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民主主義ってなんだろう--「マイケル・サンデルの白熱教室」後編

2012年06月24日 | ふと思ったこと
マイケル・サンデル教授の白熱教室、「これからの日本の話をしよう」[後編]を見た。

あっという間に1時間が過ぎてしまった。
原発再稼働問題は、どうしても感情的になってしまう私自身を自制しつつ(普段なら再稼働しろという人が映れば、テレビに向かって悪態ついているから・・汗)
どのような意見も、敬意を払って受け止めるサンデル先生に、敬意を払いました。・・・でも、意見を聞くたびその表情が曇ったり明るくなったり、っていう部分があって、彼の期待以上の答えだったか否かちょいとわかっちゃうのが可笑しくて、また可愛くて(失礼!)。

 
原発再稼働問題、がれき問題、電気料金値上げ問題、情報の信頼性という問題、論点が多くて、前回の「お金」のテーマより、やや消化不良の感じはしたけれど、単純に是か否かという結論ありきではなくて、どうしてそう思うのか、ということを自分自身確認する、という訓練も大事なんだなあと、今になって気づいた。
そうすることで、もしかしたら結果としての是非は違っても、相手の話をきちんと聞くことや、自分の思いを再確認することで、願っていることはひょっとして同じなんではないかと気づくことができるから。だったら、反対意見の人ともどこかで折り合う部分ができるはず。
(ただし、その人が「怒り」「恐怖」「欲望」などの意識にすっぽりはまりこんで抜けられていなかったら、何を言っても平行線だから、まずはお互い冷静になって、それらの意識を一旦手放すことも大事だと老婆心ながら・・)



特に印象に残ったのは、最後の問、「原発事故は避けられなかったか、避けられたか」という設問。

会場は「避けられた」と答えた人のほうが多かった。
原発事故が人災という捉え方をすれば、安全対策を十二分に行なっていれば避けられた・・・という意味でそのような答えが多かったのだと思う。
その設問について意見を述べた会場の二人の男女の答えは、どちらも意外だったが、心打たれた。

「避けられなかった」を上げた女性は、
「『避けられた』という答えを出して、東電が悪い、国が悪い、と誰かのせいにしたくないから、こちらにした」というようなことを言ったのだ。私達だって誰かに責任を押しつけてきた、国や企業をきちんと監視して来なかった。この議論のテーマが「民主主義」であるからこそ、よけい誰かのせいにするのは嫌だ・・・というような意見だった。(記憶で書いているので、細かいニュアンスの違いはお許し下さい)

一方「避けられた」を上げた男性の一人は、同じ理由で「避けられた」にしたのだと。つまり、
「天災は避けられないことだけれど、事故が起こるまで国民は、原発に対して何も声を上げなかった。誰かの思わくではなくて、自分たちが意見を出して決めてゆく、声を上げてゆくことができたら、避けられたのではないか」というような意見。(こちらも記憶なので細かい違いはお許しを・・)

無関心だった自分たちの責任だってあるのだから誰かのせいにしたくないという女性、それを認めるからこそ、ちゃんと言うことができるなら「避けられた」と言った男性。どちらも、言いたいことは同じだったんだなあと。

政治なんか関心がない、誰かがきっとうまくやってくれるんだろう、という人々の無関心が原子力ムラを肥大化させ、積もり積もって原発事故に繋がってしまったと言ったら言いすぎだろうか。

民主主義とは、おそらく、こういう下からの意見をどんどん言い続けることで社会を変えてゆく、っていうことなんだろう。民主主義だって言いながら、数の理論、多数決で物事がどんどん決まっていってしまうことに嫌気がさしていたんけれど・・・、それって本来の民主主義とは違うものだったのかも・・、とようやく気づかされた。
サンデル先生は、3・11以降の日本の変化を「民主主義の復活」と言った。だとしたら、サンデル先生自身も民主主義が危機的状況だったと、感じていらっしゃったのかもしれませんね。

「アラブの春」に代表されるように、今や世界的な規模で、民衆が下から声を上げ始め、政治を変えだしている。


首相官邸前で大飯原発再稼働反対を訴える人たち
=22日午後、東京・永田町で(東京新聞)


22日首相官邸前で、再稼働反対デモのために主催者発表で4万5千人もの人たちが集まったと、23日の東京新聞でも報じていた。
集まってきた人たちの中には、それまで政治的なことに縁遠い、あまり声を出さないできた人たちも大勢いた。
くしくも、最後に意見を述べた会場の男性は「日本の春」まで行かなくても、その手前の「小春日和」?くらいにはなっているのではないかといったが、たしかに、「春」手前くらいに、目覚めた国民が増えてきたように思う。

サンデル先生は、既成の権力や政党から民主主義は育ちにくいのではないかと、言っていた。
私もそう思う。なぜなら、選挙では、なんのしがらみのない人は大抵落選する。
大企業や組織からの支援を受けた人でないと、当選しない。勢い、そういう政治家は国民ではなくて、自分の後ろにいる誰かたちの為に働くのだ。
そういえば、この前、民主党議員は、東電労組委員長に「裏切った民主議員に報いをこうむってもらう」って言われていたようだし・・・これって脅されてる?!

民主主義とはなんだろう。
国民一人ひとりが、人任せにせず、どうしたら良いか自覚を持って考え声を上げてゆくことなんじゃないだろうか。
自分の所属する会社や組織やグループから、いったん離れて、一個人として考えることが大事なんではないか。でなければ、いつまでたっても、一部の会社や組織の利益だけが存続して、全体の利益が伴ってこないから。
自分の代だけならその人にとっては、それでもいいのかもしれないけれど、自分の子や孫の世代まで考えたとき、本当にそれでいいのかと、立場を離れてもう一度、一個人として考える。
電力会社の社員や、官僚や、政治家も皆同じ、会社名や役職を剥がせば、皆同じ、ただの人間じゃないか。





最後に、余談だけど、小沢さんが、また離党して新党を作ろうとしているけれど、小沢さん個人の考えであるならそれを私は尊重する。
だけど、小沢グループと呼ばれる方たちが、皆小沢さんと同じように思っているのかは、疑問です。

このことに関して、菅さんはブログで、

小沢グループと呼ばれている皆さん、ぜひ目を覚ましてほしい。小沢氏の個利個略のために、駒として利用されることがないように、目を覚ましてほしい。そして小沢氏の呪縛から離れて、自らの判断で、行動してほしい。


と、述べた。実は私も、ずっと同じように感じていたので、ものすごく共感した。
小沢さんはいつも自分はあまり表に出ないで、自分の周りに取り巻きを作り、彼らを利用して代弁をさせ、巻き込んでゆく。
国会議員は皆、国民に選ばれた尊重すべき一人の政治家という意味においては、対等の価値を持っているはず。小沢グループの人たちというのは、自分の意志すら、小沢さんにすべて委ねてしまうのだろうか。そこに、民主主義はあるのだろうか。

どのようなグループであれ、そこからいったん離れて、個人的な怒りもいったん手放して、どうか一個人としての自分がどうしたいのか冷静に考えて欲しいと思う。
その上で自分で決めたことならいいけれど。
けれど、あまりにも思いつめ、息苦しくなるような決断は、人からエネルギーを奪うアトラクターフィールドに入ってしまった、ってことかもしれませぬよ。


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