穏やかに…シニアブログ

日常・民話など

終の覚悟を・エッセィ

2020-05-07 17:55:10 | 日記・雑記

長文ですので、スルーO.Kです。2011年に書きました。

エッセィ「終の覚悟を」

東日本大震災のあと「絆」「つながり」という言葉を、耳にすることが多くなった。しかし、つながりを

失った人が急増しているという。昨年放送された「NHKスペシャル・無縁社会~無縁̪死3万2千人の衝撃」を

見て 親の遺骨さえも引き取りを、拒否するという内容に大きな衝撃を受けた。

 かつて日本社会を紡いでいた地縁、血縁といった地域や家族、親類とのつながりが失われ

休速に無縁社会に変わっている実態を、浮き彫りにした番組であった。なぜ、誰にも知られず引き取り手も無いまま

亡くなっている人が増えているのか。

地方都市から都会に出たまま、つながりを失い故郷に戻れない人が急増しているという。

番組では、秋田市出身の男性を追跡調査していた。男性の死は1週間以上誰にも気づかれず、テレビが音を

流し続けていた。アパートの住人も、いつ亡くなったかしらないという。取材をする中で、給食センターで

正社員として20年間勤務。定年まで無遅刻無欠勤だったこと。定年後も日雇い派遣で働き続けていたこと。

出身地が秋田市であることもわかり、取材班は秋田市へ。

両親はすでに亡くなっていたが、近所の人が彼のことを知っていた。高校を卒業後 地元の木工所に就職したが

32歳の時に倒産。地元に親を残して 東京に働きに出たまま両親の死後、故郷とのつながりを失い

秋田に戻れなくなったのだ。亡くなる寸前まで両親の供養料を寺へ送り続けていたという。

それなのに東京の無縁墓地に埋葬され、両親の眠るお墓に一緒に入ることは出来なかった。

なんとも悲しくてやりきれない内容だった。私はこの話を叔父と重ねて見ていた。

 

秋田の私の所に、埼玉の警察から電話があった。「〇〇さんが亡くなっています。明日身元確認に来てください」

80歳の叔父は、叔母に先立たれ独り暮らしをしていたが、時折、私が電話をかけると元気そうだった。

食事を作るのが大変なので、近所の食堂から毎日 夕食を配達してもらっていたという。

翌日、食器を下げに来た食堂の方が、叔父の異常に気づき救急車を手配してくれたのだ。

地域との繋がりもあったので、発見が早くて良かった。

思えば、虫の知らせだったかも知れない。発見された日の朝、妙に気になり何度か電話をかけたが出なかった。

用事があって出かけたのだろう。夜にまたかけ直そうと思っていたところ、夕方に警察からの電話だった。

いきなり身元確認に出向くように言われても、我が家には高齢の母と病気の息子がいるので

家を空けることは困難だと告げた。火葬して頂きあとで、お骨を引き取りたいと話したが、それは出来ないという。

来られない場合は、町にお願いして 引き取り手の無い 無縁墓地に埋葬するとの事。

無縁仏になってから きちんと葬ってあげれば良かったと、後悔したくないので悩んだが出向くことにした。

 

秋田から新幹線で向かい、何度も駅員さんに聞きながら、東武動物公園駅前交番所にたどりついた。

そこに刑事さんが迎えに来てくれ、検死を担当した医師の元に案内してくれた。

死因は、脳溢血、死亡推定時間は早朝3時頃、倒れた居間でそのまま亡くなったとのことだ。病院をあとにいよいよ

警察署の遺体安置室に向かう。「では、確認をお願いします・・・」 大きな冷凍庫の引き出しには

思わず目を背けたくなる 正視出来ない姿があった。一糸まとわぬ人が人がそこにいた。

確認が遅くなる事を想定して、冷凍保存するために、衣類は張りつくので全裸にするそうだ。

叔母が亡くなった時に会って以来、10年ぶり位でこんな形での再会に、気が動転してしまった。

本人かどうか、よくわからなかったが、落ち着いて良く見ると面影は残っていた。

「叔父に間違いありません」確認した。

そのあと、取調室に入り色々と説明を受けた。担当した刑事さんが、北秋田市の出身だということで

緊張が少しほぐれた。 その間に警察が手配してくれた葬儀屋に、遺体を一晩安置してもらうことになった。

私は、葬儀屋が手配してくれたホテルに泊まったが、家を空けたことの心配と 冷凍の叔父の姿が

目に焼き付き 一睡もできないままに朝を迎えた。

 

翌日、叔父が住んでいた借家の 大家さんの立ち合いの元に 家の中を見たが、何をどう見れば良いか立ちすくんだ。

印鑑と、通帳は見つけたものの、ゆっくり見ている暇はないので、家財道具などすべての物を、

ゴミ処理業者にお願いして、役所に出向き 死亡届、その他種々の手続きが スムーズに進まず気をもんだ。

叔父は子供がいない。「私が死んだら後の事は頼む」と、生前の叔父からは、一言も無かった。

なぜ、私がこんな事をしなければならないの?と いう思いが頭をよぎる。

銀行が 役所のすぐ近くだったので行ってみる。窓口に訳を話して 葬儀屋、ゴミ処理、斎場に支払う分のお金を

引きだすことは出来ないかと訊ねてみた。しかし、本人が死亡した場合は法的な手続きが必要で、遺産相続の

権利者全員の戸籍謄本、印鑑証明がなければ支払いできないと言う。私と同じ立場の従姉は10数人いるが

亡くなった人、全く連絡の取れない人もいる。手続きは全く不可能で、あきらめることに。

 

出棺の時間がせまっていると連絡があり、葬儀屋に行くと叔父の顏は、見ないほうがいいという。

解凍してひどく変わり果てているらしい。斎場は民間の施設で かろうじて空きがあったので助かった。

出来たばかりの新しくてきれいな所だった。一人でお骨を拾いながら泣けてきた。

「叔父さん、”こまち”で一緒にかえろうね」 近くの駅から上野駅に向かう。上野駅では、待ち時間が

1時間ほどありベンチに座りたかった。しかし昨夜は、一睡もしていないので、座ったら眠りこけて

乗り遅れては大変なので、立って待つことにした。乗ってしまえば終着駅だ。どんなに眠りこけても大丈夫。

だが、妙に頭がさえて眠れなかった。夜10時半頃自宅に帰りつき、二人の顔を見たとたん、張り詰めていたものが

スーっと体から抜けるのを感じた。

 

お骨を1週間自宅に安置後、葬式を行い 祖父母、父の眠るお墓に納骨した。男8人兄弟の中で

1番長生きした叔父は、80歳で鬼籍に入り、ようやく孤独と別れることが出来たのだ。

埼玉の寺に預かってあった、叔母のお骨も のちに納骨してあげた。

「叔父さん、倒れる時にあなたは 何を思いましたか? 死後の事をきちんとして、おくべきだったと思いましたか」

現在私は、85歳の母、40代の長男と3人暮らしだ。次男は県外で家族とともに暮らしている。

私が平均寿命を生きるとすると、あと20数年ある。私の死後に長男が独りになり、叔父と同じように

なるかもしれない。田舎といえども、親戚や地域との関係は、希薄になっているのが実情だ。

いずれ、その時が来ることを受け入れて、覚悟して生きるようにと息子と話し合っている。

(2011年 あるエッセイ部門に応募 内館牧子特別賞をいただく)

私も、いつ・どこで・どのような形で、召されるかわからない。

断捨離、家の事などしっかりしておかなくてはと・・・

長文を読んでいただきありがとうございました。