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芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

2024年08月12日 19時51分42秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

 その頃は談林の全盛時代で、芭蕉も桃青の号を用いて宗因一派の俳席にも出た。

延宝時代(三十歳~三十七歳)の発句は八十句足らず残されているが、大凡談林調になっている。

   見るに我も折れるばかりぞ女郎花  (績建珠)

   猫のつま広の崩れよと巡ひけり   (六百番歌合)

   あウ何と屯なやきのふは過ぎて河豚汁(江戸三吟) 河豚汁=ふぐとじる

貞門の得意とした語戯れを離れて、内容上の奇抜な可笑し味を求めたのである。

芭蕉はこゝで俳諧本来の特質である通俗性を十分に拡充し、時代の俳人として立場をはっきり打ち出したのである。然し彼は談林の安易な通俗性に満足したわけではなかった。その中には手法は談林的であっても、しみ/\゛とした寂寥の漂っているものが見られる。老荘の寓言めいた句も少しずつ現れているし、後世の芭蕉を思わせるような閑寂味の句も僅かではあるが試みられている。

例えば「東日記」を見ると、

   愚にくらく棘(いばら)をつかむ螢かな

枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮

夜密かに竊(ひそ)かに虫は月下の栗を穿つ

     富家喰肌肉丈夫喫ス菜根予乏し

雪の朝ひとり干鮭(からざけ)を噛み得たり

 

延宝時代に、芭蕉は、

「十八番発句合」(延宝六年跋)

「田舎の句合」 (延宝八年板)

「常盤屋の句合」(延宝八年板)

などの判詞を書いている。それを見ると、「貝おほひ」の場合とは違って、中古風の雅文を用い、老荘、列子、山海経などが引用されている。その頃芭蕉は蘇東坡・杜子美・黄山谷の詩集を愛読していたようで、このように漢籍に興味をもったことが、談林風から離れる一つの切掛けなったのである。幽玄といふ事が重んぜられたようであるが、その幽玄というのは、一見意味が不明で、謎のような

思想を掊屈な言い回しで表現するのが、幽玄体と考えられたのである。

「常盤屋の句合」の芭蕉の跋文を見ると、

「句々たをやかに作新しく、見るに幽なり、思ふに玄也。是を今の風体といはんか」

と賞めているが、彼が勝句としてあげた句は

「茶僧月を見るに梅干の影のごとくに來り」

「だいくを蜜柑と金柑と笑て曰」

というような、寓言めいた謎のような句が多い。こういう幽玄体の句は天和時代に入っても盛んであったのである。

 

三 芭蕉が芭蕉らしくなったのは、

 

芭蕉庵に入庵してからである。入庵当時の俳諧には、尚延宝時代の名残があった。

「俳諧次韻」(天和元年 1681)から芭煎の句を引き出して見ると、

「白キ親仁紅葉村に送婿ヲ」

「禅小僧豆腐に月の詩刻む」

というような漢語調の謎のような句が少くない。

天和時代(三十八歳~四十歳)は芭蕉の寓言時代である。

老荘や禅の思想を殊更ら尊重するといふ風があった。談林調には満足できないで、新風を開こうとするともがきが明かに看取される。藷術上の苦悶時代であった。

 天和二年(1682)三月に「武蔵曲 むさしぶり」が出、翌年五月には、[虚栗 みなしぐり]が出たが、この二書は「次韻」とともに、延宝の談林から、貞享以後の蕉風に移る過渡期を代表する作品であった。新風を開こうとする芭蕉一派の歩みが、漸く顕著著になってきたのである。「武蔵曲」

屯「虚栗」も大体同じ調子で、表現は掊屈でぎこちなく、何か寓意めいた内容をもっている。談林の滑稽の行き詰りを感じた人々が、新たな歌意を出そうとする苦悶の現れとも見られ、悲鳴のように聞える。然しこういう苦悶は蕉風をきり開く上によい結果を資した。穏健平板な調子で始まると、安易に流れ卑俗になり易い。桔屈難渋な表現も、蕉風を大成する上には、当然踏まねばならぬ径路であった。然し乱雑といっても、談林の場合とは大分趣を異にしている。わざと異様な表現をして人を驚かそうというのではない。内にあるものをいかに表現すべきかといふ苦悶の現れであった。そしてぎこちない表現の中にも、穏健平明な句が既に現れているのである。

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  (武蔵曲) 盥=たらい

   櫓の卑波をうつて腸氷る夜やなみだ (同)

   朝顔に我は飯食ふ男かな      (虚栗)

   髭風を吠いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ (同)

   世にふるもさらに宗祗のやどりかな (同)

 

四 天和二年~

 

 天和二年(1682)冬芭蕉庵が火災に遇ってから、一方では無住所の心をおこし、他方では西行や宗祗の先蹤を踏もうという気持が起きていた。

そして貞享元年(1684)秋八月には、門千里とともに関西旅行に出た。その紀行文が「甲子吟行」(野ざらし紀行)であって、その出発に際して、芭蕉はこのような句を詠んだ。

   野ざらしを心に風のしむ身裁(甲子吟行)

彼は悲壮な思いをいだいて旅に出た。この旅の間に、どうしても貞門・談林から離れ、俳諧の新風を樹立しなければならぬ、死を賭しても俳諧の実体をつかまなければならないという強い覚悟があった。その決意が旅の門出にあたって、このような悲壮な句を産みみ出したのである。

 甲子吟行の句にも、

「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

  「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

のやうな、字余りのぎこちない調子がまだ残っている。然し次の句などには既に完成された蕉風の姿が見られる。

   蔦植ゑて竹四五本のあらしかな

   秋風や薮も畑も不破の關

   海暮れて鴨の聲ほのかに白し

  春なれや名もなき山の朝霞

   山路来て何やらゆかしすみれ草

 

悲壮の決意を以て門出をした旅の成果は、こゝに十分に現れたのである。これ等の句は貞門や談林でもなく、漢語調や漢詩趣味のものでも恚ない。

目に触れ心に感じた情景を、そのまゝ素直に表現しているのである。

 「甲子吟行」の句も、貞享元年と貞享二年では大分違っている。

元年の句には桔屈な険しい感じがあるが、二年になると大分句境が落着いている。旅が芭蕉を大きく育てたのである。一方では若い頃出奔した故郷を訪れて、心に潤いを與えられたということもあろう。それよりも最も大きな理由は、尾張の俳人達と[冬の日]の歌仙五巻を巻いて、俳諧の道に新しい希望を見出したという安心があったためではないか。

 「冬の日」は七部集の第一に数えられる書である。貞享元年冬の作であるために、趣向が勝っていて、しみ/\゛とした閑寂味に乏しいうらみはある。表現は力強く、派手ではあるが、その境地は庇に蕉風のものになっている。「甲子吟行」と「冬の日」によって、蕉風は先づ確立したと見てよいのである。

 貞享三年には、やはり尾張蕉門の手によって「春の日」(貞享三年八月刊)が刊行された。その中に、

  古池や蛙飛びこむ水の音

の句が収められている。この句は「古池や蛙飛だる水の音」の形で、すでに「庵櫻」にはいっていて、恐らくこれが初案である。

 「飛だる」には天和の響きがある。句調にはずみがあり、興に乗って表現しようとする態度が見られる。「飛びこむ」と改めたことによって、そこに著しい句境の進化が示されたのである。勿論其角の進言のように、[古池や]を「山吹や」に替えては、ただ傍観的な句になってしまう。この句は単なる寫生の句ではなく、叙景の句でもない。古池にひろがる閑寂の餘響を、しみ/\゛と味わおうとした句である。古池は心の田地ともいえるだろう。明鏡止水の心裡に灯された刹那の音に、永遠の閑寂の姿を追ひ求めた句である。

 兎も角「春の日」になると、詩句も屯連句も談林調から抜け出ている。「冬の日」にはぎごちない調子があり、感情も強く張り出ているが、それに比べると、「春の日」はいかにもおだやかで、のび/\としている。なお貞享三年(1686)には「初懐紙」が出ている。貞享四年八月には鹿島に旅行して、「鹿島紀行」の作を残した。

 

五  貞享四年十月(四十四歳)、芭蕉は「笈の小文」の旅に。

 

その門出にかういふ句をよんでいる。

旅人と我が名呼ばれん初時雨

この句と「野ざらし紀行」の門出の句

野ざらしを心に風のしむ身かな

と比べて見ると、心境が大分違っている。自己を客観視して、それを喜ぶ風情が見られる。旅に勇み立つ浮かれた気持が見られる。野ざらしの旅に出る時には、まだ確乎不動の信念ができていなかった。かすかな曙光は見えていたが、しっかりと體得されたものではなかった。今度の旅では、彼は既に風雅道に十分の信念を持っていた。野ざらしの旅に於ける自然との接触や、草庵の閑寂な生活を通して、自分の姿すら客親し得るようなゆとりができていたのである。

 

 「百骸九竅の中に物有り、かりに名付けて風羅坊といふ」といふ文章ではじまるこの紀行の冒頭の一節は、芭蕉の俳諧に対する根本観念を力強く表現したものである。風雅道を確立するまでの様々の心の苦悩を述べ、次に和歌・連歌・繪畫・茶道を貫く精神が同一であることを力説し、更に風雅に於ては、息意私情を去り、夷狄鳥獣の心を克服して、造化に随い造化に帰るべきことを説いたのである。そういう心境から眺めると、どういう卑俗卑近なものからも、芸術美は感得されるといふのである。「笈の小文」には、そういう髄順の心境を述べた句が多く見られる。

 

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

春立ちてまだ九日の野山かな

草臥れて宿かる頃や酋の花

ほろほろと山吹散るか滝の音

 

芭蕉は実践の人であって、理論家ではなかった。あくまで実践によって俳諧の神髄をつかみ取ろうとした。風雅感を徹底させるためには、更に大きな旅の計画をしなければならなかった。その頃は既に芭蕉の俳壇に於ける地位は固まっていた。然し彼は世間的な聲望に満足する気にはなれなかった。安易な道をさけて、険難な道を選ぼうとするのも、藝術に生きる者に取っては宿命的な悲劇であった。  このようにして芭蕉は元禄二年(1689)三月、江戸を出発して、「奥の細道」の旅に上った。同年九月のはじめ大垣に入るまで、日數百五十日、旅程六百里に及ぶ大旅行が、芭蕉の藝術を深め育てる上に大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

「閑さや岩にしみ入る蝉の腸」

「荒海や佐渡によこたふ天の川」

などの敷々の秀吟を残したのである。

 元禄三年(1690)の春は琵琶湖のほとりで迎へ、四月には石山の奥なる幻住庵に入り、こゝで「幻住庵の記」を草した。元禄四年の四月には去来の別墅落柿舎に入り、「嵯峨日記」を書いた。その頃去来・凡兆の手によって、「猿蓑」撰集の計画が勧められた。「猿蓑」は蕉風俳諧の円熟期を代表する撰集である。芭蕉俳諧の根本理念ともいうべき、さび・しをり・細みが、その完成された姿で示されているのである。発句

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」

から鮭名空也の痩も寒の中」

などの佳吟が多く収められている。

 元禄四年十一月の朔日に、「奥の細道」の旅に出てから三年ぶりで江戸に戻った。

   ともかくもならでや雪の枯尾花 (北の山)

 

長い旅を終わって江戸に辿り着いた感懐を雪中の枯尾花に託した句である。

元禄五年五月には新庵が成って、そこへ移つたが、その生活にも様々な煩はしいことがあった。そこで彼はその年の秋(元禄五年説と六年説とがある。)「閉關の辞」を雪いて、外部との交渉を絶とうとした。その頃芭蕉庵の内部には複雑な事情があった。壽貞・桃印・まさ・おふうなどがその庵に同居して居たようである。それに俳諧の方面で名、いろ/\芭蕉を悩ます問題がおこっていた。「わび」「さび」の話術は必ずしも名門人どもに深く理解されてはいなかった。その晩年の文章や発句から、俳諧に失望したかのような口吻さへ感ぜられるのである。芭蕉の閉關には、このような複雑な心境が動いていたのである。

 然し結局、芭蕉は完全に門戸を閉じることはできなかった。門人の出入が絶えず、その間に「深川集」が成り、「炭俵」撰集の計画が進められた。芭蕉晩年の「軽み」は、この「深川集」や「炭俵」、「別座敷」(元禄七年板)や「続猿蓑」(元禄十一年板)によって窺われる。これ等の集には、淡白な客観趣味を喜ぶ傾向が現れて居り、意味もわかり易く、附方名平易になっている。

変化や緩急に乏しく、一體に調子が低い。これは元禄五年六年の内省生活から生れたもので、芭蕉としては極自然な歩みであった。「閉關の辞」を書いて門を閉じても、世俗から遁れることはできない。それで俗中におって俗を去るべき一段の工夫が必要と

された。そういう反省から生れたのが軽みの俳諧であるといえるであろう。

 芭蕉は、今度は珍らしく三年近く江戸にとどまっていたけれども、無所住無所着の決意がにぶったわけではなかった。宗祗や西行の系譜に従って、旅に生き旅に死のうという願いは衰えなかった。風雅道のためには現実的な、ほだしもたち切らなければならないと思っていた。

そして元禄七年夏には西国行脚を思い立ち、今度は遠く筑紫の果までも見極めようとしたのである。

 人々は品川まで見送って別離を惜しんだが芭蕉も、もう五十一歳で、ふだん頑健でもない身体は既に衰えを見せていた。再び生きて江戸に戻ろうとは思っていなかった。人々から句を乞われるまゝに、

   麦の穂を力にたのむ別れかな (陸奥衛)

といふ別離の句をよんだ。再會計り難い旅である。芭蕉の胸にも流石に別離の情がこみあげて来て、姿の程をたよりにつかむばかりであった。

 尾張を経て五月の末には故郷の伊賀に着いた。暫くそこに滞留して、それから京都・湖南に遊び、去来・丈草・木節・惟然・支考などと風交を重ねた。

その頃芭蕉庵に病を養っていた壽貞の訃報に接し、

数ならぬ身とか思ひそ魂祭 (有磯海)

という句をよんだ。七月には再び伊賀に帰り、兄半左衛門が彼のために新築した無名庵に二ケ月ほど滞在した。九月のはじめに伊賀を立って奈良に向い、九日のタ方大阪の西堂の家に着いた。大阪でもあちこちの俳席に招かれたりしたが、気分がすぐれなかった。

九月二十九日の夜から泄痢にかゝり、病勢は日増しに進んでいった。

十月五日には花屋仁右衛門の裏の貸座敷に病床を移したが、

十日の暮から病状は悪化して、十二日の申の刻に永遠の眠りりについたのである。

  秋近き心の寄るや四疊半   (鳥の逍)

  菊の香や奈良には古き俤たち (笈日記)

  此の這や行く人なしに秋の暮 (同)

  此の秋は何で年よる雲に鳥  (同)

  秋深き隣は何をする人ぞ   (同)

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(同)

 

これ等の句には芭蕉終焉の年の心境がしみ/\゛と託せられている。殊に「旅に病んで」の句は、風雅に痩せ、旅に痩せた芭蕉の最後の吟として、深い感慨を覚えさせるのである。


芭蕉『貝おほひ』寛文十二年正月廿五日 伊賀上野松尾氏 宗房 釣月軒にしてみづから序す   松尾氏宗房撰

2024年08月12日 10時29分03秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉 『貝おほひ』 寛文一二年 

小六ついたる竹の杖ふしぶし多き小歌にすがり、
あるははやり言葉のひとくせあるを種として、
いひ捨られし句どもをあつめ、右と左にわかちて、
つれふしにうたはしめ、其のかたはらにみづからは、
みぢかき筆の辛気ばらしに、清濁高下を記して、
三十番の登発句を思ひ太刀、
折紙の式作法もあるべけれど、
我まゝ気まゝに書ちらしたれば、
世に披露せんとにはあらず。
名を『貝おほひ』といふめるは。
合せて勝負を見るものなれは也。
又神楽の発句を巻軸に置ぬるは、
歌にやはらぐ神心といへば、
小うたにも予が心ざす所の誠を
てらし見給ふらん事をあふぎて、
當所あまみつおほん神の
みやしろのたむけぐさとなしぬ

寛文十二年正月廿五日
伊賀上野松尾氏 宗房
釣月軒にしてみづから序す
  松尾氏宗房撰

一 番
左  勝
にほひある色や伽羅ぶしうたひ初   三木

春の歌やふとく出申すうたひぞめ   義正

 左の句は匂ひも高き伽羅ぶしの、
うどんけよりもめづらかに覚侍る。
右も又春の歌はふとく大きにと云ふより
まことに大昔のほどもしられ侍れども、
一聲二ふしともいへば猶、
匂ひある聲に心ときめき侍りて、仍左を爲勝

二 番
左  勝
紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ   此男子

見分に梅をたのむや児ざくら     蛇足

 左の赤いこんぶくろは、
大阪にはやる丸の菅笠と、
うたふ小歌なればなるべし。
右梅を兄分にたのむ児桜は、
尤たのもしき気ざしにて侍れども、
打まかせては梅の発句と聞えず、
児桜発句と聞こえ侍るは、
今こそあれ、われも昔は衆道ずきのひが耳にや。
とかく左のこん袋は、
趣向もよき分別袋と見えたれば、
右の衆道のうはき沙汰は、
先思ひとまりて左を以為勝

三 番
左 なく聲やけに伽羅のはし匂ひ鳥    露節
右  勝
 薮にすむうぐひすのうたやお竹ぶし   哉也

 左、伽羅の橋をかきょいのとあるを、
匂ひ鳥のはしに取なされたるは、
げによくさへづられたる口ばしなれども、
右のおたけぶし藪にすむといふより、
言葉の茂りも深く、いくふしも籠りて、
是も百姓の納米のくだけたる所もなく、
上々蟲いらずとかや申侍らん

四 番
左 さかる猫は気の毒たんとまたゝびや  信乗母
右  勝   
  妻戀のおもひや猫のらうさいけ    和正

 猫にまたゝびを取つけられたる左の句、
法珍らしきふしを見出られたるは、
言葉の花がつをともいふべけれども、
きのどくと云言葉、
さのみいらぬ事なれば少し難、
これ有てきのどくに侍る
 右、また猫のらうさいと云小歌を、
つま戀に取合されたるは、
よい作にやきんにやうにや。
かの柏木のいにしへねうねうとなきし、
わすれがたみ叉源氏の宮を、
木丁のすき垣に見しも、
いづれも猫の引綱の思ひ捨がたけれど、
右の句さしたる難もなければ為勝

五 番
左 持
牛馬の糞ふみわけて雪間かな     貞好

消残る雪間や諸足ふんこんだ     一友

左の句、雪間をふみわけしつめたさは、
うきうきどつこい、
うき世に住めばうさこそまされと、
うたふはしかあるべし。
太山(みやま)かけ道へ引き出されたる
牛馬の糞のふんこつげに珍重に覚え侍る。
 
右の句、雪にもろあしまでふみ込んだるは、
草履のうらもたまゐまじく、
足もとしらすの鹿相ものと見え侍れども、
一足とんだら作意もをかしく、
また雪に立しためしもなきにあらねば、
持とさだめぬ。

六 番
左 勝
  きやん伽羅の香ににほへかし犬桜   正之
右                                                                                                  
  見にゆかんとつと山家のやまざくら  意見

 左の句、伽羅の香に句へとは、
一句もやさしく、
手ざはりもむくむくと
むく犬の尾もしろき作意なるに、
右の句さのみ言葉のたくみも見えず、
とつと山家のいよ古狸とうたふ小歌なれば、
秀逸物の犬楼に狸は喰ひふせられ侍らん

七 番
左 持
たぐりよせんから糸ならばいと桜   簾尼
右       
  春風になれそなられそ江戸楼     信乗母
 
唐糸の句は、
長太郎ぶしと聞えよくいひかなへられて、
此世のものとも覚えぬは。
から糸なればなるべし
 右、またこむろぶしの江戸衆になれそといふを、
春風になれそと作り立られしは、
花を惜む心ふかくいづれも捨がたく特に定侍りき

八 番
左  勝
うたへるや晩鐘寺ぶしの暮の花    鋤道

 種ならばまかせておけろ花ばたけ   指盞子

左は山寺の春の夕暮も思ひ出られ、
晩鐘寺の花の作意げにおよびなき所なり。
 右の句、花の種をまかせが定なら、
といてロ説てかたりて聞せ侍らん種を、
まかるゝと優に聞ゆれど、
浮世五十年一寸もまだのびぬ、
花の枝咲きまでの間遠なれば、
先づ目の前の晩鐘寺の、
けふの花見こそたふとけれ仍左を爲勝

九 番
左 勝
鎌できる音やちよいちょい花の技   露節
 右
きても見よ甚べが羽折花ごろも    宗房(芭蕉)

 左、花の枝ちょいちょいとほめたる作意は、
誠に誹諧の親々ともいはまほしきに、
右の甚兵衛が羽折はきて見て、
我おりやと云心なれど、
一句の仕立もわろく染出す
こと葉の色もよろしからず
みゆるは愚意の手づゝとも申べし。
其上左の鎌のはがねも堅さうなれば、
甚べがあたまもあぶなくてまけに定侍りき

十 番
左 持
啼さわげにほんつゝみの無常鳥    政定

ゆかしきや山の尾常はなきやらもの  和久

 左は、
日本堤の無常の畑も立のびたる句の姿は、
子規のとりなりもよく見え侍るに
 右の句は、
窓なきさうなおつねの顔も、
ずんといやな気なれども、
左にひつびけうんのめと、
うたふ小歌なれば、
お常のしやくも捨がたくて、
 いづれのかちまけをも
えさだめ侍らぬはこゝろき判者なめり。

十一番
左 勝
  郭公谷から峯からこんゑをせい    吉之

鶯の玉子じやとおしやるかほとゝぎす 一意 
 
左は木鑓の音頭と聞えて、
くどく言葉の中のつな扨も
見事によう揃うた。
右の句、鶯のかひこの中の郭公と
云心をふくみ脈のふしをあらせて、
賢者に見すれば玉子じゃとおしゃるといふ
小歌をかり加へられ侍る。
伊勢のおたまが事に出れば、
玉の句といはんに、
難なかるべけれど、
左の谷から峯から
こゝはちつくりこざかしくいひ出されし
大持に心はひかれ侍り

十二番
左 勝
小六方の木さしや菖蒲かたなの身   義子
右 菖蒲刀中や檜の木のあらけづり    雫軒

 これさ爰許へ小六方と
ほざけだいたるで
つちはうるしいこんではあるでぱあるぞ
 右の刀は源五兵衛をとこの長脇差のさやは
三文下緒は二文しめて
五文の銭うしなひのやすものと見え侍る。
右の六方はいかさまロ舌を
菖蒲刀のよきものにて侍れば、
檜の木のあら削り太刀打にも及べからず
                                     
十三番
左 
蚊やり火にわれも木管が娘かな    辿窓
右 勝
  ふすべられたはん半夜の蚊遣かな   義正

左の句、木売りがむすめとは、ふすべられたまと云を、
残したるてにをは一句の立ちすがたも
しほらしく山家のものとも見えねど
 
宍右の句、たはんはと云ふもを言葉にことわられたるは、
かやの木どくに思ひよられたり。
其上木売りむすめにふすべられて、
われもむかひ火つくらんもむづかしけければ、
ただ右の半夜のけぶり立まさり侍らんかし
   
十四番

左 持
かゞぱやな小舞あふぎの織との絵

扉もや折ふし風が吹て来た

 左はかの孫三郎が織手をこめし織ぎぬの
いとしほらしき舞振也

右の句析節かぜが吹てきたと云小歌、
扇にいひ叶へられたれば、
あなたの方へはからころびやう、
こなたの方へはからころびよつと、
勝まけを定めか一ねしは
摸陵の手をはなさぬ扇のかなめも、
 むくの葉、木賊のみがき骨とも云べければ
扇角力のかちまけなく特に物さだめし侍る

十五番

左 持
すだれごしの月やいよ此おもしろい  貞好
  右
  半夜させやあ此宵の月のかけ     指盞子

 左は、いよこのとうたふを伊豫にとりなされたるは、
すだれのあみ目をおどろかし。
何よりもつておもしろい
 
右もまた、ゐやひ踊の拍子と見えて、
やあ此さいた太刀をぬきんでたる作意は、
さやロのきいたる所侍るまゝよき
持と定めまいらせたり

十六番

左  勝
  月の舟や今宵はどこがお泊じや    信乗母

月の雲よひよひなんど出つ入つ    三竿

 右の句、はりまの國の書寫むしや
寺がおとまりになれば御法のふねにうたがひなく、
月の光をはなつこと光明遍照十方世界
のまん中とは此発句をや申べき
 
 右もまたよいよいなんどと、
踊るうちこそ佛なれとうたふ故にや、
句作り殊勝に侍りて、有がたき作意なれど、
地ごく踊の小歌なれば、
精霊のおばゞを祭る盆の折からかりにも
鬼の沙汰を嫌ひて、憎さけなるつらつき抹香くさく
織面つくり批判して以左為勝

十七番

左 
ちよいと乗りたがるやたれも駒哨むかへ 吉之
右 勝
むかふ駒の足をはぬるやひんこひん   雫軒

 左、伊勢のお玉は、あふみかくらかといへる小歌なれば、
たれも乗りたがるはことわりなるべし
 右。ひんこひんとはね廻るは、
まことにあら馬と見え侍れども、
人くらひ馬にもあひロとかやにて、
右の馬に思ひ付侍る。
左の誰も乗りたがる馬は
ちとかんよわのうち気ものとしられ侍れば
 ふみ馬御免のあしもとをば早く引てのがれ候へかし

十八番                    

左 勝    
  ほの上も大たばに出よ稲の束     適意

  かぶけるは稲のほのじそ京女蕩    城吹
   
左の句、大束と云を稲の束にゆひまはされし事、
かなたこなたをかり集めて、鎌のえならぬ
 句作りにはわらの出べきやうもなし
  
又右の京女郎、にほのじはたれもすきくはの、
かねがね望む事なれど稲のとのを持たれば
我妻ならぬつまなりと先づ此戀はさしおくて、
田のひつぢばえは其の儘にて左を勝とさだめ田

十九番

左 持
  鼻息もむせてくんのむ新酒かな    此男子

温のめとあたゝめかゆる新酒かな   哉也
 
左右の新酒味ひ、いづれかときいてみるに
鼻息もむせてくんのむ新酒はからロとみえて
誠にあまけの去りたる句作り也
 
右の句、温のめと云ことばを下にて
あたゝためかゆるとことわられし事
風味のよきはさらにて實あすをもしらぬ身なれば、
よき亭主ぶりもうれしくて、
いづれの勝負けをもえさだめ侍らぬは
判者もひとつなるロにや

二十番
  
左 勝
  鹿をしもうたはや小野が手鉄砲     政輝
 右
  女夫度や毛に毛が揃うて毛むづかし   宗房(芭蕉)
 
左の発句、小野と云より鹿とつゞけられ侍るは、
かの紫のしなものひかるお源の物語にも
小野に鹿のけしきを書つらね侍りしより、
尤よくとり合されたるなるべし、
其上おのがてつぱうと云を、
取なされたる鉄砲の寸のロかしこく打出されたる
玉の句とも云ふべければ、
火縄のひでんを打べきやうもなし
 
 右の女鹿委しく論をせんも、
けむづかもければ
あぶなき筒先あしばやに包のき侍りぬ

二十一番

左 
土佐男鹿の妻の名もいとし萩の花    鼻毛
右 勝
  みそ萩やほそけれど長いほんのもの   石ロ

左、萩を鹿の妻といへるを、
をかしくうたひなされ侍れば、
みそ萩のほそけれど長いと云處を
 能考へて心のおくをついて見るに、
ほそ長き故にや一句もすらりと立のびてなれ合たり。
左の発句には、
はるかにこえたやつさ大いかい物とや申さん

二十二番

左 勝
とりやけばゞが右の手なりの紅葉かな  三木

 もみちぬと来て見よがしの枝の露    蚊足
 
左の句、紅葉のきめうの作意也
 右の句、よくいひ叶へらね侍れども、
もみぢぬかしを好まるゝは、
異風なろ物数奇にて、色にふけらぬ人ならべし。
左の婆々が右の手の赤くなるは、
いかさま戀をすきものゝ言葉の品も
大むすこも雲泥萬里のたがひあれば、
かゝるめでたき折節を
来てみよがしの木刀ならば
一本かたげて、のがれ候へ 

二十三番

左 勝
  しつぽとやぬれかけ道者北時雨    餘淋

しぐる昔やさつさやりたし簑と笠   政當

 左のぬれかけ道者はぼつとりものゝしなものゝ、
袖にしぐれの通りものとや申さん
 右の句さつさやりれしなんしゆんさまとうたへば、
あつたものぢやないはさてと、
いいはまほしけれど、
とてもぬれよならなまなかしぐれはいやよ、
君がなみだの雨にしつぽと
ぬれかけ道者を例のかちとや定めむ

二十四番   

左 持                                     
洒の酢やすちりもちりの千鳥足

から臼の代のちんどり足をふめ

左の洒の酔いは、まことに一盃過たると見えて
足もとはよろくと弱く侍れども、
一句たしかにいひ立られて下戸ならぬこそ、
男はよけれともいへば、おもしろく侍るに、
右のちんどり足とほとほと踏み鳴らすから臼は、
天の原をふみとどろかす
神鳴の挟み箱もちの器量にもすぐれて、
骨ぐみつよく足の筋骨もたくましければ、
作者のちからも強さうにて、
いづれも千鳥のあしき所なければ、為持

二十五番

左 
しやうことかたまらぬものはみぞれかな 鼻毛
右 勝
みぞれ酒元来水ぢやとおぼしめせ

左の句、しやうことかたまらぬどいはれしは、
みぞれの古句ども見えず。
われも面白てたまらぬに、
右は元来水ぢやと云小歌をみぞれ酒に作られたるは
桶の底意深くいひ立てられ
樽のかがみともなるべき句なれば、
かん鍋のふた目とも見ずかちのかちとさだめぬ。
されど判者もひとつ過て耳熟し
目もちろちろりのみぞれ酒のみこみ違ひも有やせん。
かやうにはほむるともさのみに勿體付きすな  

二十六番

左 持
わろ言はかんからめける氷かな     勝言

そこでさせ氷のしたの月のかげ     城次

左の句、こがねのはしはかんからめくにと云
小歌を割つくどいつ云立られたれば、
氷のはり骨にて、自慢せらるゝもことわりなるべし
 右又、居合踊のそこでさせと云を
氷にとぢあはされたるはげによく思ひ
月影のひかつた句作とも申べけれぱ、
勝まけのわいだめをさだめんこと
おろかなろざえのおぼつかなく、
深き淵に臨むがごとくうすき氷をふんでとりて、
持ときはめ世の人のそしりを、
けふよりしてのちわれまぬかれんぬるかな

二十七番


越後布か松の葉はんの雪のいろ
右 持
降つもる雪やしら藤こふじ山

 雪の色を越後布に見立られたる左の句は
けにも手きゝのしわざにて
あさ糸のよりもよくかゝりたるにや、
わらはれぬ作意なれども松の葉はんと云事、
小歌のふしは尤ながら、一句のはたらき見え侍らず
 右は、しら藤こふじを、
富士に取なされ候ことまことに
名高き不二にはいかでか肩をならべ侍らんと、
左の越後布を安うりにまけさぜたるは、
さぞもとねになりかねや侍らん

二十八番

左 持
炭の荷や付てうるしいこんだ馬     吉勝

炭頭けぶるやすんといやな木ぢや    善勝

 左、炭をうると云かけられたるは、
げにうるしいこんだ馬のあしき處なく、
一句もよくいひ立がみの、けおされぬ作者也
 右の句、ずんといやなきとはあれど、
気のどくたんといひ叶られたれば
今更けし炭となさんともおぼえず、
勝負に世話をやく炭がまの
口々いづれも捨がたくて持と定め侍りき

二十九番

左 勝
掃除して瓢箪たゝきや炭ほこり
右 
  炭焼やおのが先祖はよくしつた

左、炭とりべうたんをたゝきて掃除したるは、
手もまめなる處あらはれて奇麗なる我句也
右は、野郎ざふとく出申な、
おのが先組はよく知つたと云ふを、
小野炭に取なされたる事、
尤炭頭をかたふけて感じ入侍れども、
先祖をよくしられん事わきまへがたく、
只左のへうたんの軽口にまかせて、
勝と定めたるはをかしき判とゆふがほの、
ひょんな事にやあらんかし

三十番

左 勝
  犬の鈴やきくびしやだんの神々祭    此男子

舞衣やをかみの出立御察神子      一友

左の犬の鈴の句、まことに人作の及ぶ所にあらねば、
いきくび社壇もうごき、
御社のおやぢさまも御感心浅からす。
末社のほこらのこやくまでも、
いきくびごたいをかたぶけられん事
うたがひなくおほえられ侍る

 右のをかみの舞衣、ひとへに聞えて、
手うすき作意なれば、まけの上のまけたるべし。
とかく息災延命の神楽歌を舞のきにのき給へとぞ。
 
 附貝於保飛跋
松尾氏宗房稚仲為予断金之友、
其性嗜滑稽潜心於詼諧者幾換伏臘矣、
今茲春正月閑暇之日以童謡俚近之語作狂句者
総若于釆而輯之分是於左右以判断
其可否誠錦心ロ撃節嘆賞焉瑶後序
鯫生素以切偲之情不忍袖手旁、
文雖漸羊豹僣一言以続于後云
      寛文壬子孟春日
 
  伊陽被下横月漫跋

 貝おほひ 俳諧大辞典
 かいおおい

❖俳諧発句合。
❖松尾宗房(芭蕉)著。自序。横月跋。
❖寛交十二年(1672)
❖一名、「三十番俳諧合」という如く、芭蕉が郷里伊賀上野の諸俳士の発句に自句をも交え、これを左右につがえて三十番の句合とし、更に自ら判詞を記して、勝負を定めたもの。
❖書名は遊戯「貝おほひ」の「合せて勝負を見る」ところに由来したものであろう。
❖序に「寛文十二年正月二十五日、伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒にしてみづから序す」とある通り、出京して数年間、季吟門に遊んだ若き日の芭蕉が、上野に帰郷してこの書を編し、折から菅公七百七十年の忌日に産土の天神に奉納したものと思われる。
❖板本は久しく行方を失していたが、昭和十年の秋出現して、現在天理図書館納屋文庫に収められている。❖他に、東大付属図書館蔵の旧洒竹文庫本に、柳亭種彦自筆自注書入本と、横本の校本とがある。前者は本書中の小唄や流行詞に、種彦が出典を示したりした略註がついている。
❖後者は版元に「芝三田二丁目、中野半兵衛、同庄次郎開板」と記されていて、現存の納屋文庫本と別板本の存在した事が知られる。
❖本文は、仏兮・湖中の『俳諧一葉集』以下、芭蕉の全集順に多く収められている。本書は芭蕉二十九歳の時の処女著作であると共に、芭蕉が生前、署名して自著として出版した唯一の書である。
❖その内容は、ことにその判詞において、芭蕉は当時遊里などに流行の小唄や六方詞などを自由自在に駆使して、軽妙洒脱に洒落のめしており、その澗達で奔放な気分は、談林俳諧の先駆と称して過言でない。❖談林俳諧がその旗幟を天下に鮮明にしたのが延宝二年とすると、本書はそれに三年も先立っており、いかに芭蕉が時代の息吹に敏感であったかを実証する。
即ち、芭蕉の判詞は 合せた発句よりはるかに遊蕩気分の横溢したもので、後年の清僧の如き翁からは想像もしがたい底のものである。
その点、芭蕉生涯における思想・作風の変遷を跡づける重要な資料と目される。


芭蕉の人間的討究 斎藤清衛 著

2024年08月12日 09時42分55秒 | 俳諧史料

芭蕉の人間的討究 斎藤清衛 著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

  一

 史上人物についての伝記的研究や、評説は、昨年あたりから特に著旧な戦後社会の新思潮であり、新傾向である。

評傅、従って一人物の研究ということが、人間社会の検討の出発であり、同時にその結論であることも争えない。しかし、古来文化の様式別からすると、人間像のありかたは必ずしも同歩し一致しては居ない。

例えば、道徳・宗教・政治などの文化には、人間個々の行為がしばしば密着しているに反し、藝能の諸文化ではそれが重視されていない。畢竟、道義文化と芸術文化との対比においても、前者では個人行為自体が主眼とされがちであるに較べ、芸術文化では作品そのものが重要となっている。すべて各文化の中核に関する狙いのずれに因縁するのである。

 もとより、文學の三要素として、作品以外に、作家と環境とを列挙する論もあるように、上代以降次々に作者の像は、磨き出され表面化の途を辿っている。かの王朝時代の物語草子には、なお作者の署名が欠けているものの多い点でもわかるよう、源氏物語の如き大作においてのみは筆者の桧討の綿密に行われてきたが、日記紀行類の伝本には、署名が落されたために、今日なお執筆者の不確実なものが多く遺されている。

 その他、詩歌類は散文とその内状を異にするが、さりとて、古代人の作として、作者不詳のものは必ずしも稀でない。記紀・萬葉集の中にも多いし、諸歌曲(神楽・催馬楽・風俗類)の詞章にもその実例が乏しくない。これは文語の中心が作品自らにあったことを立証しているので、詠吟者に対する聯想が時代と共に皮薄化したのである。

ギリシャの叙事詩「神曲」や、印度の[ヴェーダ]において、その詩人の氏名が失墜された所以も、社会的位置にあってはこれと類似のものが考えられる。即ち、「普遍と特殊」・[全と個]との問題を認めさせられるのであるが、およそ、綜合と分化との対立は辯証法的文化発達の形式として自然のものであろう。もっともこの前古の問題も、結局は山口諭助氏等の説の様に、

(一)、対立的個全観と、

(二)、一如的個全観の両側面におちつくことを考えられるけれど、同時に、また、対立を強く観取するAに対し、一如をはっきり観ずるBのあることを思いあわさざるを得ない。

 

 芭蕉の生年は、正保元年(寛永二十一年)であり、その意味では、江戸の初期ともいえる寛永年間に継続した時代である。

芭蕉の生年時に酉鶴や素堂は三歳、契沖は五歳であって、あまりその間に年齢の差はなかったが、(水戸)光圀・戸田茂睡はすでに十六歳、季吟・長流は廿一歳、雅章の知きは三十四歳、通村は五十七歳、更に貞室三十五歳、宗因は四十歳であった関係を考察すると、歌界の持つ、時代的雰囲気気なるものを無視することが出来ぬし、まして郷里伊賀上野の城代良精(蝉吟)とのつながりから季吟門に出入したとなれば京都伊賀をかけて回流する詩精紳が、芭蕉の少青年時代を色付けたであろうことの必然さを認証せざるを得ない。

 しかし、こゝで誰もが一画の疑惑にあてられる点は、芭蕉の生長の跡には、ほとんど天才らしさの無いということである。それは、かれの俳諧文學のみでなく、日記・紀行・書簡等の一般文筆物についても認められるところであるが、四十歳以前の遺品には、特に後年俳聖のものと推賞すべきものがほとんど無い。もとより芭蕉節の研究者は、その三十歳年代の作品として、天和時代の遺作、「武蔵曲」「虚栗」等の句を引抄してはいるが、貞享年代以後のものとはその傾向を別にしている。すくなくとも、談林調にはもとよりのこと、枯淡の側面を保持してきた貞門についても、合流しかねたもの、自然的のものを持っていたように察せられる。いかにも天和の四年間は、芭蕉の三十歳代と四十歳代との分水嶺をなして居り、江戸深川中心の漂泊時代とも評されるのであるが、芭蕉評伝家にはこの期間を俳聖の履歴として徒に無意義の期間のように解釈するむきもある。しかしこの際、芭蕉自らに、江戸に下向して、かく流浪する機会が与えられず、まして、深川の杉風の別宅に入ることなど無かったものと仮想したら、芭蕉は果して、後年の俳文學展開を実現しえたものか否か。これは熟慮に値する問題と思う。「綜合と個別」、「全と個」との課題は、すべての認識にわたって存しうるものであるが、その帰結は、その融和乃至一如の人間性にあるのであって、綜合、個別の論理自体に係るものではない。

 

 そこで芭蕉の個性を考えてみるに、それは時相に対するだけ独歩強靭のものであったようには思えない。かりに、蝉吟の逝去なく、芭蕉は季吟門の一員として、伊賀と京都とを往来した青年時代に何等の異変が無かったとしたならば、かれは遂に近畿の貞門俳人という姿相で、生涯を終ったかもしれぬ。すなはち、寛文十二年(二十九歳)頃とされている江戸下向は、芭蕉の一生において想像しがたいほどの画期的のものであったことが考えられるのである。

 思うに、生涯において幸と不幸との運は、きわめて週然事であることは、俗諺としてもいわれているとおりである。いかにも寛文年間の新貨幣政策について見ても、それが甲者において幸運となることが、乙者においては不幸の因であるという類の実例は極めて夥しい。幸不幸の観念は、つまり主観的のものを脱しきれないため、例えば、自我的の個が、全に吸収され無我的の状に陥るのを看ても、それを幸運とする人もあるが、逆にこれを生涯の危機、不運事として解釋する人もあるであろう。しかし總合的客観の立場につくと、黒字赤字の差別も明かに出され、新しく惑う要もないのであるが、抵抗の苦を善意に解することは色々の問題にあたってしかし簡易にはゆきかねる。こゝに関西生れで、上方育ちの芭蕉の宿命を思う時、まずその対立者として明暦・萬治・寛文年代の「東方性」ということが聯想される。それは、現代の日本社会というものにアメリカ的雰囲気、乃至ソヴエト的勢力が濃厚な雲霧となって漂っているその関係に似て、上方人に対し当時何かと江戸的勢力、関東的文化性が上空を掩っていたのである。

 

蕉風の特色について、芭蕉が支考に対し談笑の間に洩らしたという以下の一節はこれに関し、深長の意味を示唆する。

 

  我家の俳諧は、京の土地に合はず。そばきりの汁のあまきにも知るべし。

大根の辛みのすみやかなるに、山葵の辛みの謟ひたる匂さへ例の似て非ならん。

此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、

俳諧は今日の平話なること を知らば、はじめて落柿舎の講中となりて、

箸筥の名録に入るべし。

 

芭蕉がこうした自信自覚に到達するまでには、可なり激しい個全両面の内部的闘争の期間を経由したものと察せられる。因習的のもの、上方的のもの、伝統の中に自己を没却するだけのものなら、その悩みの度はなお少なくしてすんだけれど、その身、保守の濁流にひたり、その限界を超克するというに到っては容易のことではない。かつて、俳を学ぶ書について舎羅が尋ねたに対し、「一家を立てよ」と次の様にいった遺蹟が認められている。

 

 何にてもよろしがるべし。しかし我家の俳諧に求めえたる處は求むとも、

我等が跡を口真似せんとおもうべからず。

其故は古 の歌人の歌書を手本にして、歌よみたる人なし。

其時代々々の風を考へ、其風を我物にして歌はよみたると見えたり。

夫故に一家を立たり。

古人の跡をまねて歌よみたる人は、

いつまでも尻馬にて生涯我歌よみたる人なしと覚ゆ。

我家の俳諧を学ばんと思はゞ、仮にも狂すべからず。

初心より上達まで、歌書又は物語等いづれの書たりとも見わたして、

家の風をうしなはず。尤、句数をこのむべし。

 

要するに、芭蕉は時代風とか流行風とかいう空気に対し敏感であり、其角が

「およそ吟ある時は風あり、風は必ず變ず、是自然の事なり」

といったことなどにも共鳴を示した。

また、

「仮令、師の風なりとて、一風になづみて変化をしらざるは、却て師の心にたがへるなり」

とも書遺しているように、変動と推移を無視して正しい文学精神の展開はこれを詰めがたいとする思想を持っていた。

 こゝに到って、常然、芭蕉の持つ「全」の問題が拡大されてくるが、これはかれの不易流行理論と根本に共通している。全自体が、不変をのみを意味しないと同様に、去来は、師の不易句の意味をつぎの様に解脱している。

 

句は千歳不易の姿あり。一時流行の姿あり。此を雨端に教へ給へども、其本一なり。

一なるは、ともに風雅の誠をとればなり。

  不易の句を知ざれば本立ちがたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。

よく不易を知る人は往くとしておしうつらずといふことなし。

たま/\一時の流行に秀でたるものは、只己が口実の時にあふのみにて、

他日流行の場に至りて、一歩もあゆむことあたはず(贈 其角先生書)

 

この中の「よく不易を知る人は往くとしておしうつらずといふことなし」……とは、畢竟、変化推移が、むしろ不易を根拠としているとの意である。流行とはいえ、所以ある変化を示すものであ

るとこれを見ることも許されよう。

 すべて古代人の簿記については、人物が名高ければ名高いほどその生年や履歴につき異説が多く出されている観がある。例えば芭蕉の江戸流浪の動機についても、おそらく十数種に近い各様の臆

説があるが、そのすべてが動機をなしたものとしても解される。もとより、相互の間には芭蕉に對し最後の決意を導く上に、理由として軽重の差別はあつたであろうが、亡命の主因を例えば異性問題にありとしている推論にしても、芭蕉自ら、その中の何が直接最大の原因であつたかを判定しにくい、そうした闘係にあつたものかとも考えられる。

 

 この際、伝紀者として、諒承しうる点は、教養的にも素質的にも、多分に上方的のものを蔵する芭蕉が、年齢三十歳時代の数年間を江戸下向の上で暮らし、特に天和の初め頃から深川の杉風別墅をその居に宛てて尻を据えていたという実証である。貞享元年(1684)、

 

  秋十とせ却て江戸をさす古郷

-

という吟を残したことにつき、そこにどの様な複雑な心理が潜在して居たであろうと、その十ヵ年は、芭蕉における上方的要素を回顧する上の絶好の時であり、従ってかれに東方的のものへの脱皮断行の機会を供することにもなったのである。それは、伝統的な個を清算することであると共に、新風の個をも獲得する方途であったので、個に対する全の意味はこうしか融通性の中に求められねばならぬ。個の域を、全の方向へ拡大することは、一応、個を抑えることにはなるが、同時に、新個に対しては、新しい息吹を與える結果にもなってくる。

 

二、次ぎに四十歳時代の芭蕉であるが、

 

その十ヵ年間は、俳聖芭蕉においてその活動の全面を代表するものとさえ考えられよう。

「野ざらし紀行」以下諸紀行が脱稿され、「冬の日」以下の蕉門俳諧七部集のすべてが、この間に編集されている。かくて内外かねて十年間を多忙の中に俯した俳聖は、わが五十歳の聲をきくと共に、人生に終止譜を打ったのであるが、俳人ならずとも、この俳聖の十ヵ年間の偉業には、眼を瞠(みは)らされるものがあるであろう。しかしこれは、もとより芭蕉一人の精進が齎(もたら)した結果のものではなく、貞享・元禄という前後の時代性が帯びていた思潮に因縁するところが多い。草子文学からは西鶴物、浄瑠璃からは近松物、萬葉集、古今集等の註解部門としては契仲や季吟の業績……等、丁度文星相互に暗示してその轡(くつわ)を並べて現われた書かのように見られる。いわゆる元禄時代文学の華やかさであって、こうした作者や作品を生み出した背後には、かならずや、読者社会の支持といふことを臆測することができる。芭蕉の側と社会の全との関係はそこでどうであったか。

 こゝに到って、再び、我家の俳諧は、京の土地に合わず

と云う前引の句を連想するのであるが、貞享元年の「野ざらし紀行」の旅、同四年の芳野紀行の旅、元禄二・三・四年に亘っての大津中心の逗留……の足跡をみる時は、事情における、あまりの矛盾と表裏とを思わされる。元禄四年十二月に江戸に帰り、その翌春改築された芭蕉庵に入ったことによって屯、粟津の無名庵などでその晩年を送るというほどの決意を懐いたものとは考えられないけれど、京阪を中心としての風土が、芭蕉にとって偉大な蠱惑(こくわく)であったことは否みがたい。四十代という初老の時代、しかも、「奥の細道」紀行の旅のような大旅行の体験が、芭蕉の中の「上方性」を鮮明にさせた以外に、自己回帰の絶好の機会を提することにもなった。その頃に書いた芭蕉筆書簡文の二三を試に抜いて見ると、

 

    一、 金澤の宮竹屋伊右衛門宛のもの

 

   何處、持參之芳翰落手、御無事之旨珍重ニ存候、

類火之難御のがれ候よし、是又御仕合雖申盡候、

残生いまだ漂泊やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候、

猶どち風に身をまかすべき哉(か)と、秋立比(ころ)を待かけ候、

旦両句御珍重、中にもせりうりの十銭、小界かろき程、

我が世間に似たれば。感慨不少候、口質他に越候間、

いよ/\風情可被縣御心候、

    愚句

    京にても京なつかしやほとゝぎす

 景気に痛候而(て)及早筆候

 

二、京の野澤凡兆宛のもの

 

度々預貴候へ共、持病あまり気むづかしく不能御報候、

昨夜よりも出候、名月散々草臥、発句もしか/\゛、案じ不申候、

湖へもえ出不申候、木曾塚にてふせりながら人々に対面いたし候、

   各発句有之候

    月見する坐に美しき顔もなし

   なき同前の仕合ニて仮、當河原凉の句、其元にて出かゝり候を、

   終に物にならず、打捨候を叉駆出し仮、御覧可被成候、

    川風やうす柿羞たる夕すゞみ

 職人のでしこ感心仕候。落書もことの外御出かし被成候、

少し気むづかしく候故旱々申上候

 

三、膳所(ぜぜ)の茶屋昌房宛のもの

 

昨夜堅田より致帰帆候、愈御無訪ニ御連中相替事無御座候哉、

拙者散々風引候而蜑の苫屋に旅寝を佗て、風流さま/\゛の事共ニ御座候、

    病雁の夜寒に落て旅寝哉  

   と申候、京短尺屋へ御状被廼可被下候。明日上京致仮間拙者見合、

能候ハバもとめ候而人々わけ可申候、千那・尚白方ニも大分入り申候

 以上

 

奥の細道の大旅行が、肉体的の悩みや疲労を残し留めたことは明かである。

その後、前々年から不在になっている江戸関係の諸事件が気に掛らぬでもなかったが、これらの信書では、宛ら在郷者の心にも似たやすらぎの気のみが見られる。

去来、凡兆を初め京師附近に住む俳人で、上方的のものを生かしていった門人もその数は少なくはなかった。

 蕉風晩年の軽味、枯淡さも、自らこうしたルートにつながっている。東方的の荒潮だけでは、炭俵調の大成は到底期待しがたい。

四十八歳の年の晩秋に一度、江戸に帰っていった芭蕉が、翌々年の夏にその老躯を押してまた上方に旅立つ置土産のようにこの「炭俵」の編を残したのである。

それには、

「炭俵集を手本として芭蕉の風流を学ぶこそめでたかるべし。

炭俵の風流は翁の極意の所にて、すなほに愚かに安き所なり」(俳諧耳底記)

と野坡が攬明しているよう、生國出奔者が老後再び郷土に入った折の心理のよう、すべてに素直さ、軽淡味を基調としたものである。極意というその評語も、理由のないことではない。換言すれば、五

十歳を迎えようとする俳聖が、人間としての一完成を示すものである。

ゲーテが、一切萬有の底にタートを認め得たように、芭蕉は、客観的な観念論型を深く堀下げることとなった。今日の文化教育學説ならずとも、真に心の安らかさなければ一切は渾沌の境を超えることは出来まい。

 かくて芭蕉の人間としての検討、また分析も、行動とその背後をなす「時」との課題にくるまってゆく。人間芭蕉は[時]の中にその流れを依存せしめているのではなく、変動の中に立ちながら、自己を成育さしていったのである。

 およそ、芭蕉傳を繙くものは、師の芭蕉を中心として門下との間に和やかな気の流れている場面の多いことに気付くであろう。しかも、その十弟子を初め、現世の職域を異にしているだけでなく、性格的にも異なった人物が多い。こうした門人間の和合は、まったく師としての芭蕉の人格の反映するところとも云えよう。その全人的の思想が、よく異なったものを抱擁しつくしているのである。これは、古く歌界の派閥にも見られる、わが文人社会の傾向と伴っているものであるが、元禄時代の蕉風の遺した跡にはその特別のものがあるについても、人間として芭蕉のすがたを新に敬慕せしめるものが特に大きい。


・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間 やつし……法政大学教授……益田勝美著

2024年08月12日 01時00分34秒 | 文学さんぽ

・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間

 

やつし

 

十世紀の二つの家集、『海人手子良(あめのてこら)集』と『とよかげ』とは、貴人が、<下衆の集>をよそおってわが集を編んだ、という志向性を共有している。後撰から拾遺の間の和歌史のできごととして、

わたしには見過ごしにくいものがある。

 海人(あま)の磯良ならぬ手子良を自称したのは、桃園大納言師氏。大蔵の史生倉橋の豊蔭と名乗るは、一条摂政伊尹(これまさ)。九条敲師輔の弟と長子。叔姪の間柄になる。

春(十首)・夏(十首)・秋(九首)・冬(十首)、逢わぬ恋(十首)・逢ひての恋(九首)、

わかれ(七首)・無常(九首)・いのり(九首)、年・月・日など物の名を詠みこんだ五首と、

「春の花に鶯むつる」「夏ほたる汀に火をともす」など昇凧絵の歌らしい仕立ての六首。

九十四首の即興自撰の小歌集と見られるものを、師氏が海人の詠草と見たてた理由を、永らく測りかねていた。だが、内容的には海人とかかわることのないこの歌集が、師氏の宇治川のほとりの別荘滞在中に編まれたのではないか、と思い至るにおよんで、彼の風流のやつしのしくみがややわかってきたような気がする。

 師氏の別荘は、『蜻蛉日記』の作者の夫兼家の宇治の院と、河を隔てて相対するところにあり、日記上巻の終りに近いところに、師氏と道綱の母らとの宇治での交渉が物語られている。

安和二(九六九)年、道綱の母が、初瀬詣での帰途、思いがけなくそこまで出迎えにきてくれた兼家と対面する。そのころ、権大納言 師氏は氷魚(ひお)の網代漁にきていて、そのことを聞き伝え、兼家の宇治の院へ雉子と氷魚(ひお)を届けてくれた。兼家は伊尹の弟で、やはり師氏には甥にあたる。その年、中納言に進んでいた。日記中巻に、翌々天禄二年、ふたたび初瀬を志す道綱の母は、師氏の宇治の別荘に立ち寄った、とある。師氏がなくなって一周忌近いころだった。

 

   逢坂の泡沫(うたかた)は陸奥のさらに勿来(なこそ)をなづくるかもし

   君しいなばいな/\社(こそ)は信濃なる浅間が山と成や果なむ

 

 宇治の河漁師にみずからを擬して編んだ『海人手子良集』の歌は、懸詞のレトリックによりかかっての抒情のうたが多い。虚構仮託の題名をもちながら、集中の歌にはそれが影響するようすはない。作者の風流のやつしは、そのあたりで止まっている。

 

 以前から『大鏡』の記事で存在が知られていた伊尹の『とよかげ』は、近代になってようやく再発見されたが、それは、『一条摂政御生』のなかに包摂された形だった。後人が伊尹のうたを蒐め、『とよかけ』の後に加えている。三上琢弥・清水好子ら平安文学輪読会の人たちの手になる『一条摂政徴集注釈』(一九六七)の解題は、集全体の成立を正暦三(九九二)年を少し下るころ、集中の『とよかげ』の方を、天保元(九七〇)年ごろから伊尹のなくなる同三年まで、もし、それが伊尹の自撰でない場合、「九七〇年頃から九九〇年頃までの間」とする、用心深い見方だが、自撰を疑う必要はないように思う。

 

    おほくらのしさうくらはしのとよかげ、わかかりけるとき、

女のもとにいひやりけることどもをかきあつめたるなり。

    おほやけごとさわがしうて、をかしとおもひけることどもありけれど、

わすれなどしてのちにみれば、ことにもあらずありける。

    いひかはしけるほどの人は、とよかげにことならぬ女なりけれど、

としつきをへて、かへりごとをせざりければ、まけじとおもひていひける

   あはれともいふべき人はおもほえでみのいたづらになりぬべきかな

    女からうじてこたみぞ

たにごともおもひしらずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき

    はやうの人はかうやうにぞあるべき(ありける)。

いまやうのわかい人は、さしもあらで上ずめきてやみなんかし。

 

 『とよかげ』が『海人手子良集』とちがうのは、歌物語の手法を貫こうとしている点である。物語の叙述法は明らかに『伊勢物語』にならい、その情熱的な恋への没頭を襲おうとするところもそうである。だが、その伊勢的な傾斜が、ことさらに下衆の男女の.愛の物語としての虚構をとって保障されうるとする点において、かえって伊勢とちがう。伊尹自撰集『とよかげ』は、大蔵の史生倉橋豊蔭の歌物語としての風流のやつしをしているが、内容において自作歌集成をふみはずさず、想像の物語、想像のうたの贈答をまじえない。そのため、歌物語の伝承的要素を再生しえないで、私家集にとどまっている。やつしのいとなみを、うたとうたをめぐる物語の創造へはみ出させなかった。

 

ふたつのエロチシズム

 

伊尹は、奔騰する愛の思いに身をゆだねる主人公豊蔭を、「上ずめきて」やむ、上品ぶった中途半端な愛への献身にとどまる、集中の女たちに対置する。しかし、大蔵の史生の物語であるから、后がねの深窓の女性に求愛し、その愛をかちとりながらも、大きな力に仲をひき裂かれていく、『伊勢物語』の<冒し>、社会的制約との愛のたたかいがない。やつしの自己束縛である。

 冒頭の段で、以前からの間柄を復活しようとした豊蔭は、もろくも相手にうたで突きはなされている。「あはれともいふべき人はおもほえで」の歌いかけの秀逸さにもかかわらず、うたの功徳というべき、うたの力は相手を動かさない。恋の負け犬のかたちの物語の出発である。伊勢の初冠の段のうたを女へ贈りそめる、という歌による元服の上昇性がなく、不成就の求愛歌で出発するかたちは同じでも、内実がちがうのである。第二段では、

 

   みやづかへする人にやありけん、とよかげ、ものいはむとて、

しもにこよひはあれと、いひおきてくらすほどに、

あめいみじうふりければ、そのことしりたりける人の、

うへになめりと、いひければ、

とよかげをやみせぬなみだのあめにあまぐもののぼらばいとどわびしかるべし

   なさけなしとやおもひけん。

 

と豊蔭は、女のつらいしうちを甘受しなければならない。もろもろの制約とたたかい、愛する女性を情熟とうたの力とで屈服させ、現実に肉体の愛をひとつひとつ成就していく、歌物語伊勢のエロチシズム、疾風怒濤を衡いて猛進し、愛の抱擁に歓喜し、裂かれて号泣する強烈さが欠けている。この段の「みやづかへする

人」は、第三段では、結局、豊蔭の求愛に応じるのだが、それはこう語られる。

 

   おなじ女に、いかなるをりにかありけむ

   からごろもそでに人めはつつめどもこぼるるものはなみだなりけり

     女かへし

   つつむべきそでだにきみはありけるをわれはなみだにながれはてにき

    としをへて、上ずめきける人のかういへりけるに、

   いかばかりあはれとおもひけん。

   これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ。

    をんなのおやききて、いとかしこういふとききて、

   とよかげ、まだしきさまのふみをかきてやる

   ひとしれぬみはいそげどもとしをへてなどこえがたきあふさかのせき

   これを、おやに、このことしれる人のみせければ、

   おもひなほりてかへりごとかかせけれ。

   はは、女にはらへをさへなむせさせける

    あづまぢにゆきかふ人にあらぬみのいつかはこえんあふさかのせき

   心やましなにとしもへたまへ、とかかす。女、かたはらいたかりけんかし。人のおやのあはれなることよ

 

 豊蔭は、ついに手にした、女の愛を受けいれてくれるという返歌を、無上にいとおしく思い、「これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ」と感無量のことばを吐く。だが、ふたりが寝たこと、遂に逢ったふたりの愛のかたちについては語ろうとしない。

 伊尹は、自分の分身豊蔭の贈歌と女の返歌のからみあいのおもしろさ、そのあとの事件での自分たちの小狡猾の謳歌に心を奪われている。豊蔭のまだ逢わぬ恋をよそおっての求愛の歌に、娘が心をゆさぶられることを怖れて、親は恋の虫封じの祓いをうけさせ、思うままの拒絶の返歌を書かせる。

わたくしがあなたと逢う逢坂の関をこえる日なんてありますまい、何年でも坂の手まえの山科で滞留していなさったら、などと小気味よい書き方。

 ジョルジュ・バタイユは、肉体のエロチシズム・心のエロチシズム・神聖なエロチシズムと、エロチシズムの三形態を指摘している(『エロチシズム』室淳介訳)。もう遥かすぎる昔、「豊蔭の作者」(『日本文学史研究』二〇号、一九五三年五月)を書いた頃のわたしは、そういう三分類など思いおよばなかったが、<好邑者>と<いろごのみ>の区別に熱中していた。「肉体的交渉を持たない男女交際が『すき』であり」 (吉沢義則『源語釈泉』)というような、平安朝の<すき>の中世的把握に抵抗したがって、性愛ぬきの<すき>はないという一方で、<すきと><いろごのみ>の峻別をこわだかにしやべっていた。バタイユの肉体のエロチシズムにあたるものが<いろごのみ>で、うたによる風流を精力的に注入して、<いろごのみ>が<好色者>に昇華される。心のエロチシズムになりうる。そういう考え方に固執する傾向は、いまも変らない。

 わたしは、『伊勢物語』の文学的達成を<好色者>憧憬の結晶、心のエロチシズムの高い到達とし、歌物語の主人公としての昔男…平仲…豊蔭を、<好色者>の下降の系譜としてみてきた。

 『とよかげ』を歌物語の末裔としながら、歌の風流に重占をおき、<すき>のなかの<いろごのみ>の要素が稀薄化したものと慨嘆する点で、いまも同じような見方に低迷している。

 『とよかげ』に関して、わたしにそういう見方をさせるのは、『とよかげ』の豊蔭よりも、伊尹その人の<いろごのみ>の姿が印象深いせいもある。

 

仰云、世尊寺ハー条摂政家也九条殿。件ノ人、見目イミジク吉御坐シケリ。

細殿敗局ニ行シテ朝ボラケニ出給トテ、冠押入テ出給ケル、

実(まこと)ニ吉御坐シケリ。

随身切音(きりごえ)ニサキヲハセテ令帰結、メデタカリケリ。…… (『富家語』)

 

 語り手は、保元の乱後幽閉中の富家(ふけ)関白忠実。伊尹の弟、関白兼家の五代の孫。

この談話をのちの『続古事談』は弘徴殿の細殿の局として書きかえているが、宮廷のどこかの細殿の局の女房のもとへ忍び、あさぼらけ忍び出るとする原語の方が味わい深い。

「冠押入テ出結ケル」容姿にはエロチシズムが漂っている。その人がたちまちかたちを整え、随身にキリリとした声で先を追わせ、堂々と退出していく。その姿をかいまみて、くっきりと眼底に焼きつけていたのは、どこぞの女房か。宿直(とのい)に名をかる他の蕩児か。それにしても、それは北家の氏の長者たる人が語り伝えるような伝承になっていた.

 

  多武峯の入道高光少将は、

兄の一条の摂政の事にふれつつあやまり多くおはしけるを見給ひて、

「世にあるは恥がましき事にこそ」とて、是より心を発し給ひけるとなむ。(『発心集』第五)

 

 弟高光の出家を、『多武峯少将物語』は、前年父師輔が世を去り、かねての出家入道の素志をさえぎるものがなくなったためとし、『栄華物語』は、姉安子中宮の死に触発されてとする。後者は時間的錯誤をはらむ説である。「あやまり多くおはしける」の内容は遊蕩とばかりにしぼりにくいかもしれないが、それを含まないはずはあるまい。

 伝承の伊尹像は、 <いろごのみ>……肉体のエロチシズム本位で、伊尹の『とよかげ』に滑りこませたようなうたの風流をほとんど無視している。伊尹自身のやつしの自画像豊蔭は、うたの風流に偏りすぎた<好色者>になっていて、肉体のエロチシズムの稀薄化しすぎた心のエロチシズムということになろうか。歌物語の后がねさえ奪いとる上流貴族社会の主人公は去り、下衆の下級官僚の<すき>を空想する伊尹の企ては後継者がえられず、雨夜の品定めに啓発された若い一世の源氏の君が、宮廷や上層貴族社会に背を向け、中居の家に隠れた理想の女性たちに好奇の眼を向けるような物語作者の想像が、はぐくまれていく。

                 ……法政大学教授……益田勝美著