[コラム]『愛宕百韻』を読む 本能寺の変をめぐって
歴史研究家 津田 勇氏著
❖五月二十六日、維任日向守、中国へ出陣として坂本を打立ち、
丹波亀山の居城に至って参着。
❖次日、甘七日に亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参龍致し、維任日向守心持御座候哉、
神前へ参り、太郎坊の御前にて二度三度迄鬮(くじ)を取りたる由申し候。
❖廿八日、西坊にて連歌興行。
発句 維任日向守、
ときは今あめが下知る五月哉 光秀
水上まさる庭のまつ山 西坊
花落つる流れの末を関とめて 紹巴
❖五月二十八日、丹波国亀山へ帰城。(『信長公記』)
これが愛宕百韻の古い、現存する記録である。
百韻の原本は江戸時代に焼失してしまったという。
『信長公記』の史料としての価値からして、光秀が愛宕権現にて鬮(くじ)を取り、
別当寺の威徳院西坊で、坊主の行祐を亭主として戦勝祈念の連歌興行を催したことが確認される。
戦国の出陣作法に乗っ取り、神前で閣を取って、連歌を催したわけである。
ところで、従来、『愛宕百韻』(正しくは『賦何人連歌(ふすなにひとれんが)』という)の内容については、検討されないまま打ち捨てられてきた。戦勝祈念連歌ということで文芸上の評価はなされなかったし、政治的意義からのアプローチも歴史家によってなされ
なかった。連歌が軽視されていたためであろう。
古来、本能寺の変についてさまざまな議論がなされ、史料の裏付けのないまま恣意的に諸説が提示されてきたが、『愛宕百韻』(以下、『百韻』とする)を史料として使おうと誰も考えなかったのが、かねがね私の不審であった。おそらく、連歌への軽視に加えて、連歌を解釈することの難しさもその理由の一つであろう。
たしかに、連歌を解釈することは容易なことではない。
というのは連歌には先人がつくりあげた伝統を構成するおびただしい和歌、物語、史書、漢典、仏典などを踏まえた句がちりばめられているからである。
連歌に限らず和歌や物語や随筆なども同様である。
そこに古典を味わう現代人にとっての障害がある。中世から現在に至るまで和歌、連歌、物語の注釈書が夥しく出されているのも無理はない。
ところが、『百韻』には注釈書がないのだ。不思議なことである。戦勝祈念連歌に注釈がないのは、文芸上の評価対象ではないからであるが、こと『百韻』ともなれば注釈の一つや二つあってもよさそうなのに、と思う。したがって史料として使うすべもなかったのかもしれない。
先人の注釈もなしに連歌を解釈するのは冒険だが、あえて試みようと思う。
連歌の発句は一座の主賓がもつ。興行が催される場と時とを眼前の景に寄せて提示する。そして、興行の主旨、主賓の気持ちなどを句に含ませる。連歌の眼目といってよい。「哉」
で句を締めるのがルールだ。
ときは今あめが下知る五月哉 光秀
まず、光秀の発句から解釈しよう。
発句で大切なのは句切れである。後世のことではあるが、
芭蕉一門は区切れを重視している。
この発句を区切れによって分けてみよう。
ときは今、あめが下知る五月哉 〔A〕
ときは今あめが下知る、五月哉 〔B〕
二つのケースで発句の意味が違ってくることが分かるだろう。
〔B〕によって解釈すれば、「土岐氏である私か天下を知るのだ」という解釈もできる。そうとる人は〔B〕の区切れを暗黙視に前提としているのだ。そう読めば「五月哉」は
「いまは五月である」というだけの下句になってしまう。
じつは「五月哉」には重大な意味が含まれている。〔A〕のように読んでこそ発句そのものの強いリズムと気迫が感じられるゆえんである。そのことを念頭に置いて光秀の発句を解いてみよう。
「ときは今」。この上句(かみのく)の語調にはなみなみならぬ決意の程がうかがえる。名高い諸葛孔明の『出師表(すいしのひょう)』の「今は……危急存亡の秋(とき)なり」が踏まえられているからである。
孔明の『出師表』(出陣に際して将軍が志を上表する文)は、その心情を切々として訴えた名文と賞されてきた。その孔明の心情と決意を踏まえた光秀の句である。
ところで、「とき」に「上岐」が懸詞として重ねられているという定説的な見方も、もし『太平記』というテクストを踏まえていると考えれば首肯できる。
爰ニ美濃国住人、土岐伯言入道頼貞、多治見四郎二郎国長ト云者アリ。
共ニ清和源氏ノ後胤トシテ、武勇ノ聞ヘアリケレバ、
資仙郷様々ノ縁ヲ尋テ、睨(むつ)ビ……
と、巻一に語られた土岐一門の伯寄人道頼貞(『太平記』の誤記。『尊卑分脈』によって「十部頼兼」と正す)、多治見国長らが後醍醐天皇の密勅を給わり、北条氏打倒を図るが、一門の頼員(よりかず)の裏切りで計画が洩れ、六波羅方の討手に攻められて、華々しく討死してしまう。
この『水平記』の名高い幕開けを先秀は踏まえていると考えるからである。土岐十郎頼兼が先方の祖という伝承もあるだけに、なおさら意義深い。
次に中句を見よう。
「雨が辺りに降りしきっている」という情景に「天の下知る」という意味を懸けたのだが、上句と合わせて「土岐が天下を取る」という解釈が定説になっていた。しかし、これは「知る・治る」という語の重要性を考慮しない解釈といえる。
というのも「しる」という語は、古代では「神の力によって土地をしろ」という意味を秘めていたからである。のちに「天下」という語を合わせて天皇が政治を司る意に転じた
ことは、「……命……治天下也(あめのしたしらしめき)」という『古事記』の定形句によって証される。
中世には天皇を指して「治天ノ君」といった。「平家世ヲ知リテ久シク……」という慈円の『愚管抄』の用法は、天皇をもしのぐ平清盛の権勢をよく伝えている。
かくのごとき語史を踏まえれば、教養のある光秀が「しる」という重い語を自分のこととして使うとは思えない。
〔B〕の区切れを採り、「ときは今、〔主語〕天が下しる」と分析し、主語に「天皇」を宛てるべきだろう。その理由は下句の「五月哉」を探れば納得できると思う。
三つの史実と三つのテクストが「五月」をめぐって想起される。以仁王を奉じて源三位頼政が平氏に叛して兵を挙げたのが五月、『平家物語』(以下『平家』と略す)である。
後鳥羽院が北条氏打倒に鰍起したのが五月、『増鏡』である。
足利高氏・新田義頁が宣旨を給わり、北条氏を亡ぼしたのも五月、『太平記』である。二見しているのは宣旨や令旨(りょうじ)を給わった武士たちが「横暴」な平氏に戦いを挑むというモチーフだ。
とりわけ、土岐氏にも繋がる摂津源氏の頼政の挙兵から、以仁王の令旨を奉じる河内源氏の頼朝の平氏打倒に至る『平家』、土岐一門の打倒計画の失敗から、足利・新田源氏の平氏(北条)打倒に至る『太平記』の同一構図は注目されよう。
そしていま、光秀も源氏の末裔として「横暴」な平氏(織田)の信長を討つべく蹶起する。しかも、高氏そのままに丹波路に兵を返し、老の坂を越えて京洛に突入する……。
近世以前の人が事をなそうとする際、史文学に語られた英雄たちの行為を規範として模倣する傾向があった。幕末、倒幕に奔走した長州人は、自分の行動を『太平記』の楠本正成になぞらえ、「正成をする」と称したという〔註一〕。とすれば、さしずめ光秀は「高氏をした」といえるだろう。
「五月哉」の意義はかくも重いということを理解してもらえたと思う。
さて、光秀の発句に脇句を付けるのは亭主の西坊の坊上行祐である。
水上まさる庭のまつ山(「夏山」が正しい)
『平家』の「橋合戦」を踏まえた句である。
以仁王を奉じる源頼政の軍勢と、平知盛(とももり)を大将軍に、上総介忠清(『平家』覚一本系は上総守とするが、他本によって「上総介」とする。上総は「介」が受領官途)を侍大将とする六波羅勢が宇治川を挟んで激突する。相手の善戦に焦った忠清は渡河せんとするが、……いまは河をわたすべく候が、おりふし五月雨のころで、水まさッて候。
と、知盛に告げ、渡河を断念とする〔註2〕。この情景を踏まえた行祐の脇句である。光秀が頼政に添って句をなせば、すかさず行祐は敵方の忠清に添って応じる。このよう
な趣向こそ連歌の醍醐味であろう。
ここで注目されるのは、忠清が「藤原上総介」だということだ。一時、信長が「藤原」を姓とし、また「上総介」を名乗っていたことを考えると、なかなか意味深長である。
さて、三句目は紹巴が「花の座」をもつ。
花落つる流れの末を関とめて
『平家』から『源氏物語』へと連歌の情景は転じる。『源氏物語』の専門家でもある紹巴ならではの華麗な転じかたといえよう。もとになったテクストは「花散里」である。
政敵の右大臣(信長が右大臣だったことに注目したい)と辣腕家である娘の弘徴殿女御(こきでんのにょうご)の攻勢に追い詰められた光源氏は自らの過失ゆえに、彼らによって官位を剥奪され、都から追放されてしまう。すでに失脚と追放を予期した光源氏は、五
月雨の合間をぬって昔の愛人花故里の住居を訪れ、それなく別れを告げようとする。それが「花故里」の巻である。
天皇の物語上の分身である光源氏の危機は王権の危機でもある。そのことを踏まえて紹巴は「花落つる」と詠み、「花故里」を仄めかしている。「花」は春の何だか、「五月雨」という夏の匂いを含むので、四句目の「ほととぎす」を引き出すのである。
この紹巴の何を正しく解釈すれば、彼が朝廷方の代表として連歌に加わったことが分かる。さらに決定的な証拠を示したい。
一筋白し月の川水
と、紹巴は「月の座」で句を付けている。
中国渡来の伝説によれば、月には桂の大樹かおり、その根元より清流が湧いて川となるという。王朝和歌にも好まれた伝説である。とすれば、「月の川水」が「桂川」を指すことは決定的である。桂川を目指せ、という紹巴の句が光秀の京攻めを促していることは明らかであろう。かくも大事なことを紹巴の一存で表明するわけはない。彼は朝廷側の使者として連歌興行に参加したとしか考えられない。
『百韻』は『平家』『太平記』『増鏡』といった史文学、後鳥羽院の和歌や宗祗の『水無瀬三吟』、『源氏物語』、『史記』周本紀(周の武王が殷の暴王紂(ちゅう)を討つ)といったテクストを踏まえつつ進行する。 その興行を通して光秀は朝廷の意向を受けた源氏が平氏を討つことの正当性を表明したのである。
〔註―〕川馬追太郎「太平記とその影響」『余話として』(文勢春秋)
〔註2〕ここには『増鏡』の永久の乱の記事への示唆も考えられる。「いつの年よりも五月雨晴間なくて、富士川、天龍など、えもいはずみなぎりさわぎて……」(校注古典叢書 明治書院)
【引用文献】
『信長公記』角川文庫
『太平記』日本古典文学大系
慈円『愚答抄』日本古典文学大系
『平家物語』新日本古典文学大系
〈付記〉本稿は「愛宕百韻に隠された光秀の暗号」(『歴史群像』一九九五年四月号)をもとに新たに書き下ろしたものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます