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愛と創作主体 小町*「心の花」の発見   山口 博(やまぐち・ひろし)著

2024年08月11日 06時55分59秒 | 文学さんぽ

愛と創作主体 小町*「心の花」の発見

 

山口 博(やまぐち・ひろし)著

   一

 古今序以前の唯一の歌論書である『歌経表式』の歌論の方法は、和歌の本質論・様式論等である。嘉祥二年仁明天皇四十宝算賀の興福寺大法師の長歌についての『続日本後記』の編者の論評も、ほぼ同質である。それらに比して、古今序の著しい特色は、歌人の優劣を論じている事と、歌人相互の影響関係を跡づけようとする源流論のみられる事である。前者が六歌仙の論であり、後者は「小野小町之歌、古衣通姫之流也」「大友黒主歌、古猿丸大夫之次也」である。

 古今序以前にはみられないこの作品・歌人の優劣論、源放論を、古今撰者は何に学んだのか。想起されるのは、中国梁朝の鐘嶸の『詩品』である。鐘嶸は、魏文帝曹丕の「典論論文」以下晋の陸機の「文賦」を経て宋の顔延之の「論文」に至る先行の多くの文学評論が、文学の様式論・本質論のみを論じ、詩人の優劣を論じなかった事への批判として『詩品』を著した。そこにおいて鐘嶸のとった方法が、この優劣論と源流説である。

 『詩品』は既に万葉歌人の書架にあり、古今序もその影響下にある。六歌仙評がこの『詩品』のスタイルの模倣である事は確実である。

 『詩品』の序は、五言詩の創始を漢の李陵に求め、その後百年間、詩は衰え辞賦のみ隆盛し、詩人は李陵と班婕妤だけ、という。詩の百年間の衰退と傑出する閨秀詩人一人。古今序にいう平城朝より百年間の和歌の衰亡とその間の唯一の女流歌人小野小町、両序の発想の類似は偶然ではあるまい。

 その班姥奸班婕妤は、「楚臣去境。漢妾辞宮」(詩品序)、「羈臣寡婦之所歎」(欧陽修「梅聖兪詩集序」)などが一例であるように、楚臣屈原と並ぶ重要な詩人的位置が与えられている。班詩

は、欧陽修のいう寡婦之歎で、典型的な閔怨詩であった。

 このように古今序と海彼の文学を読み比べるなら、和歌退潮の百年間において艶然と開花した小町の歌が、班詩に比擬されている事は認められるのではないか。

 班婕妤が「怨歌」という閑怨詩の作者であり、閑怨詩のヒロインであったように、古今撰者にとって小町は閨怨詩的な歌の人であったのである。

 

    二

小町の歌の多くが、不毛の愛の嘆である事は指摘されている。

このモチーフが閨怨詩的であるだけではなく、その表現方法に閨怨詩の影響を受けている事を、私は既に拙著で述べた事がある。詳細はそれに譲るが、例えば、

   花の色は移りにけりないたづらに我身池に径るな、かめせしまに

が、落花を見て花顔の衰えを嘆く閔怨詩の典型的な手法、

   わびぬれば身を浮草の根を絶えて訪ふ水あらは往なむとぞ思ふ

が、男に頼っての生き方をせざるをえぬはかない女の象徴を、浮草にみる閨怨詩の伝統の上に作られているという事などである。身近な例を挙げるなら、次のような詩がある。

   玉顔盛有時。 秀包随年衰。(中略) 

浮萍無根本。 非水将何依。 (『玉台新詠』巻二・傳玄「明月篇一)

 「人の心」という表現にも中国持の影響があると思う。

   包みえで移ろふものは世中の人の心の花にぞありける

 『古今集』には「人の心」という語句は一三首ある。その意味では当時の類同的発想に依拠しているといえるのだが、『後撰集』には二二首(内「人心」四首)、『拾遺集』には一二首(「人心」一首)とみてくると、小町の「人の心」は古今で類同的であるだけではなく、三代集の中に全く埋没する。

 ところが『万葉集』には、平安朝的センスを早くも内蔵している大伴家持に一首、巻一一に一首あるだけである。万葉歌人にとって恋愛歌は、対象との合体を希求する声であり、欲望の実現を計る心の響きである。「吾が心」・「妹が心」という類の、個別的な対象を明確化した表現をとるのもその現れである。古今恋歌はそうではない。「世中の人の心」と、恋の心の状況を客観的に観察し普遍化、人生論にまで高めている。

 「人の心」という表現の万葉と古今以後の落差をこう考えるのであるが、万葉歌人のほとんど知らないこの表現も、中国六朝詩には既にみられるものであった。『玉台新詠』には「人心」として六例あるが、その一つ、

  街悲攬俤別心知。桃花季飽託風吹。本知人心不樹。何意人別似花離。 

(巻九・善子顕「春別」)

は、人心が桃花季飽の移り変り易きに等しき事を詠う。作者は、一度は「人心は樹に似ざる」と思っていたが、今は似ていると認識したという。似ていないが実は似ている、この発想が小町の歌では、「色みえで」という点では花と人心は似ていないが、移ろうという点では実は似ている、となる。

 人心は花に似たりとするこの蕭子顕の詩は、『芸文類聚』閔特

高に採録されている。菅原迫真が「落花」と題する詩で、

  花心不人心。一落応再尋。(『菅家文草』巻五)

とするのも、彼の主張する断章取義的方法による蕭子顕の詩の依拠であろう。「人心は花に似たり」のモチーフは平安人の心に確実に根付いているのである。小町の「人の心」もこの系譜の上にあると考えられるではないか。

 嵯峨・淳和州という漢風の時代を通る事により、和歌は著しく漢風に傾く。小町個人をとっても、文人である阿倍清行や文星康秀との交友があり、彼らは漢風の歌を作っている。小町の歌に閨怨詩的傾向があり、それを古今撰者が認めていた事は、当然ではないか。

 

   三

 このような閑怨詩的歌を作る小町は、どのような人であったのか。彼女の周囲の男はいずれも五位・六位程度であるから、小町も高い身分とは考えられず、後宮において職事官であれば古今作者名の表記にそれが表われるであろうに、それがなく、「小野」の姓を伴って表記されている事、などから、散事官の氏女説をかつて立てた。彼女が後宮の一員であれば必ずどのような身分かに想定せねばならず、これ以外の合理的公約数は考えられないからである。

 氏女と想定すると、小町には次のような条件を課さなければならない。端正な女で、三十歳以上四十歳以下、夫なき事とする大同元年の太政官符の規定である。この条件を小町及び彼女の歌に照射すると、彼女の美女伝説も老残説話も、歌が年寄りじみている事も、不毛の愛を託っている事も、従来小町及び小町の歌についていわれてきた事がそのまま説明できるのである。

 氏女説の難点は、氏女の実態が十分把握できない事である。資料から推測できる実態は拙著に譲るが、恋歌と関係をもつと思われる、夫なき事という条件だけは再説しておく。配偶者を持つと氏女は解任される、したがって公然の情交関係は避けたであろうが、秘やかな関係はあり得ただろうと考えるのが、当時の風俗からみて自然だろうと思う。人目を忍ばねばならない微妙な愛のあり方が、彼女の歌の枠取りになっていると考えるのである。

 男の愛の得がたき悲哀や焦燥、それは愛を失って悲嘆する閨怨の女の嘆とほとんど同質である。氏女であることの実体験が、ほぼストレートに閨怨詩的な歌という彼女の作品に繋がってくるのである。表現の単なる模倣ではなかったのである。

 

    四

 従来の小町論の多くは、古今の小町の歌を分析する事により小町の実像を求める方法をとる。結果として、表現と創作主体が直接結び付くのは当然の事である。歌から像にアプローチするのもかなり困難で、「やむごとなき人の忍び結ふに」 「四の皇子の失せ給へる」(小町集)の局辺を揺曳するぐらいである。遂に、歌以外の資料から小町像を求めた論もあるが、それらは、彼女の歌の著しい特性との回路をほとんど考慮しないで終る。

 私は、和歌から小町へという方法を避けたのであるが、それを取ったのが田中喜美春氏である。歌を分析し再構築した結果は、小町は小野貞樹を愛していたが、嘉祥二、三年(八四九~五〇)頃失恋し、康秀に言い寄られたが心痛いやされなかった、という事である。俗っぽくいうなら、思う人には思われず、思わぬ人に思われるという構図である。

 古今歌のみを対象とするなら、小町の局辺の男は貞樹・康秀・清行だけで役者は限定されているのであるから、結論は当然そうなる。私たちが知りたいのは、三人の男に囲まれた小町が何であったか、それが歌とどのような回路を持つかである。例えば後宮との関係についても、田中氏は更衣説から始めて氏女説まで否定する。資料なしとして投げだすのであるが、否定するからには仮説を提示するのが研究ではないか。田中説もまた、小町について何も語っていないのである。

 田中説の構図は成り立つであろうか。真樹との破局の嘉祥三年(八五〇)に三河様康秀を登場させる。任三何様の実例を求めると、外従五位下か正六位上である。康秀は元慶三年(八七九)に任縫殿助であるが、縫殿助も従五位下か正六位上が実例である。

三河様も縫殿前も、六位で任ぜられても叙爵への距離は近いのである。康秀は叙爵されていないから、田中説によると嘉祥三年から元慶三年まで、少く見積っても三〇年間六位にあった事になる。こんな事があり得るだろうか。諸国の様に任ぜられた者は、任官後一五年程の後には叙爵している。藤原元真の二五年後の叙爵が飛びぬけて長いのである。嘉祥三年三河掾であるなら、真観年中に叙爵しているはずである。康秀がいつ三河様であったかわからない。『古今集目録』が貞観年中にそれを置くのも、私が元慶初年に置くのも、以上のような事を考慮したからである。元慶初年三河掾から縫殿掾になり、叙爵を目前にして没したと考えられるであろう。

 元慶初年康秀と交友のあった小町が、その時若年であるなら、嘉祥三年ごろ真樹との恋は年齢的にあり得ない。嘉祥三年ごろ真樹と恋をする小町であるなら、元慶初年の康秀との話は、成り立たないか、成り立っても、真実の恋ではないだろう。田中説の構図は無理であろう。

 真樹こそ小町の愛人とする田中説は「題しらず」の六三五・八二二の小町の歌をも、それこそ何の確証もないのに、真樹との愛の枠中に収める。真樹との間を語るのは僅か一首で、それも詠歌事情を全く伝えていない。康秀よりも流行よりも、貞樹の影は茫昧としているのではないか。

 

   五

 私は歌を避けて小町を考え、その小町から歌を眺めてみた。氏女小町と閨怨詩的歌は実に対応し、彼女の実人生がそのまま作品に照射されている事を知った。

 ただ私が逡巡しているのは、彼女の歌のすべてがそうなのか、虚構の、想念の歌がないのか、という事である。愛の許されない氏女であれば、かえって愛欲に対しては鋭敏な異常な神経と豊かな空想力を持つようになり、それが古今の歌を生んだとも考えられるのである。「人の心の花」という透徹した観念などもそれであるかもしれない。

 しかし、それが想念の歌であっても、そのような想念の歌を作らせた情念が、氏女であることにより育まれたのであるなら、その意味で、彼女の体験と歌とは密接な回路で結ばれている事になるのである。

 

【注】 拙著『閑怨の詩人小野小町』 (昭和五四年・三省堂)を参照くだされば幸いである。

田中氏の論は「小町時雨」(『岐阜 大学国語国文学』一四号・昭和五五年二月)。

閨怨詩と小町の歌との影響関係を論じた論文に、後藤祥子氏「小野小町試論」

(『日本女子大学紀要』文学部二七号・昭和五三年)がある。                 

……富山大学教授……