややけしきととのう月と梅

年々や猿に着せたる猿の面  

風流のはジめや奥の田植歌

白菊の目に立てて見る塵もなし

枯枝に烏のとまりけり秋のくれ

梅の木に猶やどり木や梅の花

 

此の外にも多少人に称せられたる者なきにあらねど、俗受けする句のみを挙げたるなり。以上の句は其の句の巧妙なるが為に世に知られたるよりは多く『曰く付き』なるを以て人口に膾炙せられたるなりとおぼし。彼れ白ら見識も無き批評眼も無き俗宗匠輩は自己の標準なきを以て単に古人の所説にすがり、彼の句は芭翁白ら誉めたる句なり。此の句は門弟某、宗匠某の推奨したる所なりといえば只々その句が自ら有難味を生じ来る者にて、扨こそ『曰く付き』の曰くとは即ち

古池の句、はいうまでもなく蕉風の本尊とあがめられたるものにして、芭蕉の悟入の句とも称せられたり。後世にかくいうのみらず、芭蕉白ら己に明言せるなり。

 

木樺の句も稍々古池同様に並び称せられ烏の両翼、車の両輪に象れり。

 

唇寒しの句は座右の銘と題して端書に『人の短をいう事なかれ、己が長を説く事なかれ』と記せり。世の諷誨に関するを以て名古同し。

 

あかあかの句は芭蕉北国にての吟なり。始め結句を『秋の山』として北枝に談ぜしに北枚『秋の風』と改めたきよしいえり。而して恰も芭蕉の意にかなえるなりと。此の『曰く』最も力あり。

 

辛崎の句は『にて留り』に就きて諸門弟の議論ありしが為なり。

 

春もややの句は別段曰く無きか。

 

年々やの句 芭蕉魚自ら仕そこなえりという。却ってそれが為に名高くなりしか。

 

風流の句は奥州行脚の時白河関にて詠ぜし者なり。風流行脚の序開きの句なれば人に知られしならん。

 

白菊の句は死去少し前に園女亨にて園女を賞めたる句にして

大井川浪に塵なし夏の月

といえる旧作と相侵す恐れあれば大井川の句をや取り消さんかと自ら言いし事あり。

 

枯れ枝の句は古池、木樺などと共にもてはやされて蕉風の神髄、幽玄の極と称せられたり。はじめは、

枯枝に烏のとまりたりけり秋のくれ

とせしを後に改めしとかや。

 

梅の木の句は人の子息に逢いてそをほめたるなり。

以上『曰く付き』の句は『曰く』こそあれ余の意見は以上の人と甚だ異なれり。次に之を説かん。

 

各句批評

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

此の句は芭蕉深川の草庵に任みし時の吟なりとかや、

蛙合(カワズアワセ)の巻首に出で春の日集中にも載せられたり。天下の人毫も俳論の何たるを知らざる者さえ猶、古池の一句を誦せぬはなく、発句といえば立ちどころに古池を想い起こすが如き、夷に此の一句程最も広く知られたる詩歌は他にあらざるべし。

而してその句の意義を問えば俳人則ち曰く、神秘あり、口に言い難しと。俗人は則ち曰く、到頭解すべからずと。而して近時西洋流の学者は則ち曰く、古池波平らかに一蛙踊って水に入るの音を聞く、句面一閑静の字を著けずして閑静の意言外に溢る、四隣闃寂として車馬の紛擾、人後屐聲の喧囂に遠きを知るべし、是れ美辞学に所謂筆を省きて感情を強くするの法に叶えりと。果たして神秘あるか、我之を知らず。果たして解くべからざるか、我可否に関せず巧拙を顧りみず、心を虚にし懐(オモイ)を平らかにし、佳句を得んと執着すること皿{くして姶め

て仕句を得ベし。古池の一句は此の如くして得たる第一句にして、恰始めて佳句を得べし。

古池の一句はこの如くして得たる第一句にして、恰も参禅日あり一朝頓悟せし古と共の間髪を容れざるなり。而して彼の雀はちゅうちゅう、鴉はかあかあ、柳は緑化は紅というもの禅家の真理にして却って蕉風の骨髄なり。古池の句は夫にそのありの儘を詠ぜり。否ありのままが句となりたるならん。眼に由りて観来たる者は常に複雑に、耳に由りて聞き得る者は多く簡単なり。

古池の句は単に聴官より感じ来れる知覚神経の報告に過ぎずして、其の間享もn家の主観的思想、形態的通動を雑(マジ)えざるのみならず、而も此の知覚の作用は一瞬時一刹那に止どまりしを以て、此の句は殆ど空間の延長をも時間の継続をも有せざるなり。是れ此の句の最も簡単なる所以にして却って模倣し難き所以なり。

或は云う、芭蕉巳に『蛙飛び込む水の音』の句を得て初五文字を得ず、之を其角に謀る。其角『山吹や』と置くべしという。芭蕉は従わず、終に『古池や』と冠せりと。何ぞや。芭蕉の意は、下二句にて巳に盡せり、而して更に山吹を以て之に加うるは、巧を求め実を曲げ蛇足を画き鳬脚(フキャク)を長くすると一般、終に自然に非ず。その『古池や』といえる者は特に下二句の為に場所を指定せる者のみ。

 

此の句の来歴は兎も角も此の句の価値に就きては世人の常に明言を難(カタ)んずる所なり。俳論宗の信者は一般に神聖なりとし、其の他は解すべからずとするを以て其の価値に及ぶ者なし。余は断じて曰く、此の句善悪の外に独立し是非の間を離れたるを以て善悪の標準にあてはめ難き者なり。故に此の句を以て無類最上の

句となす人あるも、余聞(モト)より之を咎めず。はた此の句を以て平々淡々香りも無き臭も無き尋常の一句となす人あるも亦之を怪まざるなり。此の両説反対せるが如くにしてその実反対せるに非ず、善にも非ず、悪にも非ざる者は則ち此の一説の外に出でざるなり。要するに此の句は俳諧の歴史上最も必要なる者に相違なけれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるなり。見よ、芭蕉集中此の如く善恐巧拙を離れたる句他にこれありや。余は一句もこれ無きを信ずるなり。蓋し芭蕉の蕉風に悟入したるは此の句なれども、文学なる者は常に此の如き平淡なる者のみを許さずして多少の工夫と施彩とを要するなり。されば後年虚々実々の説起りたるも亦故なきに非ず。

補 古池ノ句ニ春季ノ感情ナシ(自註)


芭蕉雑談  正岡子規 『甲府だより』   伊藤良氏著

2024年08月07日 08時08分01秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉雑談  正岡子規

                                              

引用資料『甲府だより』   伊藤良氏著

 

 《筆註》

 伊藤先生のことについては何の知識もないので、『甲府だより』の序文を引用させていただくことにする。

 新宿駅西口のデパ-トの古書市で見つけて手に入れた。山本周五郎の刊行本が一冊500円で並んでいた横に並んでいた。「高い」でも「欲しい」、財布の金も少なく、心配だったが思い切って手に入れた。大変だったのはその後である。電車に乗る金額が足りない。あわてて高速バスに飛び乗って帰ってきた。でも帰りのバスの中で今回紹介する、正岡子規の「芭蕉雑談」を読んでいるうちに、英断(?)を下した自分を褒めたくなる内容であった。

驚いたことがもう一つ、本の表装が高野山成慶院の重文で真贋を廻って論争を醸し出した「信玄像」であったことでした。(別項あり)

 

  序文

 

 敬愛する伊藤良博上は、昭和五九年以来、『能登だより』、『敦賀だより』、『上州だより』、および『琵琶湖だより』と相次いで四冊の本を出版されてきたが、この度『甲府だより』を上梓されることになった。年一冊の割合で刊行されておられ、しかもそれらがかなりの大部であり、多忙な診療の合間での執筆活動であることから、驚異の目を見張らざるを得ない。

 今回の『甲府だより』は、著者が現在の山梨大学教育学部附属小学校に入学し、折にふれ武田神社に通った思い出の地、甲府に関する記述から始まる。巻頭の武田流軍学のバイプル『甲陽軍鑑』からの抜粋は、現在にそのまま通じる処世訓が選ばれている。統いて、甲州、信濃、北越、佐渡の紀行文と詩歌集、それらの地に関係した文云作品と著者の評価などがある。紀行文はその上地と関連のある古典の集約で、歴史物は読むだけでその風景が眼前に浮かび、読者を遠い育に引き一反すような華麗な筆致で綴られている。

 

これらの著書の基には、膨大な資料が必要であろうし、それらをまとめて名文を著すことは、努力と才能の然らしめるところであろう。

 自分の専門分野についてならとにかく、専門外の分野について本を著すのは容易なごとではない。著者はご尊父の仕事の関係からか、学校をいろいろな上地で過こされ、大学卒業後も基礎医学から臨床医学へ、大学の研究者から病院勤務医、閉業医と豊かな人生経験を持たれ、それがこういった幅広い執筆活動に結びついているに連いない。

 著者が甲府から千葉を経て東京に来られ、本郷の誠之小字校で、今は亡き畏友小林守博士と同級であられたようで、その関係でお近付きになり、また弱視斜学会を通じてのご縁で、今回序文を書かせて頂く光栄に浴した。

 伊藤良博上のますまのご発展をお祈り中し上げたい。

   昭和六二年五月二九日

                                                            丸尾敏夫(帝京大学教授)

 

  目次

 

甲府だより 甲州紀行文持歌集 山部赤入者 将門記 水瀞伝と八大伝 芭蕉雑談

信濃紀行文・ 詩歌集 菩光寺縁起      苅菅道心行状記

北越紀行文・ 詩歌集 北越中自譜      良寛持歌集 

佐渡紀行文・持歌集   承久の乱考   大平記阿新殿 

世阿弥考考 佐渡日記 島根のすさみ

 

芭蕉雑談 本文 年齢

 

古今の歴史を視(ミ)、世間の実際を察するに人の名誉は多く共の年齢に比例せるがごとし。

蓋し文学者、技術家に在りて殊に熟練を要する者なれば、黄口の少年、青面の書生には成し難き筋もあるべく、或は長寿の間には多数の結果(詩文または美術品)を生じ得るが為に漸次に世の称賛を受くる事も多きことわりなるばく、はた年若き者は一般に世の軽蔑と嫉妬とによりて其の生前には到底名を成し難き所あるならんとぞ思わる。

 我が邦古米の文学者美術家を見るに、名を一世に揚げ誉れを万載に垂るる者、多くは長寿の人なりけり。歌聖と称せられたる柿本人麿の如き其の年齢を詳かにせずと難も、数朝に歴仕せりといえば長々を保ちたる疑いなし。

その外年齢の詳かなる者に就いて見れば、

 

九○歳以上  

土佐光信 俊成 北斉

八○歳以上  

信実 鳥羽僧正 季吟 雪舟 肖栢 宗長 宗鑑 元信 梅宝 貞徳 宗祇 也有 蒼虬 馬琴 定家 兼良 蓼太 兆殿司

七○歳以上

紹巴 蘆庵 杏坪 宗因 野坡 雅望 秋成 常信 文晁 守武 南海 光起 千代 京樹 一蝶 真淵 鵬齎 探幽 巣林 宜良 千蔭 心敬 基債

六○歳以上

一九 抱一 通村 支考 蕪村 美成 出雲 春海 一茶 貞室 貫之 契沖 笛浦 許六 種彦

五○歳以上

半二 竹田 お通 昭乗 其角 凌岱 京伝 光則 光琳 嵐雪 大雅 白雄 山陽 西鶴 芭蕉

四○歳以上

浜臣 崋山 三馬 李由 蘆雪 丈艸 甚五郎

三○歳以上

波化 重恭

二○歳以上

実朝 保吉

 

最も有名なるのみにて此(カク)の如し。外邦にても格別の差異あるまじ。

華山の如き三馬の如き丈岬の如きは世甚だ稀なり。

バーンズの如きバイロンの如き実朝の如きは史に稀なりと謂うべし。

是に由って之を一観れば人生五○を超えずんば名を成す事難く、而して六○、七○に至れば名を成す事甚だ易きを知る。然れども千古の大名を成す者を見るに、常に後世に在らずして上世にあり。蓋し人文未開の世に在って特に一頭地を出だす者は衆人の尊敬を受け易く、又千歳の古人は時代という要素を得て嫉妬を受くる事少なきなめり。獨り,彼の松尾芭蕉に至りては今より僅々二百余牛以前に生まれて其の一門は六○余州に広まり、弟子数百人の多きに及べり。而して其の齢を問えば即ち五○有一のみ。

 

古来多数の茶托者を得たる者は宗教の開祖に如くはなし。釈迦、耶蘇、マホメットは言うを須(モチ)いず、達磨の如き弘法の如き、日蓮の如き、共の威霊の灼々たる実に驚くベきものあり。

老子、孔子の所説は宗教に遠しと雌も、一たび死後の信仰を得て後は宗教と同じ愛情を惹起せるを見る。

然れども是皆上世に起りたる者なり。日蓮の如き紀元後二、○○○年に生まれて一宗を開く、その困難察すべし。況んや其の後三○○年を経て宋教以外の一閑地に立ち、以て多数の崇拝者を得たる芭蕉に於ておや。人皆芭蕉を呼んで翁(オキナ)となし芭蕉を書くに白髪白鬚六、七○の相貌を以てして毫(すこし)も怪しまず。而して共の年齢を問えば即ち五○有一のみ。

 

平民的文学

 

多数の信仰を得る者は必ず平民的のものならざるべからず。

宗教は多く平民的の者にして、僧侶が布教するも、説教するも、常に其の目的を下等社会に置きたるを以て、仏教の如きは特に方便品さえ設け共の隆盛を極めたるなり。

 

芭蕉の俳諧に於ける勢力を見るに、宛然宗教家の宗教に於ける勢力と其の趣きを同じうせり。

その多数の信仰者はあながちに芭蕉の性行を知りてそを慕うというにあらず、

芭蕉の俳句を誦してそを感ずというにもあらず、

唯々芭蕉という名の自ら尊くもなつかしくも思われて、

かりそめの談話にも芭蕉と呼びすつる者はこれ無く、

或は翁と呼び或は芭蕉翁と呼び或は芭蕉様と呼ぶこと、

恰も宗教信者の大師様、お祖師様などと称えうるに異ならず。

甚しきは神とあがめて廟を建て本尊と称して堂を立つること、

是れ決して一文学者として芭蕉を観るに非ずして、一宗の開祖として芭蕉を敬う者なり。

和歌に於ける人丸を除きては外に例のなき事にて、

しかも堂宇の盛んなる、芭蕉塚の甚だしき夐(ハル)かに人丸の上に出でたり。

菅原の道真の天神として祭らるゝはその文学の力に非ずして、

主として其の人の位置と境遇とに出でたるものなれば、人丸、芭蕉と同例に論ずべからず。

 

されば芭蕉の大名を得たる所以の者は主として俳諸の著作共の物にあらずして俳諧の性質が平民的なるによれり。 

平民的とは

第一、俗語を嫌わざる事、

第二、句の短簡なる事をいうなり。

近時これに附するに平民文学の称を以てするもまた偶然にあらず。然れども元禄時代(芭蕉時代)の俳諧は決して天保以後の俳諧の如く平民ならざりしは、多少の俳書を繙きたる者の盡く承認する所なり。

元禄に於ける其角、嵐雪、去来等の俳句は或は古宇を引き成語を用い、或は文辞を碗曲ならしめ格調を古雅ならしむる杯(ナド)、普通の学者と難も解すべからざる所あり、況んや眼に一丁字なき俗人輩に於てをや。天保に於ける蒼虹、梅室、鳳朗に至りては一語の解せざる無く、一句の註釈を要する事なく、児童走卒と雛も好んで之を誦し、車夫馬丁と雌も争うて之を摸す。正に是れ俳諧が最も平民的に流れたるの時にして、即ち最も広く大下に行われたるの時なり。此の間に在って芭蕉はその威霊を失わざるのみならず、却って名誉の高きこと前代よりも一層二層と歩を進め来り、その作る所の俳論は完全無欠にして神聖犯すべからざる者となりしと同時に、芭蕉の俳諧は殆ど之を解する者なきに至れり。個々共の意義を解する者あるも之を批評する者は全くその跡を断ちたり。その様恰も宗教の信者が経文の意義を解せず、理不理を窮めず、単に有難し勿体なしと思えるが如し。


芭蕉はこうして亡くなった。芭蕉終焉記(3)花屋日記(芭蕉翁反故)

2024年08月07日 06時32分06秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉終焉記(3)花屋日記(芭蕉翁反故)

肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校

十月十一日 
朝又また時雨す。思いがけなく、東武の其角きたる。是は東武の誰彼同伴にて参客の序、和州・紀州壹打めぐり、泉州より浪華打入りしが、はからずも師の労りおはすと聞つけ、そこ此處とたづねまはり、漸にかけつけたり。
直に病床にまゐりて、皮骨連立し給ひたる體を見まゐらせて、且愁ひ且よろこぶ。師も見やりたまひたるまでにて、唯々泪ぐみたまふ。其角も言句なく、さしうつむきゐたりしを、丈草・去来・支考其外の衆、次の間に招き、御病性の始終を物がたる。
此夜、夜すがら伽して、おもひよりし事ども物がたり居たりしに、亥のときごろより、師、夢のさめたるごとぐ、粥を望みたまふ。人々嬉しさかぎりなく、次郎兵衛取計ひて、疾く焚あげてすゝめまゐらす。中かさ椀にて、快くめされけり。朔日より已来の変事なり。土鍋に残りたるを、去来椀にうつし入れておしいただき 

  病中のあまりすゝりて冬ごもり   去来

 去来日、趣向を他にもとめず、有あふことを口ずさみて、師を慰めまゐらせん。深く案じいら〔一字不明〕と頓に句作りたまへ。惟然 は前夜正秀と二人にて、一ツの蒲団をひつぱりて被りしに、かなたえひき、こなたえひきて、絡夜寝いらざりければ、はてはしらじらと夜明けるにぞ、その事を互に笑ひあひて
    
ひつぱりて蒲団に塞きわらひ哉   惟然
    おもひよる夜伽もしたし冬籠    正秀

 一座これをきゝて、いづれもどっと笑いければ、師(芭蕉)も笑いたまえり。
 人々嬉しさかぎりなく、十日已来の興にぞ有ける。初しぐれなりければ、空とく晴て日影さしいりたるに、蠅のおほく日南に群りいたるに、人々黐(もち)もて蠅をさし取に、上手下手あるを見給いて、暫く興にいりたまひけれど、大病中のことなれば忽縮たまい、直に寝所に入りたまう。
支考は、師の発句を滅後に一集せん心願あれど、
此ごろの病苦に苦しみたまうに、見あわせいたりしが、
今日機嫌よきに乗じて申出侍らんと、去来に申たりければ、
去来はかねて師の心中を知りたりし故大いに怒り、
小ざかしき事を申さるゝもの哉、
師は平生名聞らしきこと好み給わず。
今日暫らく快きを見請侍りて、諸人嬉しと思う中に、
御気に逆うこと聞せ申ては、御心を労しめ申す事、奇怪なり。
この後御病床近くにより給うな、早くその座を立ちたまえと、
聲あらゝかに次の間に追立けり。

支考もはからずもの言い出して、諸子の聞く前面目を失しないしが、行々惟然に打向かい、我に句あり、そこに書き給えと言いて
    
しかられて次の間に立つ寒さかな  支考

さすが支考なりければ、師も仄かに聞き給いて、可笑しがり給いけり。

国とりて菜飯-----------(不明)    木節
皆子なり-----------------(不明)    乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな   丈草
吹井より鶴をまねかむ初しぐれ    其角

 一々惟然吟聲しければ、
師、丈草が句を今一度とのぞみ給いて、丈草出かされたり。いつ聞いてもさびしをり調べたり。面白しくと、しわがれし聲をもって誉め給いにけり。
いつに変わりし機嫌の麗しきを喜びけるに、木節一人愁をいだける様に見えければ、其角その故を問う。木節云う、病に除中の證と言えるあり。大病中絶貪なるに俄に食のすゝむことあるは、悪症なり。死期遠きにあらずといえり。
さはしらず各々さざめき至るに、
夜半ごろよりまた寒熱往来ありて、夜目ごろより顔色土のごとく見え給い、
暫くは悶乱し人も見しりたまわざりしが、やゝありて又實性になり給い、
左右に舎羅・呑舟、後よりは次郎兵衛抱きまいらせて介抱し、程なく夜明ければ十二日なり。兼ては閉じ籠り給いしが、隔ての障子も襖もとり離させ、其角・去来・丈草を是えとて向に見給い、穢れを憚かれば咫尺したまうなと断わり、行水を頼み給う。木節頻りに制しけれど、しきりにのぞみ給う故、止むことを得ず、湯を引かせ参らせけり。座を静かに改め、木節が医術を盡されし事など都度つどに隠し給い、さて三人の衆を近くに召され、乙州・正秀を左右にし、支考・惟然に筆をとらせ、亡き後の事細々と遺言し給う。病苦すこしも見え給わず。人々奇異の思いをなしけり。

伊賀の遺書は手づから認め給い、外に京・江戸・美濃・尾張洩れざる様に遺言し終り給うに、始終は門人中にて筆記す。次第に聲細り、痰喘にて苦し給いければ、次郎兵衛素湯にて口を潤し参らせけり。

やゝ有って去来に向い給い、先頃、實永阿闍梨より路通が事を仰せ有。其後汝が丈草・乙州等に送りし消息、露霜とは聞捨てず。併少し意味憚ること有て、雲井の余所に話し侍りぬ。彼が数年の薪水の労、努々忘れおかず。
我なき跡には、およそに見捨て給まわず、風流交り給へ。此事たのみ置き侍る。諸國につたえ給われかしと、言終り給いて餘言なし。合掌ただしく、観音経聞こえて、微かに聞こえ、息の通いも遠くなり、申の刻過て、埋火の温まりの冷めるがごとく、次郎兵衛が拘き参らせたるに、よりかゝりて寝入り給いぬと思う程に、正念にして終り眠りにつき給いけり。

時に元禄七甲戊十月十二日申の中刻、御年五十一歳なり。
 
即刻不浄を清め、白木の長櫃に納まいらせ、其夜直に川舟にて伏見まで御供し奉る。其人々には、其角・去来・丈草・乙州・正秀・木節・惟然・支考・之道・呑舟・次郎兵衛・以上十一人。

花屋仁左衛門が京へ荷物を送る體にて、長櫃の前後左右をとりまき、念佛誦経思い想いに供養し奉る。
八幡を過るころ、夜もしらじらと明はなれけるに、僧李山の下り給える舟に行逢ければ、いざとて乗り移り、相ともに儚き物がたりして、程なく京橋につく。それより狼だに辺りにかゝり、急ぎに急ぎし程に、十三日巳の時過ぎには、大津の乙州が宅に入れ奉りけり。乙州は伏見より先立て急ぎて帰り、座敷を掃除し清め、沐浴(もくよく)の用意す。御沐浴は之道・呑舟・次郎兵衛也。
御髪の延びさせ給えば、月代には丈草法師参られけり。

御法衣・浄衣等は、智月と乙州の妻が縫奉る。浄衣、白衣にて召させ參らすべき筈なるを、翁はいかなる事にや、兼て茶色の衣装こそよけれと、すべて茶色を召れければ、智月尼の計らいとして、浄衣も茶色の服にこそせられける。
さて追葬は十四日と決まり、かれこれ日没になりにけり。
 
大坂花屋より支考・惟然が二日に仕出の状、羅漢寺の僧伊勢に急用有で參るよしを、花屋より知らせければ、是幸いと頼み遣わしるに、この僧奈良に著たる日より、痢疾にて歩行かなわず、やむことを得ず奈良に滞る。
それゆえ十一日朝、伊買上野に行人あるを聞つければ、右の状を仕出しけり。
この状、十二日の暮ごろに上野に届きけり。土芳・卓袋ひらき見るより大いに驚き、とる物もとりあへず松尾氏に參りたれば、これも同時に書状著せりと云。それより両人は、したためそこそこにして、子の刻過より、兼て案内しりたる近道にかゝり、大和の帯解までただいそぎに急ぎけれど、月入ての事なれば、暗さは暗し、小路の事ゆえ、提灯も消えぬれば、其夜の明がたに帯解に着く。相知れる方に暫らく休らいで、したゝめなどし、是よりくらがり峠を越れば、大坂までは八九里には渦ず。さらばとて、足にまかせてくらがり峠を越え、
俊徳海道をたゞ急にいそぎ、平野口より御城の南をかけぬけ、直に久太郎町花屋にかけつけたるは、十三日の暮れ頃なり。

何がなしに、翁の御病気いかにと問いければ、仁左衛門しかじかと答える。
両人ともに残念申すばかりなく、さらば葬送になりとも逢い奉らんとて、又引き返し、八軒屋にかけ行く。幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乗り、伏見京橋に着きしは夜明け也。直に飛下り狼谷にかゝり、義仲寺に着きしは、未だ入棺し給わざる前なりければ、諸子に断わりて、死顔のうるわしきを拝し参らせ、悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかき口説きけれど、まづ因縁の深きことを身にあまり有がたく、嬉しく焼香につらなりけり。
(土芳・卓袋物語)

 十二日暮

暮れに伏見を出舟したる臥高・昌房・探芝・牝玄・曲翠等は、その夜何處にて行違いたるやらん、夜明けて大仮に著く。直に花屋に馳せたるに、諸子御骸を守り奉りて、のぼり給いぬと聞より、
直にまた十三日の昼船に大坂より引かえし、その夜酉の刻に伏見に着く。夜半頃に大津に戻る。(昌房物語)
 
義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人参られ、読経念仏あり。御入棺はその夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入りても左右なし。去来・共角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。昼のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳に控えたる人凡そ三百人餘。知る知らぬ近郷より集る老若男女まで惜しみ悲しむ。時しも小春の半ばにて、しづかに天気晴れ渡り、月晴朗として湖水の面に輝き渡り、
名にし粟津のまつに吹起るに、無常の嵐かと思われて、月はおもしろきもの、露は哀なるものといえれど、折にふれては何かあ哀れ成ものならざらむ。
矢橋の漣の寄する響きも、愁人のためには胸にせまり泪を添う。(支考記)
 
  引導香語
雪月魂魄。風花精神。
等閑一句。驚動人天。
嗚呼。
奇哉芭蕉。妙哉芭蕉。
萬里白雲。一輪明月。
五十一年。一字不説。
 
   各捻香
 丈草 其角 去来 李由 曲翆 正秀
 木印 乙州 臥高 惟然 昌房 探芝
 泥足 之道 芝栢 牝玄 尚白 土芳
 卓袋 許六 丹野 風国 野堂 遊刀
野明 角上 胡故 蘇葉 霊椿 素顰
囘鳧 萬里 誐々 這萃 荒雀 楚江
 木枝 朴吹 魚光 支考 
諸国代替不記

 右の外近江国中は申に及ばず、京・大坂・美濃・尾張・伊勢 その外国々より京などに登り至る諸国の人々、三世値遇の縁をよろこび、我も我もと香を手向奉る。
その数何百人といふ数しれず。境内狭ければ、表より入りたる人は裏へぬけ出る様に設え置、田の刈跡に道をつけゝれば、焼香の人々は全て裏へ抜けるにぞ、さして騒がしき事もなく、葬埋終りけるは、子の時過になりにける。

翁かねて遺命の通り、木曾殿の右のかたに埋葬し奉りけり。
 
十月十五日 
去来・其角はじめ、膳所・大津の人々、朝とく詣でして、先ずとて土かきあげて卵塔をかたどり、幸い塚の後に、年ふりたる柳あるをそのまゝにし、御名の形見とて、枯々の芭蕉を一本、兼てこのみ給ひたる茶の木の、今を盛りなる花とともに移し植えて、竹もて坦結い廻し、香花を手向け奉りけり。
日のもと広しといへども、生前にその名豊芦原の浪に響き、其徳芙蓉の絶頂に奴ぶ。人丸・赤人の昔はいざしらず、末代の今にしては、實に我翁一人と言うべし。

  芭蕉書簡 松尾半左衛門宛

御先に立候段、疑念に可賛思召候。
如何様とも又右衛門便に被成御年被寄、
御心静に御臨終可被成候。至爰申上事無御座候。
市兵衛・治右衛門殿・意専老初、不残御心得奉頼候。
中にも十左衛門殿・半左殿、右之通に候。
はゞ様、およし、力落し可申候。以上
  十月十目                桃 青
                       〔花押〕
  松尾半左衛門様

芭蕉終焉記(4)花屋日記(芭蕉翁反故)

肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校

十月十六日

乙州亭に集合して、義仲寺の住持、其外僧徒に禮物、御遺物等の沙汰に及ぶ。

昨夜迄大に御苦労様成候。
さて今日は、先師御遺言之通、
御遺物夫々配分仕度、
其外寺納等之儀申談度、
且また伊賀より一向ニ返書も無之、
至而不審ニ有候、態と人差立申候ニ付、
拙夫一人之名目少し憚存じ候故、
御連名ニ加入申度。是等之儀、及御談合度、
又明後日一七日ニ候條、諸国連中退散無之中、
於御靈前、御追悼俳諧百韻興行仕度。
付而者御終焉之記一章、貴雅諸被成り候、
右條々可申談間、唯今より御出座可被下候。
萬端は面上申上候。以上。
   十月十六日        去 来
  其角英雅 

御書翰拝読。御広之御事でも添候。
此間之御辛労難盡筆頭。
扨とよ今日は、諸君御集会、
先師御遺言之御遺物配分、
且寺納其外之勘定可視成旨、
又伊賀への御文通ニ付、
拙者立合申し候様被仰聞候趣、畏候。
早速馳參可申候得共、
今日は、宿主曲翆子始、臥高、正秀、泥足、同心等。
先師御舊跡の幻桂庵ニ罷越、椎の冬木も見、
御筆蹟之一字一石塔も拝申度、前諾仕置、
則唯今出立仕にて候。乍御不■御宥免可被下候。
御遺物其外寺納等の事は、
乙主人、清風子ニ御談可被成り候。
伊賀への御紙面、拙者御連名可被成旨、
随分御同意仕候。
 

御終焉記之儀被仰聞いかゞ可仕候。
併貴命之事に候故、取懸り見可申候。
御病気最初よりの御様體、貴兄始め、
惟然、支考が覚書、勿論御夜伽の発句等、
御書附御見せ可被成候。
且次郎兵衛日記、共に御見せ可被成り候。
出立早々。以上。
   十月十六日        其角
  去来英雅

十月十七日
乙州亭。
一 眞愚上人        金一両
一 御斎米料        金一両
一 面供養料        金一両
一 御茶湯料        同百匹
一 御弟子親明子      同百匹
一 三井寺常住院御弟子二人 同二百匹
      家来衆三人     銀三両

 御遺物
 一 出山佛一体  御長一寸一分
一 鉄 如意棒一本
  (佛頂和尚より付与 木曾寺に有り、丈草に付与)
一 観音経   小木一部
一 紙縷袈裟  佛頂和尚より付与
一 被風
一 銅鉢    ひと口
一 木硯    堅木にて旅硯也
一 古今集序註 一部
一 百人一首  一部
一 新式    一部
一 奥之細道  一部
一 御笠    一部
一 菅蓑    一被
一 御杖    一本
右紙袈裟ヨリ以下七品は、
兼て惟然に御附與之御約諾の由に候故、
直ニ惟然ニ附與。
一 御頭陀   一
 
 中に、
杜子美詩集、山家集、外ニ後猿蓑卜題アリテ、歌仙三巻、発句四五十吟程、
外は御書捨てノ反古等入。別ニ紙ニ包タル布破レ、五寸ニ六寸計、上包に狭ノ細布ト有、進上清風ト、又外ニ和歌ノ古短尺二枚、又松島象潟ノ畫二枚。

右之中、紙ニ包タル、五寸二六寸ノ布切、並松島象潟之畫、若御支無御座候ハバ、御形見ニ下拙ニ被仰付可被下候様奉希候、生涯寶物ニ仕度候。
  去来

十月十八日

元禄七年十月十八日於義仲寺。
    
追善之俳諧
   なきからを笠に隠すや枯尾花  其角
    温石さめて皆氷るこゑ     支考
行灯の外よりしらむ海山に    丈草
    やとはぬ馬士の掾に来てゐる  惟然
つみ捨し市の古木の長みしか   木節
    洗ふたやうな夕立の顔     李由
森の名をほのめかしたる月の影  之道
    野かけの荼の湯鶉待なり    去来
(末略)

態々一人差立候。
盆御平安可被成御座奉恭賀候。皆共無異羅在候、御安意可被下候。然者、尊師於大阪御大病之處、支考、惟然より両度申候得共、御返書無御座。遠路故紙面遅着と察候。兎角仕候中、拙者共も羅下り、加御保養候得共。御養生不被為相叶、去十二日終ニ御遷化被游候。旅中之儀ニ御座候故、其夜早々近江木曾寺ニ御遺骸を奉遷、十四目迄奉待御報候へ共、御返書不承候間、請国門人中、一等評議ニ面、則十四日之夜、於木曾寺埋葬仕候。委曲者追々土芳・卓袋帰国之上ニ而、御承知可被申候。

一 
別封之一書者師翁御遷化之日、御認被游候御遺書ニ而御座候、上書迄ニ而、御封緘候は、其の時より無之候條、左様被思召御落手可被下候。

 一
御遺物之品々者、諸國連衆於義仲寺の集会之上、書記之通無相違候條、
今度御来臨も御座候はゞ御見届之上、任御取計申筈ニ候共、御左右無御座候故、不得止取計置、目録入御覧申候。御親類方ニも乍憚此旨被仰達可被下候。
土芳・卓袋帰国口述之上、御返事成可被下候。一七日御追善供養相仕舞申候故、諸子一等引取申候筈ニ候條、願者御返書承り申度候。書餘両雅子ニ御聞可被下候以上。
十月十九日     去来 其角

松尾半左衛門様

別啓。昨日之俳諧百韻入貴覧候。

 一
御遺物目録之外ニ、左之通相残居候品、御綿入一着御袷同前御肌付同前御帯二筋、右者花屋仁左衛門より、一昨日次郎兵衛方ニ贈参候。外ニ古御衣裳之類数多有之候故、大阪出立取急候故、不残花屋ニ預置申候。


御飛脚只今参者被到候。尊翰拝見仕候。
御返事仕候筈ニ候得共、諸用相認終り申候故貴答不仕候。


寿貞子次郎兵衛、御国出立之砌より御供仕居、御病中始終、御葬埋之節迄。抜群之骨折仕候。逐一両雅より口述ニ可及候。御病中間之始末、御病体、惟然、支考、次郎兵衛拙者迄、筆記入貴覧候。己上。

仔細之御書翰、悉拜語。
御揃盆御安泰被成御暮候由、奉遠賀候。然者今度芭蕉事、於大阪致遷化。
自病中木曽寺至葬埋に迄、不浅御苦労被成候結由、御文面と申、土芳・卓袋よりも微細ニ致承知候。惣御連中、別而両雅丈之御厚情之程、御禮難申儘候。
芭蕉事一所不住之境界ニ候條、可斯有とは、兼而思儲得共、今更残念御推察可被下候。併病中始終御介抱之事、只今親族之面々附添居候共、斯迄手は届不申、亡弟身ニ取面、他方之聞え、親旅中之美目、身ニ餘り悉く奉有候。


自大阪両度之御手簡之中、二日之御状のみ漸十二日暮方ニ届候。
外之御歌は未届不申候。芭蕉病気大切成義と為御知候故、早々使者差出候。
最早日限過候得共、未病気ニ而存候、使之者帰候者、十六日之朝罷帰間、其時、遷化之事も、遺骸を近江之様に送方ニ成候儀も致承知候。卓袋・土芳近江国之様被参観儀も、今度承り候故、追取返し一人差立候。今度ハ拙者馳参申筈ニ親得共、亡弟爰元発足之跡ニ而、拙者瘧疾労而も初瘧と申、老人之事ニ候故、
長々相痛、漸九月下旬到快気候。病後今服薬いたし出勤も不仕、気力も未得不申候間、不能其儀、清風子之御聞前、願人申事ニ候。


芭蕉遺状慥ニ致落手候。誠ニ一類中打寄、開封、何も一字一涙、愁傷御思察可被下候。

  一
亡者遺物之儀ニ付、被仰越候越。御入念之御事ニ候。
併亡弟入道以来は、俗縁の表向無之候。僧分之器財之事ニ候條、遺言之品は格別、其外者、不依何品、直にも義仲寺に納共ニ而可有之裁。それ邊猶父御連中任思召候間、御存寄次第宣御取計可被下候。


寿貞子次郎兵衛指事、
今度信切之骨折、終止事感入り候。存寄りも有之候。勿論譜代の者ニ候故、其元諸事相仕廻申候はゞ、一日成共早罷帰候様、乍慮外被下候。

 一
相残居候と有而。吉衣裳四品被下慥ニ致落手候。外ニ古衣裳之類、花屋ニ被預置候由右之品は必御貪着被下間敷、其儘ニ被召置可被下候。余情拝顔申残候。以上。
  
十月二十三日        松尾半左衛門 判
    晋 其角 様
    向井去来 様
    御連中  様                ’

追啓
朝飛脚道違ニて踏迷い申され、殊ニ痛所有之山ニ候間、中一日手前ニ留め申候。狐念申遺置候。以上。

別啓申進候
芭燕死去之事、拙者主公ニ、同役共を以申達候處、主公甚残念ニ被存趣。
それ夫付け辞世ハ無之哉之事、被尋候故、土芳・卓袋口述之通申述候得ば、貴丈方之紙面、直に可被致被見との事、任其旨申候處、重而尋ニ、命終迄ニ発句は無哉、若有之候はゞ、直書見度と申事ニ候。若貴丈方、外ニ御所持之方も候はゞ、暫く拝借申度候。此段お頼申候。

 一
自筆之山家集有之候はゞ、書入杯は無之哉。右條々宜詞御頼稿申候。
為其重而如是御座候 恐惶謹言。
  十月二十三日         松尾半左衛門
    其 角 様
    去 来 様

奥書之頭陀之内之品之中、五寸に六寸之切之事、並松島虹潟之檜之事、仰望之由、其外何品ニよらず、隨分御勝手次第ニ可被成候。少も不苦候以上。 

以使札得芳念候。向寒之節ニ候得共、盆御安泰。御寺務可被成、奉恭賀候。拙者無別條罷在候。然者芭蕉居士被致遷化候砌、葬式之節は、段々御苦労成下、為奉拝候。早速罷越、御禮詞等申述候筈ニ御座候得共。乍存疎略打過、背本意候。此段御宥恕被成可被下候。随而左之通御寺納仕候間、宜御廻向被成可彼下候。拙者も長々之病後、今以引入居申候故、出勤仕候得ば、早逍墓参可仕候。
其節拝顔之上萬々可申上候。先右之御禮詞迄如斯御座候以上。
  
十一月二日       松尾半左衛門
    義仲寺様
      
  覚え
一 御布施         金 二百疋
一 同御佛栄御斎栄料    金 二百疋
一 同御茶湯料       金 百疋
一 同 御布施       金 百疋 松尾氏一類中
  
  右 以飛札得御意申候。盆御清雅奉賀候。爰本無異ニ居申候。然者、師翁遷化之事承り、途方ニ暮候。いかに成行可申裁。只闇夜と相成、唯愁涙迄ニ候。
取あえず一句案候。靈前ニ御擎可被下候以上。
  十月二十三日       露沾
    去来雅丈     
             落柿舎
  此外、諸国之弔儀数百ケ所
     繁難故ニ除之。

告て来て死顔ゆかし冬の山  露沾
 十一月五日

頃日土芳卓袋帰郷之砌、申進候筈之處取紛失念仕候故、今日一人差立申候。
先以、長々之御所労、それ御快無御座候、乍憚随分御自愛専一ニ泰存候。
此間両雅丈より被成御聞候通亡師一七日、於御靈前御追善之百韻。首尾能興行ニ相成、何れも満足仕候。然ば其席ニ御伝来之鳥羽之文臺建申候。
右此文臺の事者、御聞及も御座候半、季吟老人より亡師に御譲の風雅伝来の雅物に御座候。
根元、玄旨法印より紹巴ニ御伝成、貞徳、貞室、季吟亡師と傳候。如斯之重器ニ候得者、亡師一代尋常之俳席ニ者御用も無御座。深川之重器ご承り候迄ニ候。然ルニ先年猿蓑集選成就仕。吟聲之砌、深川より御取寄せニ相成、其儘ニ義仲寺ニ被召置候。亡師も御門人之中ニ御傳可被成、御心ニも可有御座候得共、
亡師者も一體此俳諧之事ニ左様成事ニ、御貪着被成候御気象ニ而者無御座、
全體隠逸禅中風雲之行状ニ候得者、傳不傳之處ニ而者無御座候。併此の後はその場にては建不申、今度此儘ニ打捨置候得者、一道は建不申、永く芭蕉門埋レ候共存じ候。幸此節、其角参り居られ候故、於江戸、其角・嵐雪と申而者、
亡師左右之御手ご被思召、無二之御愛弟ニ而御座候。
それ故御靈前ニ而、右文豪譲之事、申向候得ば、其角頻りニ辞退ニ而、一昨日罷帰申候。 許六は病身、木節は老衰、美濃尾張は遠方ニ而手届不申、外ニは若輩之者斗、それ故一ト先ツ右文豪ヲ義仲寺眞愚上人ニ預ケ置、一二年も過候はば、若年之者共、追々出精之上、抜群之者も出来可申、上人ニ申向候得共、路傍の廃寺、風火災叉ハ賊難の恐れ、貧地独居故、不任心底と申而断ニて御座候。只今にては御預置所も無御座候。道心の御人體ニ候得者、兎角可申大筋も無之、此の上は、右の雅物ニ候條、少頃貴方ニ御預り置可被下候。来春ニも成候はゞ拙者以参。御熟談も可仕候。則右之品此者ニ持たせ進候。諸事御賢察可被下候。恐惶謹言。
十月二十七日      向井去来
  松尾半左衛門様.

 貴翰拝読。
先以、此間者前後之御取計ヒ。重労御労煩被成下、悉奉存候。然者、鳥羽之文豪の事被仰聞趣、逐一承知仕候。如貴命、右文豪の事は、日外亡き弟よりも承り、至て大切成雅器ニ御座候由、右之器物引譲之事、御心配之事、御尤千萬之事ニ御座候。
然ニ其角能時節ニ参り合居られ、辞退之儀、於手前も不承知ニ存候。芭蕉門人ニ其角・嵐雪申事者、日本ニ俳諧好候者、誰不存者は無之候。然ば門人中ニ何人か違背之御人も可有之共覚不申、右ニ付而者、拙者より御類も可申候得共、
帰郷ニ成候と申事ニ候得者、不能其儀候。且又眞愚上人御返答之儀者、御尤之事ニ奉存候。
将又拙者方ニ暫く御預可被成旨、併我等事者肉身之事ニ候得共、俗士之事ニ候得共、風流中之品物、暫も預り候境涯ニ無之候。何分ニも、是は雅器之事ニ候得ば、貴雅方ニ手前より御預ケ申度候。
仰之通り、明春ニも成候はゞ、拙者罷越、拜面之上、兎も角も可仕、是非々々譲方無御座節は、季吟未御存生之事ニ候得ば、元之通り返上納可仕、とても先夫迄者、貴雅之方ニ御預り置可被下候。偏ニ奉頼候。左候はゞ芭蕉魂魄も可為満足候。卓袋 土芳より始末は承申候。恐惶謹言。
  十月二十九日       松尾半左衛門 命清 印
    向井去来様

鳥羽之文豆 一脚 黒塗
長一尺九寸、幅一尺二寸、高四寸。
板厚三歩、筆反一尺一寸。

右者師子相求之印ニ、
季吟翁より先師に御相承被式親重器ニ候。今度拙者ニ御預可被成旨ニ付、慥ニ預り置申候。
後證如件。
元禄七年甲戊十一月四日     向井去来
  松尾半左衛門殿
但三ケ所疵、二ケ所有小指先程、一ケ所有小キ摺庇、四方之角摺レ有。


芭蕉終焉記(1)(2)花屋日記(芭蕉翁反故)

2024年08月07日 06時28分10秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉
芭蕉終焉記(1)花屋日記(芭蕉翁反故)
 
肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
 
 
九月二十一日(元禄七年 1694) 
泥足が案内にて、清水布浮瀬の茶店に勝遊し給ふ。
茶店の主が求めに短尺杯書きて打興じたまう。泥足こゝろに願うことあるによりて、発句を請いければ
 
所思
  此道やゆく人なしに秋のくれ   翁
   峡の畠の木にかゝる蔦     泥足
    
〔歌仙一折有略〕
 
連衆十人なり。短日ゆえ歌仙一折にて止む。今度はしのびて西国へと思ひたち給いしかど、何となくものわびしく、世のはかなき事思いつゞけ給いけるにや。此句につきて、ひそかに惟然に物がたりしたまひけり。
   
旅 懐
  此秋は何でとしよる雲に鳥   翁
 
幽玄きはまりなし。奇にして神なるといはん。人間世の作にあらず。
其夜より思念ふかく、自失せし人の如し。実に鳥の五文字、古今未曾有なり。(惟然記)
 
九月廿六日 
園女亭也。山海の珍味をもて腸謳す。婦人ながら礼をただし、敬屈の法を守る、貞潔閃雅の婦人なや。實は伊勢松坂の人とぞ。風雁は何某に学びたりといふ事をしらず。
岡西惟中が備前より浪華にのぼりし時、惟中が妻となる。その時より風雅の名益々高し。惟中が死後、汀戸にくだりて、其角(宝井)が門人となる。
 
白菊の目にたてゝ見る塵もなし   翁
    紅葉に水を流す朝月       園女
 
連衆九人、歌仙あり。別記。(惟然記)
 
  九月廿九日 
芝拍亭に一集すべき約諾なりしが、数日打続て重食し給いし故か、労りありて、出席なし。発句おくらる。
    
秋ふかき隣はなにをする人ぞ   翁
 
この夜より、翁腹痛の気味にて、排瀉四・五行なり。
尋常の瀉ならんと思いて、薬店の胃苓湯を服したまひけれど、驗なく、晦日・朔日・二日と押移りしが、次第に度敷重りて、終りにかゝる愁いとはなりにけり。
惟然・支考内議して、いかなる良医なりとも招き候はんと申ければ、師曰く、我元々虚弱なり。
心得ぬ医者にみせ侍りて、薬方いかゞあらん。我性は木節ならでしるものなし。願くは本節を急に呼びて見せ侍らん。去来も一同に呼よせ、談ずべきこともあんなれば、早く消息をおくるべしと也。それより両人消息をしたゝめ、京・大津へぞ遣わしける。
しかるに之道の亭は狭くして、外に間所もなく、多人数人こみて保養介抱もなるまじくとて、その所この所とたちまはり、我知る人ありて、御堂前南久太郎町花屋仁左衛門と云者の、奥座敷を借り受けり。間所も数ありて、亭主が物数奇に奇麗なり。
諸事勝手よろし。
その夜、すぐに御介抱申して、花屋に移り給いけり。
此時十月三日仇。(次郎兵衛記)
 
芭蕉終焉記(2)花屋日記(芭蕉翁反故)
 
肥後八代 僧文暁著
浪速   花屋庵奇淵校
 
十月四日~ 
 
車庸・畦止・諷竹・舎羅・何中等は、師の病気を知らず、この道亭にいたりしに、いたわり給う事を之道より聞侍りて、花屋にまいる。
病気不■■■につき、■訪ね人たりとも、濫りに座敷に通る問敷と、張紙を出す。ただし、仁左衛門に断わり置く事。(『次郎兵衛記』)
 
 
【註】
松風の軒をめぐりて秋くれぬ  はせを
毎年九月二十一日、浮瀬四郎右衛門亭にて松風の開式あり。
この一折りの俳諧、芭蕉袖草紙にあり。
 
 
扣 帳 (控 帳)
 
座敷人用品受取並び座敷付の道具品々覚
  戊十月四日
 
 机    一脚
煙草盆  二口
夜具五流
膳十人前 
釜鍋   一口・三口
茶瓶掛  二口
茶腕   十
薄刄包丁 三本
薬溜   二つ
摺鉢   一口
水嚢   一つ
盥    二口
硯一面
  帚(ホウキ) 二本
枕    五つ
竈    三口    
火箸   三
火鉢   二口
茶碗鉢  三口
薬鑵   一口
研木   一本
炭斗   一つ
油徳利  一つ
手水盥  二口
行燈   二張
提灯   二張
懸行燈  二張
  桃灯   二張
 
  右 同四日
 
白米     一斗
味噌     三升 赤白
  醤油     一升
薪      十束
  炭      一俵
  油      一升
  紙      一束
雑紙     一束
塩      一升
 
一カ月座敷料 三歩二朱 相渡 右 仁左衛門より受双書取置飛脚使に申遺候。老師一昨々夜より少し悪寒気御座候處、起居不穏候。この道不勝手に候故、御不自由と存、取計沢而、御道前南久太郎町花屋仁左衛門裏座敷、綺麗閑栖に候乃條借受、この道評判に而、先寓居と定置き候、今朝は別而ご気分無心元御様に存じ候。医者呼申筈に候得ども、早く木節に御容態御見せ被成度との御事被仰せ候條、則木節に別紙遣候。此状著次第、貴雅にも早々御下り相待候。
木節御同伴候様に存じ候。随分御急可被下候。不一。
  十月二日         惟然 支考
 去来様
猶々別紙急々木節に御届存侯。以上。
 
今朝の状、相達候哉と存候。老師御事、昨夜より泄痢(洩れ)之気味に而我に一變、夜中二十余度之通気、これは頃夜園女亭にての、菌之御過食と相考候。
一夜之中に掌を返すが如に、今朝より猶また通痢度数三十余度、我等始、之道手を握り候迄に候。此状著次第、木節同伴にて急々御下り相待候。南久太郎町花屋仁左衛門と御尋、早々御入可被成候。急々。以上。
  
十月二日夜子ノ時       惟 然
  去来 様
 
猶々、大津之衆、其外何方へも、手寄々々御申遣被成候。木節は急に被参候様御頼申候。伊賀への常飛脚は無之。幸羅漢寺之弟子伊勢へ越候に、今朝状頼遣候迄に候。若し其方角より幸便も候はば、被仰遣可被下候。
 
十月三日 
 
廿七行。但昼夜也。天気曇る。夜半過ぎに去来きたる。二日之朝の状、三日之朝届く。その座より直ちに打立、伏見に出しは巳の時なりし。それより船に打乗り、八軒屋に着きしは亥の時なりしと。
直に抑病床に参りたりしに、師も嬉しさ胸にせまり、しばしはものものたまはざりしが、諸國に因し人々は我を親のごとく思い給ふに、我老ぼれて、やさしき事もなければ、余のごとくおもふこともなく、事更汝は骨肉を分しおもひあれば、三ン日見されば千日のおもひせり。
しかるに今度かゝる遠境にて難治の菜薪の憂に罹り、再會あるまじくおもひ居たりしに、逢見る事の嬉しさよとて、袂をしぼりたまへば、去来もしばしは於咽せしが、暫くして云、僕世務にいとまなければ、させる實もつくさゞるに、
かゝる御懇意の御言を蒙る事、生をへだつとも忘却不仕と、数行の泪にむせぶ。何様売薬の効験心もとなしとて、去来また消息をしたゝめて、飛脚使に木印につかはす。(支考記)
 
  三日夜
子の時折、つゞいて木節来る。二日出の両人の消息その夜着きせし故、大津を丑の時に立、一得舟に乗りしかど、短日ゆえ遅く着く。諸子に会釈もそこそこにして、直に御様態を伺い、御脈を診す。生方逆逸湯を調合す。(支考記)
 
十月四日 
朝、木節申さるゝにより、朝鮮人参半両、道修町伏見屋より取、同く色香十五袋取。天気よし。この道方より世話にて、洗濯老女を雇い、師の御衣装、其外連衆の衣装をすゝぐ。
園女より御菓子並び水仙を送る。支考・惟然介抱。次郎兵衛とても手届かね、之道とりはからひとて、舎嗣・呑舟と云もの来る。按摩など承る。今日三十度余におよぶ。度ごとに裏急後重あり。(次郎兵衛記)
 
十月五日 
朝、丈草・乙州・正秀きたる。天気曇る。寒冷甚だし。
時侯の故にや、師時々悪寒の気あり。朝、次郎兵衛天満に詣でる。昼過ぎ帰る。夜著蒲団又々五読、米壹斗、醤油二升、塩壱升、味噌三升、薪二十束、炭二十貫目、雑紙三束なり。今日師食したまはず。湯素麺二束なり。夜中までに五十度におよぶ。(次郎兵衛記)
 
  十月六日
天気陰晴極まらず、朝の食、入麪(麦粉 麺)三箸、前夜終夜宵寝入り給わず、暫く睡眠し給う御眼覚めより、去来を近くに召して、先の頃野明が方に残し置き侍りし、大井川に吟行せし句
    
大堰川波にちりなし夏の月   翁
 
此句あまり景色過たれど、大井川の夏げしき、いひかなへたりと思い至りしが、清瀧にて
    
清瀧や波にちりこむ青松葉   翁
 
と作りし。事柄は変わりたれど、図説なりと人のいはん心いかがなれば、
大ゐ川の句は捨てはべらんと汝に申たり。しかるに頃日園女に招かれて
    
白菊の目に立てゝ見る塵もなし  翁
 
と吟じたり。これ又同案に似て、句の道筋おなじ。それ故前の二句を一向に捨はべりて、白菊の句を残しおき侍らんとおもふ也。汝の意いかん。
去来泪をうかべ、名匠のかく名を惜しみ、道を重んじたまふ有がたさよ。
纔句一章に、さまで千辛萬苦したまふ御病■の中の御骨折、風雅の深情こそ尊とけれ。眼のあるもの何者か、此句を同案・同巣と見るべき。
恐ながら此句を同案・同巣など人申すものは、無眼人と申すものなり。
その故は、比句々景情別々備りて、句意を見る時に、三句ともに別なり。
かるがゆえに、我は句の意を目に見て、句の姿を見ず。
青苔日ニ厚ソ自ヲ無塵。
これはこれ陰者の高儀をほめたる語、
今は園女がいまだ若くして、陌上桑の調(ミサホ)あるをほめたまひたる吟なり。意も妙なり、語も妙なり。世人此句を見るもの、園が清節をしらん。
波に塵なしの語は、左太仲が 必非絲與竹山清音 といへる絶唱もおもはれ、
園が二夫にまみえざる貞潔と、大井・清瀧の絶景と、二句の間相たゝかつて、感じてもあまりありと申せしかば、師も一睡よくおはしけり。(去来記)
 
十月七日
 朝より不相応の暖気なり。曇りて雨なし。 薬方逆逸湯加減。また入り入麪(麦粉 麺)を好み給う。 園女より見舞いとして、菓子等贈りきたる。
 次郎兵衛取り計て之道に送る。鬼貫来る。去来・支考会釈す。園女・可中・沼川来る。去来・支考会釈す。終日薬をめさず。終日曇る。
夜になりて晴る。夜に入り人音もしづかになりければ、灯の元とに人々伽して居たりければ、乙州・正秀等去来に申けるは、今度師もし泉下の客とならせたまはば、この後の風雅いかになり行侍らん。
去来黙して居たりしが、我も其事心にかゝりしゆゑ、二日の消息届けし故、かくいそぎ參りたり。人々もさおもひたまふや。さあらば今夜閑静なり。只今の體におはしまさば、御恢復おぼつかなし。滅後の俳諧を問い奉らんとて、
静に枕上に伺いよりて、機嫌をはからひ問い申けり。翁、次郎兵衛に助け起こされ、息つき給いてのたまはく、俳諧の変化きはまりなし。
しかれども真・行・草の三ツをはなれず。其三ツよりして、千變萬化す。
我いまだその轡をめぐらさず。汝等もこの以後とても、地を離れるなかれ。
地とは、心は壮子美の老を思い、寂は両上人の道心を慕い、調べは業平が高儀をうつし、いつまでも、我等世にありと思い、ゆめゆめ他に化せらるゝ事なかれ。言いたき事あれども、息■■口かなはずと、喘ぎ給いければ、呑舟口を潤す。また薬をまゐらせてしづまりたまふ。各筆をとりてこれを書く。(惟然記)
 
十月八日
天位快晴。胴不良ヘリ。京の口(?)士来る。信徳(伊藤)より消息もて、御病態を問う。同近江の角上より使い来る。人々勝手の間にて、今度の御所労平復を祈り奉らんとて、住吉大明神に池中より人を立べしと、去未申おくられければ、各しかるべしと、之道・次郎兵衛は■当にて、社務林泉采女方に祝詞をたのみ、厚く即納の品々おくらる。
 
    奉納
   落つきやから手水して神あつめ   木節
   初雪にやがて手ひ早かむ佐太の宮  正方
   峠こそ鴨のさなりや諸きほひ    丈草
   起さるゝ聲もうれしき湯婆哉    支考
   水仙や使につれて床はなれ     呑舟
   居あげていさみつきけり鷹のかほ  如香
   あしがろに竹のはやしやみそさゞい 儒然
   神のるすたのみぢからや松の風   之道
   日にまして見ます顔り霜の菊    乙州
   こがらしの空みなほすや鴨の聲   去来
 
大勢の集会なりければ、よろこび興じて師を慰め申けり。木節、去来に申けるは、今朝御脈を伺具申に、次第に気力も衰え給うと見えて、脈體悪ろし。
最初に食滞り起りし泄潟なれども、根元脾賢の處にて、大虚の痢疾なり。故に逆逸湯主方なり。猶また加減して心を盡すといへども、薬力とゞかず。
願わくば、治法を他医にもとめんと思う。去来、師に申す。
即日、木節が申條尤もなれども、いかなる仙力ありて虎口龍麟を医すとも、
天業いかんかせん。我かく悟道し侍れば、我呼吸の通はん間は、いつまでも木節が神方を服せむ。他に求むる心なしとのたまひける。風流・道徳人みな間然することなし。
支考・乙州等、去来に何かさゝやきければ、去来心得て、病床の機嫌をはからひて申て云、古来より鴻名の宗師、多く大期に辞世あり。さばかりの名匠の、辞世はなかりしやと世にいふものもあるべし。あはれ一句を残したまはゞ、諸門人の望足ぬべし。
師の言、
きのふの発句はけふの辞世、今日の発句はあすの辞世、我生涯云捨し句々、一句として隔世ならざるはなし。若我辞世はいかにと聞く人あらば、この年頃いひ捨て置きし句、いづれなりと辞世なりと申たまはれかし。
諸法従来當示寂滅相、これは是釈尊の辞世にして、一代の仏教この二句より外はなし。
古池や蛙とび込水の音、
比句に我一風を興せしより、初て辞世なり。其後百千の句を吐に、此意ならざるはなし。こゝをもって、句々辞世ならざるはなしと申侍る也と。次郎兵衛が傍より目を潤すにしたがい、息のかぎり語りたまふ。比語實に玄々微妙、翁の凡人ならざるをしるべし。(安考記)
 
夜に入り嵯峨の野旧・為有より柿を贈り来る。消息添う。今日まで伊賀より音信なし。去来・乙州申談じ、態と飛脚を差たつべきよし師に申ければ、師の言、我隠遁の身として虚弱なる身の、数百里の飛脚おもひ立、親族よりとゞめけれど、心儘にせしは我過ぎなり。今大病と申おくりなば、一類中の騒ぎ、
殊に主公の聞しめしも恐あり。たとひ今度大切におよぶとも、沙汰あるまじとのたまひけり。師の慮の深きこと各感心す。度数六十度におよぶ。
(惟然記)
 
十月九日
諸子の収はからひとして、ふるき衣装また夜具などの、垢つきたる不浄あるを脱かはし、よき衣に召せかへまゐらせ申。
師曰く、
我邊端波濤のほとりに、草を敷寝、地を枕として、終りをとるべき身の、
かゝる美々しき褥(しとね)のうへに、しかも未来までの友どち賑々しく、
鬼録に上らむこと、受生の本望なり。丈草・去来と召し。昨夜目の合わざるまゝ、ふと案じ入りて、呑舟に書せたり。各詠じたまへ。
 
   旅に病で夢は枯野をかけ廻る
 
枯野をめぐる夢心ともし侍る。いづれなるべき。これは辞世にあらず、辞世にあらざるにもあらず。病中の吟なり。併かゝる生死の一大事を前に置きながら、いかに生涯好みし一風流とは言ながら、是も妄執の一ツともヽいふべけん。今はほいなし。
去来言、左にあらず。
日々朝曇暮雨の間もおかず、山水野鳥のこえ有すてたまはず。心身風雅ならざるなく、かゝる河魚の患につかれ拾ひながら、今はのかぎりにその風柳の名章を唱へ給ふ事、諸門衆のよろとび、他門の聞え、末代に亀鑑なりと、涕(なみだ)をすゝり泪を流す。限りあるもの是を見ばで魂を飛さむ。耳あるもの是をきかば、毛髪これがために動かむ。列座の面々、感慨悲想して、慟絶して、聲なし。是師翁一代の遺教経なり、此日より殊更に劣ろへたまへり。度数しれず。(去来記)
 
十月十日 
 
初時雨せり。
師、夜の明がたより度数しれず、ひとしほ微笑みたまへり。折ふしに譫言(うわごと)ありて、とりしめなきこと多し。木節この日芍薬湯(シャクヤクトウ)をもる。
諸子打よにり、食事をすゝめまゐらせけれど、すゝみたまはず。梨実をのぞみたまふ。
木節かたく制しけれど、頻りに望みたまふゆえ、やむことを得ずすゝめければ、一片味ひてやみ給ふ。木節云、牌胃うくる處なし、死期ちかきにありと云う。申の刻にいたって人ごこちつきたまふ。今日は一人も食したるものなし。
(佳然記)