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猿蓑(さるみの) 露半學人(幸田露伴) 晋其角序

2024年08月06日 12時01分24秒 | 俳諧史料

猿蓑(さるみの) 露半學人

 

晋其角序

誹諧の集つくる事古今にわたりて此道のおもて起すべき時なれや。

幻術の第一としてその句に魂の入らざれはゆめにゆめ見るに似たるべし

久しく世にとどまり長く人にうつりて不変の変をしらしむ五徳はいふに及はず、

心をこらすべきたしなみなり。

彼西行上人の骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。

人には成て侍れども、五の聲わかれざるは反魂の法のおろそかに侍るにや。

されば魂の入りたらば、アイウヱオよく響きて、いかならん吟聲も出ぬべし。

只誹諧に魂の入りたらむにこそとて我翁行脚のころ伊賀越しける山中にて、

猿に小菊を着せて誹諧の神を入りたまひければ、たちまち断腸の思いを叫びけむ。

あたに恐るべき幻術なり。

これを元として此の集をつくりたて「猿みの(簑)」とは名付申されける。

是が序もその心をとり魂を合せて去末 几兆のほしげなるにまかせて書。

  元禄未歳五月下弦  雲竹書

 

 おもて起す。面目を旅するの意。

皐白集第六、「さか衣」の文に、まことに月花もおもでおこすべき時なれや、といへるが有り。

木下長嘯の集は常時の人々に讀まれゐたるものなれば、こゝに辞を用いたり。

巻之二、夏の部に同人の、「有明に百おこすやほとゝぎす」、の句も見ゆ。 

○幻術 無を有と焉し、有を無と焉し、刀を呑み火を吐き、すべて実理の外に出で八入をして我が心の

まゝに感ぜしむる術をいふ。

詩歌俳諧の道、虚象にして眞感を生啓しむるものなれば、こゝには幻術に喩を取りたるなり。

○旬に魂の入らざれば。魂とは精紳霊気と云はんが如し。

○久しく世にとゞまり云々。旬の上に、句に魂の入らんには、の一旬を挿入して読むべし。

○不変の変。 不変の変はなお不易の易と云はんが如し。鄭玄易を論じて、易は、變易なり、不易なり、

といへり。俳諧者流、多く不易流行を論ず。不易・流行、いづれも易に本づける字面なり。

されどこゝには然まで深入りして解するを須ゐず。

○五徳。 舊解に、温良恭倹譲なりといへり。非也。温良恭倹譲は孔夫子の上のことなり、

こゝに関わらず。五行の徳をも五徳といゝ、五星の徳をも五徳といゝ、中央四方の徳を五徳といひ、

将軍の徳、玉の徳、鶏の徳、菖蒲の徳など、五徳といふことも多かれど、こゝには五常の徳、仁義鎧知

信、卸ち人の有するところのものを云へるなりともすべし。

されど俳諧の道を説きたる最も古き書、寛永十八年(1641)の斎藤徳元が「誹諧初學抄」に曰く。

されば誹諧には、連歌の徳のほかに五つ勝りたるたのしみ侍るとかや。

第一俗語を用ゐること。

第二は自讃し侍りてもをかしき事。

第三取あへす興を催すこと。

第四初心の輩學びやすくしで和歌の浦なみに心を寄せ特ること。

第五には集歌古事来歴分明ならざるとも一句にさへ興をなし侍らは何事をも広く引寄せて付特るべき事。

是五つの徳なり。とある其言によりてこゝに五徳とは云へるなるべし。

○彼西行上人の云々。 

其賞は不明なれども、世に西行上人の著と云傳へられたる「撰集抄」といふものあり。

其巻の四の十六に、骨にて人を作ることの條有り。(前略)、

人の骨を取集めて人に作りなす様、伝すべき人のおろ/\語侍りしかば、其如にして廣野に出て、

骨を編み連れて造りて侍れば、人の姿には似侍りしかども、色もあしく、全て心もなく侍りき。

聲はあれども管絃の聲の如し。げにも人は心有りでこそは聲はとにもかくにも位はるれ、

ただ聲の出づべきはかりごとばかりをしたれば、吹損じたる笛のごとし。

大かたは是程に侍るるも不思議なり。下略。

なお文の前後を其儘に伝受すれば、此事徳大寺殿より其の概略を聞知りて、西行みづから為せるものゝ

の如し。

故に彼西行上人のと、此序には書きけん。其の法、廣野に出て、人も見ぬ所にて、死人の骨を取集めて、

頭より手足の骨をたがへす績けおきて、ひざうといふ薬を骨に塗り、苺(いちご)とはこべ(繁縷)と

の葉を揉合せて後、藤の若葉の絲などにて骨をからげて水に度々洗い侍り頭とて髪の生すべき所には西

海技の葉とむくげ(槿)の葉とを灰に焼きて附侍りて土の上に疊をしきて、彼の骨を伏せておきて風も

すかずしたゝめて、二七日置きて後に其處に行きて沉(ちん)と香を焼きて、反魂の秘術をおこなひ侍

るなり。云云。

○猿に小簑を著せて。 

此集の巻頭芭蕉の句に、

初しぐれ猿も小蓑をほしげなり

とあり。其句を文にあやどりて、小蓑を著せてと面白く云取りたる也。

○反魂。 

反魂は魂をよび反すなり。されどこゝには魂を入るゝといふほどの意として用ゐたり。

○神。 

神もたましいの義なり。

○断腸。

爾雅翼に、猿善く啼く、啼くこと数聲なれば則も衆猿叫嘯騰擲して、相和するが如し、

其昔凄まじくじくして肝牌に入り、富商を含む。故に巴峡の諺に曰く、巴束の三峡巫峡長し、哀猿三馨

入の腸を断つ。

○あたに。 

濁らす。あたは、あゝ、あな、などいふに近し。あたいやらし、などのあたなり。

あなのな、剛轉して、だとなり、清轉して、たとなれる歟。ここは、あたおそろしき也。

に文字のやすめ詞を置きて、懼(くぐ)るべきと續けたるは、いさゝかおもしろからず。

○去来、凡兆のほしげなる云々。

ほしげの語、芭蕉の句中に見ゆ、この集の名に因みて巧に下したり。

 

狭蓑集 巻之一 冬

 

初しくれ猿も小蓑をほしけ也  芭 蕉

 

 集の巻の一に冬の句を出したる、おもしろし。

代々の和歌撰集には、春をこそ巻首には出したれ。それを古例にかゝはらずして、此頃の此句のふりを中心にして成りたる集のはじめに、初時雨をさっと降らせたる、いかにも俳諧の新味なり。

〇ほしげ也。

舊説に、定家卿の、

「篠ためて雀弓張るをのわらはひたひ鳥幅子のほしげなりけり」、

といふ歌に本づけりとなせり。されど此句は所謂「古歌取り」の句にはあらず。古歌取りの句といふは、後の人の句にて、「秋来ぬと目にさや豆のふとりかな」、といふやうなるを云ふなり。

ほしげなりといふ語は、いかにも古歌に見えたるべきも、そは背中に萬巻有れば、語を下すおのづから来歴無きは無きものなり。あなぐり論ずるはおもしろからず。

引きたる歌も定家卿のにはあらず、「夫木和歌抄」巻三十二に見えたる西行上人の歌なり。

 

あれ聞けと時雨来る夜の鐘の聲    其角

 

 舊解に、三井の鐘とは聞えたり、と有るがあり。三井寺の鐘の聲の此句を誘ひ発したりや否やは知らず、必ずしも此鐘を三井の鐘としてのみ取るべきにはあらず

 

時雨きや并ひかねたる魦舟      千 那

 

 并ひ=並び 魦=いささ

 魦は世俗通用の字にして、「いさゞ」と訓まするを其頃の習としたり。

いさゞは細小の義にして、此の魚の小さきより魦の字の常てらるゝにも至りたるなるべし。

いさゞは二類あり。一は海産にして、乾して「疊鰯」または「ちりめんざこ」と為すもの、一は淡水産にして、近江の琵琶湖、越前の足羽川等にあるものという。こゝのは江州和爾あたりにて多く取りて京都に売るものを指す。一名さのぼり、長さ一寸ばかり、「はぜ」に似て頭まろし。魦舟はいさざを漁する舟なり。其漁法を詳しく知らねど、蓋し舟を並べ細目の網を張りて獲るならむ。

作者千那は江州堅田浦本福寺の住職、此句は是湖上の情、眼前の景なるべし。

 

幾人か時雨かけぬく瀬田の橋    僧 丈艸

 

 「金葉和歌集」、幾人か比叡山颪しのぎ来て時雨にむかふ瀬田の長橋、この歌を鋳型にして、かけぬくと詞ひとつにて誹諧とせり、と何丸等は云へり。されど妄言なり。金葉集にはさる歌見えず、他の集に見えたるにせよ、歌の體もまた餘りにつたなし。鬼實の萬葉のたぐひにて、俳諧者流の古歌の談は、信じが狸きこと毎ゞなり。

 

鑓持の猶ふりに立るしくれかな  膳所 正秀

 

 鏡待奴の猶更に時雨の中に鏡板立つるとな6.人事に時雨の風情を看取し描破せる、鄙しかれどもおもしろし。

 

廣澤やひとりしくるゝ沼太郎   史  邦

 

 廣澤は山故国葛野郡嵯峨村の東に在る池なり。敦實親王の第二子僧寛朝之を造るとなり.

廣澤の名はあれど、さして大なるものにはあらず。ただ古き池にて、六百番歌合、経家の歌に、

くまもなく月すむ夜半は廣澤池も窓にぞひとつなりける、

とも詠まれ、ことに馨明に長けたる寛朝の如き人の舊跡とて、其幽寂閑嚝のおもむき、人の智に侵めるところなれば、今はすたれたるも却りて蕭散の情を惹くか紀無きにしもあらず。且は都近くして、人知らぬ僻阪にもあらねば、作者も憚りなく實に貼きて取出したるならむ。空想裏より廣澤といふ池を擇み来りたるにはあらじ。然るに近人廣澤の名にまどひて、太なる沼ゆゑに太郎の名を負はせて、山に安達太郎、川に坂東太郎などの如く、沼太郎と云へりと譯せるがあるよし。宜しからず。沼太郎即ち廣澤にては、一句何の興趣無し。沼太郎は鴻の一種なり。夏目髄斎曰く、江戸ひしくひ、一名沼太郎。小野蘭山曰く、一種エトクヒシクヒ、一名ヌマタロウ、サカボウ、太抵眞菱喰に同じくして、眼上に淡白條あり、背脚皆黒し。これにて沼太郎の鴻の一種なること疑ふべからす。蘭山曰く、北島湖澤に集まり、好みて菱實を喰ふ、故に菱喰と名づく、其形雁より大なりと。菱など多かるべき廣澤の古池に沼太郎のしぐれたる、いかにも自然の景なり。

鴻雁の類、禮節信智の四徳ありとさへ云はれ記る禽にて、婚禮に雁を用ゐるも、偶を失へば再び匹せざるを以てなりとの意を程明道も云はれたり。博物志には、雁は色蒼くして、鴻は色白しと云へり。其はおほまかの事ながら、色白きかたの沼太郎の廣澤の古池に、ひとりしぐれたる、まことに感多き佳き句なり。


墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ  十一、十返舎一九の碑  長峰光壽 氏著

2024年08月06日 09時31分30秒 | 文学さんぽ

墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ

 十一、十返舎一九の碑

 長峰光壽 氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

 

芭蕉雪見冡を以って世に知られて居る長命寺境内に十返舎一九の碑のある事は既に世に知られて居る。大正十二年の大震火災で避難民の置き捨てた荷物の火に煽られて非常に破損したので現在ではコンクリートで周回が包まれれて哀れを止めて居る。その時は高さ約四尺で下方に相変わらず熊手に○貞が書かれて其の上に次の様な文句が載せられてある。

   なへての人のいかに異なりとおむふことも

   常となりてはめつらし可良禰と

   い津とて母あかぬものは

   月の夜東米の飯さては

   色と酒なる遍し

  今年知合太平記六樹狂歌會一同

 

と書いて示した處両人も直ちに次の様な狂歌を詠んで示した。

 是までのだんまりの幕引返し

     気も帽屑のもとの棒組 具顔

 睦とひざよい中村のした桟敷

     二間続きの隔だになし 飯盛

 

 両将は浙く赤良の尽力によって和睦したけれども、赤良の歿後再び真顔は俳諧歌の鼓吹につとめ飯盛は落首体の狂歌を詠んで彼に反抗し、いがみあったが文政十一年五月眞顔に勧誘されて二篠家から両者が俳諧家宗匠の號を受けたので世間の識者に飯盛は真顔に降伏したのであると大いに嘲笑された。

 雅望は天保元年閏三月二十四日、享年七十八歳で歿し彼の愛弟子の葬られて居る正覺寺の子院哲相院に葬られ法號を、六樹園臺五老居士といった。

 

10、黒人塚

 

 白鬚神社境内の井戸の後側で用水を背にして高さ三尺・幅二尺・奥行九寸五分の安山岩の碑石が袴石をはいて立って居って、碑面には「黒人塚」と大書してある。左右並びに裏面にも色々の文句が彫り付けられている。向って右側の面には次の文句がある。

   天也生此人天也亡此人

   此人何人去崑崙倚一人

 向って左側の面には、

うつせみのうつつにしはしすみた川

     渡りそめつるゆめのうきはし

裏面には

   姓北島名玄二號黒人其先出

   於源氏也寛政十二年庚申春

  内損か腎虚と和れはねかふな利     

 そは百年も牛延しうへ 十返舎一九

  (碑陰)

維持天保三歳

壬辰首夏上浣

應需 憲齎(印)

五返舎半九

東寧舎一河

早春亭一毒

金鈴者一寶

丹仙舎一酒

柳詩葊季雁

三亭 春馬

十返舎一九

真砂亭珠交

稲廼屋穂女

福輪亭白銅

 

この碑は一九が死んだ翌年一周忌を機として、二世十返舎一九即ち十字亭三九始め門人どもが当時の名筆憲斎に代筆を乞い建てたのであるが、この詞書の一句は実宜によく彼の一生を言い盡したものである。     

  「月の夜と米の飯さては色と酒なるべし」を簡単に追想して見よう。

 一九は通り油町に住居して重田真一と名のって居って膝栗毛の作者として世に名高い人であるが、始めは可成家が富んで居ったが、若い吽分から廓通いを始め三百六十五日の大半は廓の中で暮し著述の原稿を作るのも郭で書いたという位であるから、廓中で彼の遊ばない樓もなく、得意でない娼もないといふわけであったので、一九の如き売れっ子が馴染の敵娼であると自然に他の客人を招く妨となるというわけで、遂には蔦の唐丸が添判をして今後は一際大門を入らないという証文を廓へ差出す事の止むを得ざる事となったという話である。

 この様な彼の日常生活であったから、遂に家産を傾け着るものもなく、米も無いといふ有様となったけれども酒だけは決して絶したる事なく、収入あらば直ちに全部を酒に替えてしまい、壁を白い紙で張り箪笥、床の間、違棚、花生けまでも書いて置いたから、遠くから見れば裕福の暮しをして居る様に見へ、甚しきに至っては盆近くなった時に閼伽棚を作るにも物がないので掬、前と同じ様にこれを書いて壁に張り旦に麺を書いて張り、夕には団子を供へるのだとして、また団子の畫を書いて張り替へた。

また歳の暮になれば大きな墨に三尺余りの鏡餅を書いて壁に張って置き、大晦日になれば掛乞がうるさいといって外に飛び出して友人の家を飲み歩いて居ったといふ事である。

私が前に「常となりてはめづらしからねといつとてもあかぬものは月の夜と米の飯さては色と酒なるべし」の詞書を評して一九の自叙傳であるといったのも無理ではないであらう。

 

十二、櫻樹奉献碑

 

長命寺の西隣りは本所總鎮守牛島神社一千餘年来の舊地であって弘福寺との境橋の橋下の碍の額の様な地面に移されて しまったといふ事は向島に住む我々は勿には祭紳の古墳であると言い傳惇へられて居るものすらあるのであるが、大正十二年九月二日の大震災の結果隅田川沿岸の史蹟名勝地保存の意味に於いて設立された隅田公園工事に際し公園計重に支障ありとの復興局の土百姓役人の為に一千餘年の光輝ある歴史有る当社を遂に隅田公園の一部である舊水戸邸の一隅言問橋の橋下の猫の額の様な場所に移されてしまったと云う事は向島に住む我々は勿論都市美を尊ぶ市民一同挙げて嘆いたものである。           この牛島神社、一名牛の御前の舊地には、談洲楼焉馬の

   いそがずばぬれましものを夕立の

     跡よりはるゝ堪思のにし

 の碑を始め六樹園飯盛、式亭三馬、徳亭三考、朝寝坊夢羅久、談洲楼焉馬等が文化八年三月牛の御前に櫻を五株奉納した面白い記念碑等があったのであるが、現在牛の御前が移転されてからは本社築中のために立てる所がないので焉馬の狂歌碑は雑碑の下積みとなり、櫻樹奉献碑は仮社前石牛に心なく立て掛けられてある。櫻樹奉献の碑は安政の地震の際に上部に横書きされてあった「奉献櫻樹五株」の五字が既に破損紛失したが三馬の式亭雑記を見るとこの碑並びに焉馬狂歌碑の沿革及び其の見取圖が載せられてあるからそれを参考に引用して見よう。

 文化八年閏二月二十七日から本所牛の御前木地大日如来の開帳があって奉納物も多数あり参拝者が群集した。よって談洲楼焉馬老人が催主となって櫻樹五株を門前右側に奉納して植えたがそれを記念する為に碑を建てる事になり、碑面に三馬が筆を執った。即ち「奉献櫻樹五株」は横書きとして金字とし其の下に一列に六樹園飯盛式亭三馬、三馬門人徳亭、三考朝寝坊夢羅久、談洲楼焉馬と楷書で書いて朱字とし裏には「文化八年辛未三月造之」と刻みっけ一人分入費が金三分二朱懸かったといふ事である。

 これより前に牛の御前は焉馬の菩提所であるという関係から焉馬老人は狂歌の碑を、門を入って右側大樹の下に建てたが今回の記念碑も其の関係から其の狂歌碑の左側に建てる事になったのであると書いてある。             

 焉馬は本所相生町の大工の棟梁であって店では足袋屋をして居た。姓は中村、名は英祝通称泉屋和助と云った。狂名「のみてうなごんすみかね」立川談洲楼と云い、烏亭と呼ぶ。別号 桃栗山人柿発齎といった。五代目市川團十郎を贔屓にして義兄弟の契を結んでから談洲楼と號した。彼は既に世に捨てられた落語の中興を志し天明四年 四月二十五日柳橋の河内屋星で寶合という好事家の會合があった時其の席上で始めて二三の落語を講じたところ來會者一同は其の趣好を賞讃したので天明六年四月十一日向島の武蔵屋

三郎方に落語の會か開いた。其の時のちらし蜀山人の作で「むかふ島の武蔵屋に噺の會が権三ります」

といふ文であったが、これが大評判となった。それから度々噺の會を各所に開いたが、寛政度の改革によって寛政九年十月北町奉行小田切土佐守から噺の分禁止の限命が下って一時は頓挫しれけれども、よりより秘密に会合して打ち興じて居た。處が文政元年二月に至り、制限付きで禁令が解除されたから文政三年正月二十八日、彼が一世一代の落語會を龜戸の藤屋で開いた時には来會者が雑踏して始末がつかなかったという事である。

文政五年六月二日、歳八十で歿した、平生彼は請方面に交際を廣くして居ったので、弔客は門前に市を成して其の盛大なる葬儀は満都の人目を驚かし牛の御前の別當寺であった本所表町牛寶山最勝寺に葬られ、法號は「三楽院壽指焉馬」といった。式亭三馬は菊地泰輔といったが通称は太助といった。彼の父は八丈島の為朝大明神の祠官菊地壹岐守であるといい、壹岐守の妾の子が父であるとも言はれて居る。

。安永四年浅草田原町に生れて、文政五年閏正月六日、四十八歳で歿し深川霊光院に葬られた。

 彼の號は本町庵、遊戯堂、洒落斎、哆曜哩樓、四季山人、遊戯道人、戯作者滑稽堂等の数號があって本町二丁目に住み、し家製の薬を鬻(ひさ)いで居った。

 兎に角書畫会の席で畫の讃を求められた時に直ちにざれ歌を按出して書き與える事の出来る常時の狂歌師としては三馬と彼の親友の焉馬との両人に並ぶものはなかったいう事である。

 

一三、朱巣楽菅江辞世塚

 

三圍神社本殿西側に車應の碑と並んで立って居る自然石の碑がある。これは今述べようとする朱楽菅江の辞世塚である。表面は

               朱楽菅江

    執着の心や娑婆にのこる羅む

       よし野の櫻さらし那の月

とある。

 彼は市ケ谷廿騎町に住んで居た御先手與力である。もと内山先生に学んで本歌を詠んだ人で始めの名を景基といったが、字を菅江の上に加える様になったのは自宅で醪(もろみ)酒を飲んだ時、戯れに行燈の紙に「われのみひとりあけら菅江」と書いたのに出発して居る。

 菅江は和歌・狂歌・俳句のみならず、川柳點の前句附を好んで試みたので、牛込蓬莱連の頭梁となったし、また橘洲赤良と同様に内山赤良と同様に内山賀邨の門弟であったので両人の勧誘によって安永初年から狂歌を詠み始め忽ち一方の旗頭となり「の一連」といふ団体を組織した。

 碑文の裏面には

「先生 姓山崎貫字道甫朱楽菅江其號也 生于元文戌午十月二十四日終

干寛政戌午(十年)十二月十二日葬于青山青原寺」

とあって法號は「運淫光院泰安道父居士」。

死に臨んで辞世を自書して遺したが、それがこの時に彫られたのである。

 彼の妻女は小宮山氏の娘で狂名を「節松嫁ゝ(かゝ)と云い、狂歌三才女の随一と世に称されて、夫の菅江にも劣らぬ程の秀逸を多く遺した。十六の年、菅江に嫁いで

 君ならで誰にか見せん?????

?のむくむくと生えしところを

と詠んだという逸話がある。

 

一四、裏住辞世塚

 

 神社社務所玄関に向って右側に立てられてあり、碑面には次の文句が彫り付けられている。

辞世   萩の屋裏住

楠のつよきも老のたのまれ壽 

  くちての後は石となるもの 

非農非商隠市求志賤驕王侯受忘

 天地夕寓婬坊朝飲酒肆放言涯影 

 舞木弄戯滑稽之雄千古無二

            杏花園題

 彼の傳記は碑陰に蜀山人が書いてあるから、傳記の中で一番正確なものと認め、次に掲げて置く。

 萩の屋翁は久須美氏にして白子屋孫左衛門と称す。其先久須美親衛祐永勢州にゆきて国司北畠家に奉仕し、南伊十餘世の孫長隆の時北畠家減びしかば長隆白子村に隠る、

その子重長孫左衛門といふ者白子屋貞三の家を継ぎ、駿府にいたり賈人(あきないにん)となりはじめて江戸に来り、萬治二年七月二十五日に終る、是翁の先組なり、翁はやくより狂歌をこのみ卜柳の門に入り大奈権厚起と将す、後、窓雪沈大屋裏住、と改め四方の門下となる寛政九年十月剃髪して上京し京極黄門御遠忌の狂歌を詠む、ある縉紳家この歌を将美したまい、萩廼屋の號を賜う、また偃師舞木の戯を弄ぶ、世に所謂のろま人形なり、享保十九年甲寅に生れて文化七年庚午五月十一日に死す、歳七十七なり江戸深川法禅寺に葬る余翁を知る事三十餘年ことし其門人の乞うにまかせて其行状を記す事しかり。

              杏花園

 

 裏住は俳諧を好んで號を勢賀と呼んだ。又ト柳について始めた狂歌は一寸問題があって廃詠する事二十餘年に及んだが、明和の頃から江戸風の狂歌が勃興したので元の木阿弥と共に其の群に入り、後に四方赤良に隨って「大屋裏住」と改めた。この改胱をした事に肘いでは次の様な意味合があった。即ち彼は野呂松人を使ふ名人で鷺某の門弟となって狂言師ともなった。その頃同門の中井嘉右衛門という人に狂歌を詠むことを奨めて戯名を「腹唐秋人」と付けたが、この人の斡旋により、本町一二丁目の横通り金吹町の裏

屋に転居して大家になったので「大屋裏住」の號を付けるに至ったのである。一日その裏屋の棚板に頭をひどく打ちつけて

我宿はたとへのふじの火打箱

    かまちでうちて目から火が出る

 という狂歌を詠んだ。

 

十五 鳥兼の碑

 

 本社西横に菅江の碑に並んで鳥兼の碑が立てられてある。

    萩廼家鳥兼

  いまは唯

    宇き世に

      あきの山すまひ

   先さし阿堂累

       月そ友なる

  (碑陰) 文政十丁亥歳九月 社中建之

            畫齊松平盛義書

 この人は本町の裏住の近所に住んで居て、裏住の弟子となり遂には本町側判者として多くの門弟を擁して居た。裏住の死後萩の屋を継いで二世萩の屋となった。

 

十六、百多樓槍團子辞世塚

 

本社東横側に立てられてあって碑の上部に桃の畫があり其の下に次の様な辞世が彫り付けられでいる。

    けふは身の千秋楽よ

     先の世の席へ

      行には延さへ

          なし 百多樓團子

(碑陰)交政丁亥九月廿二日

 

百多樓團子は通称茂吉郎と云い、神田に住居して落語家で、狂歌をよくした。別號は「子遊庵」と云い文政十年九月二十二日年六十二で歿。即ちこの辞世は終焉に先だって絶筆されたものである。

 

十七、天明老人月塚

 

 本社東白狐祠の前にみる詩であって碑面は松平董斎が代書して居る。

 

      天明老人

        晝語樓内匠

むさし野の月は

     昔に加はら家の

       可良艸を出亭

         唐草に入る

             畫齊正書

(裏面) 

  語史安有恆 勇々館道章 花垣眞吹

  語吉窓喜樽 椙之門笹好 五葉亭實烏

  稲之舎實則 木芽舎好香 文語樓梅實

稲垣秋吉  語一堂由隆 松梅亭槇住

  七寶亭特利 一笑亭喜楽 呉龍軒那蔵

  有信亭友成 文省堂尚丸 辰気樓千往

松春亭門芳 唐崎亭松風 靜海樓豊風

青柳園綾糸 狂畫堂椿月

   催 幹

  出久之坊画庵 神楽堂外道 夜職庵歌多丸

寶鮮亭魚海 語同堂春道

元治元年申子秋八月  董仙宗害

 

黄表紙は宝暦末年から起って文化初年に終って居るが、江戸風狂歌も殆んど黄表紙と同一経路を辿った。しかし黄表紙よりは少しは生命が長く文化から文政にかけて著名の狂歌師が前後して死亡してから暫く狂歌の風調が変化し初めて新に文政調といふ狂歌が行われ、一時隆盛であった江戸風狂歌は遂に凋落したのである。彼は一名下手内匠と云い、初め近亭三盡樓と號して、本田甚五郎と通称した、天明老人の狂歌道場で行った狂歌は天明寛政の頃の江戸風狂歌とは似ても似つかぬものであったとはいえ、この天明老人は江戸風狂歌師の最後の一人であったといふ事は狂歌を研究する者にとって赤良橘洲眞顔などと同様に取扱はなくてはならぬものであろうと思う。

 彼は文久元年五月十四日八十一歳を以て歿し浅草新堀酉福猫寺に葬られた。

 未だ向島には有名は狂歌師の世に隠れたる碑が多く残されて居るが、この原稿を纒めるために数日間食事する時間も惜しみ寝る時間も倹約して苦しんだので、非常に疲労を覚えた上に葉人編輯長より電話で急がれたから今回はこれで止めて残りは次回に譲り度いと思う。 (未完)