各地散策と歴史

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佐世 八十郎(前原一誠)〖萩の乱と関係者〗・最後の武士

2018-08-27 21:03:12 | 逸材
何れの時代でも時流に乗れない、乗れなかった人達はいるもので今年は維新150年と言うことでNHK〖西郷どん〗、山口県では維新をテ-マにした〖山口ゆめ花博〗が展開されている。今回は中学、高校、大学であまり教えられていない歴史人物を紹介したい。

長州藩士 八組士47石 佐世 彦七の長男「佐世 八十郎こと前原 一誠」(1834年3月20日生まれ)は、萩の乱の首謀者として地元廃寺である成就院にて除族(士族の族称)のうえ斬首された。松陰は彼のことを「佐世は隠然たる南部の一敵国」と評した程の逸材で後に大村 益次郎の後任として明治二年に兵部大輔にまで累進した。(一誠、山田、佐世兄弟ともに処刑)

旧宅の古写真



47石の武家屋敷の門



威風堂々の前原一誠 【42才歿】



明倫館の俊秀 奥平 謙輔【山口県二十大区七小区土原 士族】 【36才歿】



【萩の乱】(松本 二郎著 昭和六十年 マツノ書店発行、山口県近世史研究要覧、日本史辞典 引用)
私は「萩の乱 前原一誠とその一党」を書かれた著者 松本 二郎さんは明治31年(1898年)のお生まれで平成8年(1996年没 享年98才)でお亡くなりになっておられます。先生は元来は旧制中学・高等女学校の教師で退職後は地方史研究に功を成された。先生がまだ、お若いころ乱の関係者(藩士 横山〖旧姓 三戸〗俊彦(八組士禄84石)の従僕でこの乱にも参加した〖白井 林蔵〗(後年は代書業)氏を見掛けておられる。明治~昭和期に書かれた地方史、歴史書は正に見分したエビデンスを伺わせられる。この書はエビデンス名著である。発行者であるマツノ書店 松村 久様もこの度、お亡くなりになられた。ご冥福をお祈りいたします。

【関係人物】

(八組士 94石五斗)奥平 謙輔は、萩の乱の主動者で参謀格の任にあり、その責により斬首された人物だが生前、戊辰戦争に参加し東北地方での戦いでは功が高かったと言われている。藩校 明倫館の秀才であったが酒好きであっとも言われている。高慢不遜の謙輔には明治九年生まれの長女「みの」がおられる。ただ、この人の功績は奇兵隊ともに会津戦争に参戦している中、会津藩士を通じて会津藩士の子弟である山川 健次郎ら少年三名を預かり書生として預かり教育したことである。「あらゆる書で紹介済みで省略」

(遠近付 佐藤 信寛は、逃走した前原達を捕らえた当時の島根県令(現知事)で萩藩士であるが、熊毛郡田布施の在住の武士で藩校の明倫館で学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修め、明治に入り浜田県令から島根県令となった。佐藤は前原達を山口県へ護送することを拒み続けた。私は独身時代に田布施の【佐藤家】【岸家家】(旧士族)に地元知人に案内されたことがある。片田舎にある古い家屋だったが高潔感・風格を感じたことを覚えている。【元総理大臣 岸 信介、佐藤栄作氏の実家で地の人は皆、御存知の士族の家柄。岸家の古ぼけ朽ちた白塀が一層、質素ある武家を感じられた】

他に有名な支藩長府藩士 乃木 希輔の実弟で萩藩士 玉木 文之進の養子となっていた〖玉木 正誼〗、老齢で吉田 松陰の血族である旧姓杉家〖玉木 文之進 67才歿〗(八組士禄40石、後50石の増の話を辞した剛直厳正な人)、吉田松陰の甥の〖吉田 小太郎 19才歿〗などの人達がいる。
幕末期には他家への養子、縁者との婚姻は特に、武家、庄屋・自作農等の旧家では多く見受けられる。話は逸れるが、その昔は考えられないが幕末時には、農家・商家(庶民)の旧家及び富裕層と武家の縁組が見られるし、武家株を買い武家筋を継承することも事実、あった。〖有名な伊藤 博文氏は農家の出自だが父親が萩に出て武家奉公となりさらに、陪臣の養子となつため必然的に博文も陪臣身分になり士籍の末席の末端、更に士分(正規の武士)に登用された。基本的に知的レベル、調性力・交渉力・統率力、行動力等、現在で盛んに言われているリテラシ-、コンピテンシ-総合能力に優れていた有能人物であったことには間違いない。〗。逆に、庶民(村医家、庄屋)の旧家の出自だが、当時の統治者身分【10%未満】である超エリ-ト身分である武家に養子に入り武士身分になったが、その後の活動等もあって最終的に主流派【高杉 晋作、山縣 狂介等】により斬首された。

この乱の後、西南戦争へと続き士族の秩禄処分、抵抗しても到底、駄目だとの士族の生き方の道しるべとなった。〖秋月、佐賀、鹿児島〗

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