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枕草子と現代女性  『雞肋雑記』昭和63年8月10日  著者  柳町菊次郎氏

2024年08月10日 17時32分13秒 | 文学さんぽ

枕草子と現代女性

 『雞肋雑記』昭和63年8月10日

 著者  柳町菊次郎氏

 発行者 柳町勝也氏

 一部加筆 山口素堂資料室

 

三巻本枕草子第二十二段は次のような文章である。

 

生ひ先なくまめやかにえせざいはひなど見てゐたらむ人は、

いぶせくあなづらはしく思ひやられて、

なほされぬべからむ人のむすめなどは、

さしまじらはせ、

世のありさまも見せならはさまほしう。

内侍のすけなどにてしばしもあらせばやとこそおぼゆれ。

官仕する人をばあはあはしうわるきこといひ、

思ひたる男などこそいとにくけれ。

げに、そもまたさることぞかし。

かけまくもかしき御前をはじめ奉りて、

上達郎・殿上人・五位・四位はさらにもいはず。

見ぬ人はすくなくこそあらめ。

女房の従者ずさ、その里より来る者、

長女かさめ、御厠人みかわようどの従者、たびしかはらといふまで、

いつかはそれを恥ぢ隠れたりし。

殿ばらなどはいとさしもやあらざらむ。

それもある限りはしかさぞあらむ。

それもあるかぎりは、しかぞあらむ。

うへなどいひてかしづきすゑたらむに、

心にくからずおぼえむ。

ことわりなれどことわりなれど

また内裏の内侍のすけなどいひて、

をりをり内裏へまゐり、

祭の使など出でたるも面だたしからずやはある。

さてこもりゐぬるは、まいてめでたし。

受領ずりょうの五節出だすをりなど、いとひなび、

いひ知らぬことなど人に問ひ聞きなどはせしかし。

心にくきものなり。

 

これを口語訳すると次の如くになる。

従来の諸注の解とは、大いに異なるところがあるから注意せられたい。

将来性も乏しく、地味に、几々たる家庭生活に満足しているような女性は(私からみると)いかにも退屈で阿呆くさくてならないものだから、やっぱりチャンとした家の娘さんなんかは、宮柱で人中にも出させ、世間というものを見させもし慣れさせもしたし、(できることなら)典侍などになってほんの暫くでもいさせてやりたいものだと、こう思われることですよ。

宮仕えする女性を、ガサツで怪しからぬもののように言ったり、思いこんでいる男たちこそ、実に腹の立つことだ。全く私が憤慨するのもまた、当り前なんですよ。

(宮仕する女性なら)口にするのもおそれ多い御上を始めとさせていただいて、公卿、御上人、五位や四位の人はいうまでもなく、顔を合わさぬ人は、ほとんどないことでしょうよ。

(それどころか)女房の供人や女房の実家から来る使いの者、田舎から来ている下仕えの老女や掃除女などの供の者(もっと)人数に入らぬ下賤のものまで(宮仕する女性なら)いつ、そんなものたちと顔を合わせることを恥ずかしがって隠れたりなんかしたでしょうか。

(そりゃあ)殿方なんかは、ほんとに私たちほどにはね、御上とでも誰とでも顔を合わせるということもないでしょうよ。(でも)殿方だって、殿上勤めの間はその通り、私たちと同じことですわね。奥方などといって(お人形みたいに)床の間に飾っておいたような場合に(宮仕えの経験のある女性を)あまり奥ゆかしくは感じないかもしれない。

それももっともだけれど、一面では、内裏の典侍などというわけで時々宮中にお伺いしたり、八十島祭の使に立ったりするのも、(夫にとって)何で名誉でないことがあるものですか。そうした数々の経験を積んだうえで家庭に落ち着いているのは、格別結構なものだ。

 (夫たるのも)受領として五節の舞姫を出す時なんかに、すっかり田舎くさくて、わけのわからぬことを、他人に尋ねまわるような見っともない振舞は(奥方がすっかり宮中のことを公得ているお蔭で)しないことでしょうよ。(そういうのが本当の意味で)奥ゆかしいものです。

 

これ程明確に、女性就職の意義を規定した意見はめずらしい。あれほど宮仕えを不本意なものと考え、常に表面に出ることを避けていた紫式部でさえ、中宮彰子方の上藹女房が、まるでねんねのお嬢さんばかりで、人と応対することをしりごみし、碌な口上も言えず、公用で中宮に申し上げたいことがあって訪ねて来た公卿たちをも失望させて、「中宮方は沈滞し切っている」と世間で評判されるようになったことを残念がっているのである。(紫式部日記)

要するに清少納言の問題にした女性の宮仕えというものは、天皇に直接奉仕する内裏の女房のことであって、さらに拡大解釈しても、上皇や女院に仕える院の女房、中宮や親王、内親王に仕える宮の女房、摂関大臣家に仕える家の女房の範囲内であって、その当時といえども存在した、農山漁村、商工業者の社会に於ける女性労務者のような庶民の世界を含むものではない。

また官僚貴族の社会に於いても采女や雑仕のような下級女官ではなく、すくなくとも女蔵人以上の女房階級、貴族の子女の働き場所としての、高級女官の世界についてのことではあるが、今日の民主的社会に於て教育・職業の自由がすべての女性に認められている時代においては、すくなくとも四年制大学を卒業した女性は、平安朝に於ける貴族の子女と同等に考えてもよく、その職業意識を論じるのに、清少納言の女性宮仕え論を、ひき合いに出すことは、強ち不当ではないと思われる。

そういう点ていえば、いたずらに、無責任なカッコよさにあこがれる現代女性よりはもちろん、結婚前の自由満喫的腰掛主義の現代女性よりも、また、夫と死別後の生活力を身につけておきたいという社会保障型の女性よりも、一層、徹底した職業観を清少納言は把握していたようである。

 

すなわち、勤務する官庁のセクトの伜さいに縛られている男子の宮人よりも、宮廷に二十四時間の生活を持つ女房の方が、官僚社会のあらゆる階層のものと接触することによって、より幅広く、奥行きのある人間的成長をなしとげ得るものであって、男子の宮人も蔵人職として宮廷内に生活する時にのみ、女房と同等の経験を積み得るであろうと、その点に於ける女性上位の職業論を、堂々と展開しているのである。多くの男性が、自分の思うままの色に染め得る、無知初心の女性を妻として欲していることを、一応感覚的には認めながら、それでも内裏の典侍にまで昇進して、宮廷生活の裏表を知りつくした女性を妻とした場合の真の奥床しさというものを、男性に教えようとしているのである。

 大学を出て、一応就職することを当然のように観念づけられている現代女性といえども、その職業体験が、単なる婚前の自由享受や結婚費用の蓄積、夫に対する経済的発言権の確保死別もしくは離婚後の生活保障といった低次元のものではなく、真の人間的完成を目ざして豊富な経験を積むためのものであることを認識している人は少ないであろうし、まして、男性に対する女性の真の魅力が、いわれなき羞恥心や未経験の無知に根ざす生理学的なものでなく、男性との間に、相互信頼の関係を確立し得るような人間的魅力、即ち実力のある奥床しさにあるということを認識して、それを職業体験の最終目標として、しっかり把握しているのは、案外にすくないのではあるまいか。清少納言の職業観は、その点に於いて、今日の個人主義の時代に於いても、十分指導理念となし得るものであるといえよう。


八月十八日芭蕉 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月10日 10時53分32秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十八日

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

鹿島根本寺にて 芭 蕉

 

 月くまたくはれけるまゝに、夜舟さしくだして鹿島にいたる。晝より雨しきりにふりて、月見るべくもあらす。麓に根本寺のさきの和尚いまは世をのがれて、このところにおはしけるといふをきゝて、たづね入りてふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)をはつせしむと吟じけむ。しばらく清浄の心をうるに似たり。あかつきの窓いさゝか晴れ間ありけるを和尚おこし驚し侍れば、人々おきいでぬ。月の光、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことのはもなし。はる/\〃(ばる)と月見にきたるかひなきこそ本意なわざなれ、かの何がしの女(むすめ)すら、ほとゝぎすのうたえよまでかへりわづらひしも、我がためにはよき荷擔(かたん)の人ならむかし。

 

おり/\にかはらぬ空の月かげも 

ちゞの眺めは雲のまに/\    和 尚

   月はやしこずゑはあめを持ながら   芭 蕉    

寺に寝てまこと顔なる月見哉     同

あめにねて竹起かへる月みかな    ソ ラ

つきさびし堂の軒端の雨雫      宗 波

 

神 前

   この松のみばへせし代や神の秋    桃 青

   ぬぐはゞや石のおましの苔の露    宗 波

   ひざからやかしこまり啼く鹿のこゑ  曽 良  (鹿島紀行)

 

 【註】石のおましは石の御座で、太古、鹿島の神の御座であつたといふ石がある。

 

越後にて  太 笻

 

油わく山はあれども雨の月

   あふ罪歟別る々科か荻をふく

   この簑のあるじもどり露寒き

   佐渡山の日和を見せる紫苑哉

   雨は風を打て秋へる山家哉      (寂砂子集)

 

身にしむ   芭 蕉

八月十九日

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入りと云けむ、

むかしの人の杖にすがりて、貞享のきのえね秋八月、

江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ塞げなり。 

   野ざらしをこゝろに風のしむみかな

   秋十とせ却て江戸をさす故郷

  聞こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。

   霧しぐれふじをみぬ日ぞむもしろき

  何がしちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。

常に莫逆の交深く、我にまこと有哉、この人。

深川やはせをふじに預けゆく   ちり (野ざらし紀行)

 

秋ところどころ 桃隣

   三日月やはや乎に障る山の露

   稲妻や二兎山の根なし雲

   名月や曉近き霧の色

山畑に猪の子来たり今日の月

   名月や舟虫走る石の上

   きり/\″す鳴くや最上の下り舟

   栗稗は苅られて古きかゞし哉

 

【註】貞享きのえねの年は貞享元年、芭蕉四十一歳。彼が江戸に出たのは廿九歳の時で(その間

に一度帰省した亊があるらしいが)十余年ぶりでの故郷を指して旅立ったのであるが、十

年も住めば、江戸こそ却て故郷の感があるというである。

    ちりは千里、大和竹内の人、彼も故郷に帰る用があって、芭蕉と旅立つたのである。

    桃隣は天野藤太夫、伊賀上野の人、芭蕉の親戚である。

後、江戸に住み太白堂と称した。芭蕉の奥の細道の跡を尋ね歩き「陸奥千鳥」の著がある。

 

稲の香   青蘿

 

  天明らかなる年にあたるといへども、巳午五ツ六ツ未の春に至れる迄、

風雨のいくたびか人のこゝろを驚し、五穀も是が埓に実をむすぶ色うすく、

高きいやしきに及べるもいと譁(かまび)すしく、

すでに下れる世となりなんとせしに、久方の雨の恵み、夏夕立に秋草して、

殊に月見る夜ごろは田毎の三ふし草みのりて、いとめでたきけしきにめでて、

玄駒、洗洲あるは東田、淇笏、愚寒かいわたこゝろを船につみて、

あら井川のながれの上に今宵のかげを待ゐたり。

予も淡路の法師を携へて此船の客となりぬ。

   稲の香の満るを今宵月の雲      (青蘿発句句集)

 

八日二十日

良夜草庵の記 小西来山

 

  ことし此夏今宮といふ所に、提てものくべきほどの休み所をもとめてし。

よはき足には道のほど、すこし隔りたれど、心のむもむきにまかせ、むりく竹杖を嘶す。

こよひはさらにとて、ひとりふたりさそひつれて、まだ日高きよりうかれ行。

西は海近くして地よりも浪高く、その前は民屋所々にたちつづきたり。

入日をあらふ沖津しら波、とよみし名古の浦は今の木妻村とかや。

時と代とうつりかはるもあはれたりや。住宮浦の夕ばえ、中々えもいはれす。

漸として其所に膝行あがりつゝ蒲のむしろ、藺(りん)の枕、寐ながらの遠見、

東宮は雲をこすって山林、野村一目にたらず。つゐ手の届くく茶臼山、

一心寺の入相は常にもしたふものから、月待暮はひとしほ待久し。

安井の聖廟、木の間に森々として、茶臼山のかけ造りあけはなちて心よし。

新清次の欄干には乱舞糸竹の昔こそ聞えね。家々酔賞の最中ならんと詠やるもものめかし。

下寺町の藪疊もいっしかに白壁になりかはりて、門々高く続きて樓々崔々たり。

まして市中の繁榮、心ある人に見せばやな。それでも老は昔なつかし。

 

 【註】小西來山は大阪の人。芭蕉一派とは別の立場に在り、鬼實及び江戸の其角と共鳴すると

ころがあった。今宮に隠栖して、一個の女人形を溺愛していたという話は名高く

(「女人形記」……上巻一四一頁)。其今宮の庵の跡は今日も残つている。

享保元年十月三日歿、年六十三。[一心寺の入相は常にしたふものから……」

とあるその一心寺に「湛々翁墓」として葬られている。

名月や耳の山かせ日の曇  (俳諧いまみや草)

 

柴の戸 芭蕉

 

柴の庵ときけばいやしき名なれどもよにこのもしき物にぞ有ける。 

 

この哥は東山に住ける僧を尋ねて、西行のよませ給ふよし、山家集にのせられたり。

いかなる住居にやと、先その坊なつかしければ

柴の戸の月や其まゝあみだ坊

 

八月二十一日

 

富士川 芭蕉

 

富士川のほとりを行に、三つなる捨子の哀気に泣有。

この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待つまと捨て置けむ、

小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、

あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに

    猿を聞く人捨子に秋の風いかに

  いかにぞや、汝ちゝ悪まれたる歟、母にうとまれたるか、ちゝは汝を悪むにあらじ、

母は汝をうとむにあらじ、唯これ天にして汝が性のつたなきを哭け。

  (野ざらし紀行)

 

 

田 家 樗堂

 

    無造作たるものは田家

さむしろや飯喰ふ上の天の川

秋の風人ほど死ぬものはあらじ

     老後薬なしといへど、無何有の郷のあなたにはまたありとやらも聞ぬ。

秋風や鏡の翁我を見る

我庵の朝がほ今朝もまた白し

木枯や日の出見に行園城寺   (萍窓集)

 

鳩  洒堂

 

人に似て猿も手を組む秋の風

   鳩吹くや澁柿原の蕎麦畑

高土手に昌の鳴く日や雲ちぎれ     (続猿蓑)

   名月や誰れ吹起す森の鳩

   とうきびにかげろふ軒や玉まつり

   碪(きぬた)ひとりよき染物の匂ひかな (炭俵集) 


貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著 『国文学』解釈と教材の研究  第36巻13号 11月号 学燈社

2024年08月10日 06時53分35秒 | 文学さんぽ

貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著

『国文学』解釈と教材の研究 

第36巻13号 11月号 学燈社

 

今日芭蕉の句として伝わるもののうち、真偽の確認されたものは、およそ九百八十余句ほどである(『芭蕉講座』第二巻 昭和五十七年刊)。そのなかで、いわゆる貞門の時代につくられた句は、人によりその範囲をどこまでに置くかによるちがいはあるものの、せいぜい六十句にもみたない。

芭蕉が、まだ「桃青」でも「芭蕉」でもなく、「宗房」と名乗っていたころの句である。

これら数十句の出拠を厳密に考証し、貞門時代の作であることを確定したのは、穎原退蔵の「芭蕉俳句年代考」(『潮音』昭和三年、四年)にはじまり『新訂芭蕉俳句集』(昭和十五年刊 岩波文庫)、『芭蕉俳句新譜』(昭和二十二年まで諸誌に連載)におわる一連の業績であったが、以後、戦後に著された芭蕉発句の

注解は、同じ穎原の次の言葉を暗黙の了解としてひきつぐこととなった。

 貞門時代に於ける作家論の如きは、それゆえ極言すれば無意味と言っても宜い。当時の作品には時代としての特質は存しても、作家としての特色は見られないのである。強いて云えば、言葉の組方の巧緻と粗筆との差が諭されているくらいであろう。稀には言葉の技巧によれず、内容の滑稽を主とした作がないでもないが、それだけで特色をなしたというような作家は殆どない。要するに寛文初年頃における芭蕉発句の特色を概説するという如きは、最初から問題とならないのである。

   (「蕉風の展開」『芭蕉講座』発句篇・中 昭和十九年刊)

 しいて、それら注解書における芭蕉の貞門時代の句への評価のちがいを求めるならば、一方に、「見立て」の多用、本歌本説取りの多用などに、時代の新流行を懸命に造いかけようとする芭蕉の姿を、あたうかぎり客観的によみとろうとする(すくなくともこれらの句を切り捨ててしまわない、という意味では)好意的な俳諧史研究としての見方があったのにたいし、その裏返しとして、結局それ以上のものではないのだからはなから考察の対象外としてしまう、という、芭蕉句のいわゆる詩性を重視する見方があったにすぎない。それは、「俳諧少年」としての修行時代の作であるこれら数十句に、当時の貞門俳諧の枠をこえるような芭蕉の個性の発揮をみとめないという見方の、いわば二面性にほかならない。

 これにたいし、昭和五十年代のはじめに発表された、

(一)広田二郎氏「貞門風作品と古典-『古今集』詩学の把握を中心としてー」(『芭蕉-その詩における伝統と創造-』昭和五十二年刊)、

(二)山下一海氏「『統山井』の芭蕉…元禄文学への一つの出発-」(『日本文学』昭和五十二年九月号。後に同氏著昭和六十年刊『芭蕉の世界』に所収)は、従来の研究史における評価を大筋として認めたうえで、なお厳密に見れば、この「宗房」時代の何のなかにも、後の芭蕉の作風につながるなんらかの個性があらわれているはずである、という視点から、芭蕉の貞門時代の何によみとれる、詩人としての個性を論じられたものである。

(二)は、現存する芭蕉のもっとも古い句「春や来し年や行けん小晦日」などの解釈を中心に、芭蕉の『古今集』『源氏物語』にたいするかかわり、理解が貞一般を超えていることを論じている。

(二)は、一見たしかに言語遊戯の何としか読み取れない『続山井』の何にも、芭蕉の感情が、主観語や新鮮かつ素直な表現ではしなくもあらわれることがある、と論じたものである。その意味で、より直接には、この何の載っている『続山井』には、芭蕉の発句が二十八句、付句が三句入っているが、心境的な句は一句もない。ないのが当然で、後年のような心境的な、自己の内心のものを盛るような何は、当時の貞門俳諧の何風ではなく、また二十二、三歳の若い芭蕉のよくするところでもなかった。

  (鑑賞日本古典文学28『芭蕉』本文鑑賞 井本農一氏担当)

という見方に、もう一度検討をくわえ、芭蕉初期の何の再評価をこころみようとしたものであるといえよう。これらはともに、ややもすれば、言語遊戯を宗とした貞門時代の俳諧に個性など発揮されるはずがない、という先入観で評価されがちな「宗房」号句に、芭蕉の成長を考えるうえに資する、このような読み方もできるのではないかという可能性の問題を提起した論なのである。以後、それは、たとえば「寛文期の芭蕉発句は全体として当時の貞門俳諧の枠を出ないものであるが、言葉続きがなめらかで、句にリズムとスピード感の存すること、そこに芭蕉の才能の萌芽が見られることも事実である」(『芭蕉講座』第二巻 永野仁氏執筆)というような、折衷的な見方に取りこまれていくこととなる。

 

 あたえられた課題にかかわる研究史は、ざっと以上のようにまとめられよう。しかし、私には、はやく穎原によりまとめられた定説と、それを大枠では認めながらより芭蕉の個性をよみとる方向への修正を求める二論との間に、しっくりかみあっていないものを感じてならない。従来、課題そのものは、原則として、まず当時の俳諧のなかで芭蕉の句はどのようによむことができるかという検証ののち、これらの句が芭蕉後年の俳諧にどのようにつながっていくのかいかないのか、という問いを深めていく、という手続きで、解かれてきたように思われる。しかし厄介なことに、この過程には、すぐれて恣意的な、芭蕉への思い入れとでもいうべき感情の、往々にしてはいりこみやすいところが随所にあり、それが、貞門時代の俳諧のなかから芭蕉の句をただしく選別し、正確にその特徴を指摘することをしばしば妨げることにつながっていく危険性をはらんでいるのである。それは、論の性格上、とりわけ芭蕉の個性をひきだしたいとする後者の立場をとる論にあらわれやすい性向であろう。

 一口に貞門の俳諧と較べるといったところが、芭蕉は、この時代にわずか五十余句をのこしたにすぎない。貞門時代の俳諧の大勢は、発想としての見立てを根幹に、縁語や言いかけを主とした秀句仕立ての技法でもってつくられた、機知的な言語遊戯の俳諧であるが、その懐は、意外と広いものであったはずである。その懐は、以外と広いものであったはずで、連歌をたしなむ連中の、なかば連歌の尾ををひきずったような句は勿論、

    山の頭を照らす稲妻

かりまたやめっきをさしてわたるらん

          (寛永十四年熱田万句・甲 一一七)

という『守武千句』のパロディーに象徴される室町俳諧へのあこがれなど、いわば前代から当代の類似文芸にひろく影響され、あらゆる俳諧をそこにひっくるめて存在したのが、当時の俳諧であったはずである。任意に一つの撰集を通読しても、そこに様々な俳諧のバリエーションが容易にみとめられよう。

とすれば、よしんば五十余句のなかに「芭蕉の個性」というものを探し出したように思えたとしても、はたしてそれが、この幅広い、何万句とある貞門俳諧の範噴からはみだした「個性」であると確言するのは、至難の技であるとは言い難い。その峻別は、意外なほどの難行ではあるまいか。

 たとえば、『続山井』(潮音撰 寛文七年刊)ひとつだけ例にとり、そのことを説いてみよう。

 

    初瀬にて人々花見けるに

  うかれける人や初瀬の山桜  (続山井)

 

 諸注指摘するように、これは、

「うかりける人を初瀬の山颪よはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣」

(千載集・恋二・七〇七、百人一首)のもじりである。わずかに、「うかりける」と一文字を変えただけで、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換が図られた、まずまずの出来の句とよみとれる。前者の見方にたつ『鑑賞』(井本氏)は、この句の類型、等類を具体的には示さないまま、これに、「一応手のこんだ技巧を弄してはいるか、また、ただそれだけの句でもある……まだ若い芭蕉は貞門俳諧の潮流のままに流されていたのであって、この時代の芭蕉にとくに独創的なものを求めるのは無理である」という、評価をあたえた。一方、後者の見解を示された山下氏は、これが俊頼の歌のもじりであることをみとめつつ、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換を、芭蕉の「大らかさ」と見て、「古歌のもじりにとどまらない素直な表出感を読みとることができる」として、芭蕉の個性にまで結びつけられた。しかし、この句が、実は、

 

 1 いかりける人ぞ初瀬の花の番  重賢 (埋草・大和順礼)

   いかりける人よ初瀬の花の番  高故 (時勢粧)

   しかりける人や初瀬の花の番  詩友 (蛙井集)

 2 うかれける人や初瀬の花見酒  重利 (伊勢正直集二

   うかしけり人を初瀬の花見酒  光次 (境海草・大和順礼)

   うかしけり人を初瀬の花見酒  三保 (後撰犬筑波)

 3 うたひける人や初瀬の花見酒  政尚 (続大和順礼)

 4 うたれける人や初瀬の花に幕  以仙 (大海集・松葉俳林)

   うたれける人や初瀬の花の滝  良弘 (続大和順礼)

 5 うらみける人や初瀬の花の風  良綱 (続大和順礼)

 6 ぬかりけるものや初瀬の遅桜  芳心 (埋草・大和順礼)

   ぬかりける人や初瀬の花の跡  信之 

                    (風俗草*詞林金玉集による)

 7 うつかりと人や初瀬の花ざかり 立静 

                    (時勢粧・都草・たはぶれ草)

   8 たかりける人は初瀬の花見哉  治元 (大和順礼)

   9 ひかりける火とは初瀬に飛ぶ蛍 宗賢 (大和順礼)

     ひかりける火とは初潮の蛍哉  知乙

                  (砂金袋後集*詞林金玉集による)

   10 鵜飼ける人や初潮の川遊び   正次 (大和順礼)

 

という、この同じ古歌をもじる貞門俳諧の類型のなかで、もっともありふれた2のパターンのなかにふくまれるものであることをみたとき、そのような芭蕉の個性と結びつけた見方がもはや成り立ちえないことはあきらかであろう。

 わずかに一例だけをとりあげたにすぎないが、同様のことは、ほかの「宗房」号句についてもあてはまるのではなかろうか。

 当時の芭蕉句(すなわち「宗房」号句)を、貞門俳諧一般となんら変わるところがないとみるのか、それとも、後年の芭蕉句に通じる個性をすでに内に含んでいたと積極的に評価するのか、そのいずれの見方をとるにしても、その唯一の判断材料である貞門俳諧のよみそのものが、従来、どう贔屓目にみても立ち遅れていたことは、誰の目にもあきらかであろう。定説化した穎原の見解に、三十年ぶりに修正を求めた後者の論は、たしかに魅力的ではある。しかし、そのような視点に納得を得るためには、結局、貞門俳諧の正確なよみそのものがなによりも問われているのではなかろうか。もちろん、前者の見方に立つ論にも、これとまったく同じ手続きが必要とされることは、いうまでもない。実情は、「芭蕉」以前のところでしばらく足踏

みしている、ということであろう。ともかくも、土俵の整備こそが急務なのである。

・……岐阜大学助教授・……