嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

TPPのこと、よくよく調べてみれば…

2011年11月15日 15時30分07秒 | 政治
民主党マニュフェスト2009(2009年7月27日発行)を調べなおしてみました。

52番目の項目に
確かに自由貿易協定の推進を積極的に進める趣旨のことが書いてありました。


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【東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する】

○中国、韓国をはじめ、アジア諸国との信頼関係の構築に全力を挙げる。

○通商、金融、エネルギー、環境、災害、救援、感染症対策等の分野において、
 アジア・太平洋地域の域内協力体制を確立する。

○アジア・太平洋諸国をはじめとして、
 世界の国々との投資・労働や知的財産など
 広い分野を含む経済連携協定(EPA)、
 自由貿易協定(FTA)の交渉を積極的に推進する。
 その際、食の安全・安定供給、食料自給率の向上、
 国内農業・農村の振興などを損なうことは行わない

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その他、各所にある資料で気づいたことを
引用したりリンク貼ったり。

「FTAAP」
別名:アジア太平洋自由貿易圏、アジア太平洋自由貿易地域
英語:Free Trade Area of Asia-Pacific
・TPPよりも大きな枠組として構想されているビジョン。
 TPPのゴールはFTAAPであると言われている。
 うまくいけば世界人口の約4割、世界の国内総生産の約6割に達する
 経済圏が出来上がる。

「ボゴール目標」
引用元
http://www.mofa.go.jp/mofaj/Gaiko/apec/qa_9.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/apec/2010/docs/aelmdeclaration2010_j.pdf

>「先進エコノミーは遅くとも2010年までに,また,途上エコノミーは遅くとも2020年までに自由で開かれた貿易及び投資という目標を達成する」


私がわからなくなるとき、私は死ななくなる。

2011年11月11日 21時36分36秒 | 再考
気付いた。

人は「死ぬ」んじゃなくて、
この世界にずっと居たままで、
極限無意識に薄まるだけだ。
人は産声と共に生まれるわけではなく、
生まれるという儀式を通過するだけで、
ゆっくりと覚醒する。

変化と変化の中に
【同じ】という意識的な[私]というフレームを
発見できなくなるだけで、
無くなるわけでもなく、
もともと出現したわけでもないのだ。

何か僕は誤解していた。
死んだらこの世界から解放されて、
全く想像もしない
超絶世界にいけるのかと勘違いしていたが、
そんな瞬間移動みたいなことではなく、
単に痛みを理解することが出来ないほど、
【あちこち】に薄まるだけなのだ。

だからきっと、大事な事は、
生の中に死を発見することよりも
[私]と[私]の間に心を発見することの方が、
心の在処を見つけて実感することの方が、
より人間らしいんだと思う。

私をより強く思い込み、
【私】として過剰に
確固たる私という強い引力に縛られるほどに
私は死がおそろしくなるのだ。

だから、我を溶かすことに成功すれば、
もうあまり、死なんて恐くはないのだと思う。
私が私である限り、私は死ぬ。

TPPで議論される24の分野

2011年11月04日 12時26分43秒 | 政治
<主席交渉官協議>

<市場アクセス(工業)>

<市場アクセス(繊維・衣料品)>

<市場アクセス(農業)>

<原産地規制>

<貿易円滑化>

<SPS>

<TBT>

<貿易救済措置>

<政府調達>

<知的財産権>

<競争政策>

<サービス(クロスボーダー)>

<サービス(電気通信)>

<サービス(一時入国)>

<サービス(金融)>

<サービス(e-commerce)>

<投資>

<環境>

<労働>

<制度的事項>

<紛争解決>

<協力>

<横断的事項特別部会>

ときどき ただ おもうんだ

2011年10月17日 12時37分11秒 | 詩に近いもの
農業革命によって飢える時代から
 毒(化学物質)の多様化、病気の多様化に変化した。
  そして、食っていくだけなら出来るようになった。

産業革命によって単純労働の時代から
 複雑な労働に変化し、役に立たない虚業が増えた。
  そして、仕事しなくても良くなった。

情報革命によって考える時代から
 知識ばかりで整理しなくても済むようになった
  そして、悩みばかりが増加した。

ときどき思う。
日の出と共に起きて、
 畑を耕して、
  身体が汚れても気にしないで
   虫に刺されても気にしないで
    明るい時だけ何も考えずに働いて
日が暮れたら床に就いて
 何も悩まずに眠って

野菜だけを食べて
 おもいっきり走り回って
  誰とも争うことなく

たった一人で生きていけたら

僕はたぶん、自殺なんか、しないんじゃないかって。

ときどきそう思うんだ。












でももう無理だね。
カオスのシャボン玉がココアの色に混ざり合ってる。
もうコーヒーとクリープを分けることは出来ないよ。

もしもビッグバンなんか起きなかったら
100%の無限黒点存在は幸せなのかな?

生きてることが嫌になるんじゃなくて
生まれたことが嫌になる子供は
いったいぼくのほかになんにんいるんだろう

時々思うんだ
死にたいんじゃなくて
100%の生が欲しいんじゃないかって
それくらい、心は【死】が怖くて恐くて
こわくてこわくて
痛いいたいイタイいたい痛い って
いたいって
泣き叫んでばかりで
それは生まれた瞬間の産声の嘆きで
ずっと死を恐れる残響音で
ずっと僕の産声が 
         耳にへばりついて離れない

それだけなんじゃないかって
おもうんだ。

おもうんだよ。


ただ、おもうんだ。

僕の居る場所

2011年09月01日 11時29分41秒 | 考え事
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【さよなら。】

今度こそ、僕は確実に死ぬ。死ねる方法を見つけたから。
さっき試してみた。今も呼吸が苦しいけど、生きている苦しみよりはマシだ。
だから、これが僕の遺書になる。

彼女のいない、この世界に生きていたくない。
でも、彼女を助けられなかったのは僕自身だ。
僕に全ての責任がある。
だから、僕は死ぬ。彼女の元へ行く。彼女だけじゃない。トリエラやなーパパも待っている。寂しくなんかない。
むしろ、この世界で生きている苦しみよりはマシだ。

今まで、色々とありがとうございました。
僕のことなんか忘れて、皆さんは生きてください。
僕の最期のお願いです。
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上記の文章は、すべて引用です。
最初の【】はmixi日記のタイトルだったので
本文と区別するために墨付き括弧を私が付加しました。

今年の5月5日、友人(大学時代の先輩)は
この遺書を残して亡くなられました。
また、その際に
「自分が自殺したことを隠さないでほしい」
と、本人が手帳に書き残していた事がわかっています。

この文中における彼女とは奥さんのことであり、
奥さんが亡くなった事に関しては
理由の推論や死因などについて、
生前の先輩本人から直接電話で詳しい話を聞いていました。

電話口で淡々と奥さんの死について告げる彼の様子から
なんとなくおかしな心理状態を感じ取ってはいたものの、
「先輩は奥さんが亡くなったこと、平気なんですか?」
とは恐ろしくて聞けませんでした。

実際のところ、まったくもって彼は平気では無かったのですが、
そのことを考えると、
少し薄ら寒いような気持ちになります。

また、前日の5月4日には
下記のような文章を遺していました。

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【死にたいのに死ねない。】

何度もね、10回以上方法を変えて首を吊ろうとしたんだ。
けど、ダメだった。うまくいかなかった。

彼女を死なせたのは僕だ。
彼女がいない、何の価値もない、この世界に僕はいたくない。

どうしてかな、ただ死にたいだけなのに。
どうして死ねないのかな。

彼女と過ごした幸せだった日々。
それはもう戻ってこない。
僕があの日、彼女のことをきちんと見ていたら、こんなことにはならなかった。

もう生きていたくない。
生きているのが苦痛でたまらない。
誰がどんなに慰めたって、たぶん僕には癒しにも、解決にもならない。

ただ、死にたいだけなのに。
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つまるところ、僕にはもともと為す術はなかったのです。
でも、本当にそうでしょうか?
本当に僕には、どうしようもなかったのでしょうか?
世の中の孤独には、いくつかの種類があります。
人の数だけ異なる孤独があり、
100人居れば100種類の孤独があると言うことも出来ます。
哲学的暴論で無理に切り取れば、孤独にも一般的側面と
個人的側面があるはずです。
個人的側面は100種類の孤独ですが、
一般的な孤独には、たった二種類しかありません。

「自殺するほどの孤独」と「自殺はしない程度の孤独」です。

わかりづらいので、
この文章に、自意識の代名詞を埋め込む。

「自殺するほどの彼」と「自殺はしない程度の僕」
両者の違い、境界線はどこにあるのでしょうか?

先輩の未来が絶望で埋まっていた、という話なら
僕の未来も絶望で埋まっているという点ではさほど違いはありません。
親しい人が亡くなった、という話であれば
僕も親しい人が亡くなっています。

少し話が逸れますが、最近あちこちの墓参りに行きました。
親戚のおじさん、母方の祖父、父方の祖父、姉。
爺ちゃんと姉貴に関して言えば、同じ家に住んでいた家族です。
僕は爺ちゃんのお通夜の時、式の参加を拒みました。
しばらく家に篭もって一人で迷ったあげくに、私服で少しだけ参加しました。
死が個別のものであり、特別であるのなら、
定式化され、一般化された黒い喪服の人達の儀式に、
僕は巻き込まれたくないと考えたからです。
爺ちゃんの死体はそのときにしっかりと棺桶をのぞき込んで確認しました。
翌日、僕は葬式に参加しませんでした。
家族や親族はみんな参加しましたが、
僕だけは参加しませんでした。

あの、亡くなった日の朝、寝ていた僕に届いた
明け方頃のうなり声ともうめき声ともつかない、
いままで聞いたこともないような、声と音の中間音。
婆ちゃんのすすり泣く声、救急車の音、
家族の声、関わりを拒否する僕の声。
耳から離れない記憶。

同じようにまた、僕には先輩と話した最後の電話の声が
今でも残っていて、ふとした拍子に思い出して
その声が聞こえるのです。

一つ大きな違いを言うのであれば
僕は亡くなった人を愛しては居ませんでした。
故人の一人一人に対して、僕なりの特別な記憶はあります。
姉貴が植物状態だったときの、あの冷たいけれど
生暖かいような、というよりは、生ぬるい、医薬品の混じったような体臭と空気の匂い。

会うたびに「きばってしんさいよ?」と独特の方言で
僕たち子供を励ましていた爺ちゃんの声。

色々なものが僕の側で通り過ぎて
死者たちの声は、十分すぎるほどリアルに聞こえていても
やっぱり僕は、彼らとは違っていて、生きている。
生に縋り付いている。

なにが違うのでしょうか?
彼らと僕と、いったいどこに境界線があるのでしょうか?
死にたくも生きたくもない。
絶望したときには死にたい気持ちにもなるし、
嬉しいことがあれば生きていたいと思う。
ほんの少しの違いで、気持ちは浮いたり沈んだりする。

何が違うのでしょうか?
彼らと僕と。
あるいは 僕と、君たちと。
もしくは、僕と君。

心のどこかで他者を捜して
ゆっくりと未来に振り返るように
僕は、今の過去を見ている。

相対的な世界の中で

2011年08月19日 22時19分48秒 | 
宇宙の爆縮は、すでに始まっている
ただし、それは爆発的に広がる世界の中で
相対的に起こっている。

遠くを見ている

2011年04月24日 02時37分19秒 | 
遠くを見すぎている

うまく、近くを見ることが出来ない。
遠くを見続けることは
無意識にやってしまうのに
無意識に、やり続けてしまうのに。

すぐ近くの、現実を見ることも、
受け止めることも出来ない。
ましてや、受け入れることは、到底出来ない。

遠くを見ている。
ただ、ぼくはずっと

遠くを見ている

人生でもっとも大事なことは

2011年04月09日 11時11分31秒 | 
人間になることだ。

…ただ、僕がなれるかどうかは、わからない。

諦観と咀嚼についての考察。

2010年12月07日 07時05分23秒 | 考え事
俺が受け入れることの出来るものは
俺がよく噛んで、バラバラになったものだけ。
俺自身が破壊していないものは
俺に解読することは出来ない。

だからきっと、俺はいつまでも、世界破滅させたいという
願望を持っているのだろうか。

強く受け入れたいと思ったときにだけ
対象を破壊したいと思うものだから。

執着がなくなったとき
俺は、もう、何かを受け入れることはできない。
ただ、そこで受け取るだけ。

終わるために。

演幕のからくり人形の側で。

2010年11月08日 09時39分44秒 | 考え事
僕の作った庭の中で人形が飛んだり跳ねたり。
一つは僕と同じ色をした人形で、
僕が作ったかどうかは定かじゃないが
僕と同じ動力で動いて、僕と同じ水を飲む。
同じ部品で出来上がっているように見えるのに
姿も形も違う人形が
たくさんの風景の中に溶け込む。

見えない時が流れて見えない時間が経つ
どうしようもない堅さの中で
やわらかくそびえ立つお城のように
ガラスのような、もろくて固い影達が
失われた時を取り戻すように、演劇を奏でる。

二つの人形は、いつも対称的な位置に立つことで
二つの違う世界を表すけれど、
それは投影によって浮かび上がる光源が一つであるならば、
一つの同じ太陽に照らされる影であるならば、
けっきょくは、同じ痛みと、同じ強さの振動と
僕たちを取り巻く、巨大なねじまきの仕掛けによって
動いてゆく寂しいからくり人形。

お茶を運んで、お客を喜ばす仕掛けも、
同じ糸で動く演幕のかなしいあやつり人形も
決して外に出ることはなく、
ただ、外に憧れることで、私たちの中に棲んでいる。

もし、箱庭の中で乾いた砂が音を立てて風に流されていくのが
音楽の正体であるなら、
きっと音楽が終わるときには、
その小さな箱庭を壊すのは、僕の役目なんだ。

すべての人形の目が光って
僕を黙って見つめるとき
僕は、人形の美しさを。

決断力。

2010年10月22日 11時40分44秒 | 考え事



「人は生きているあいだに どれほど世界を変えることができるだろう?」
また、人は生きている間に、どれくらい、セカイを変えることが出来るんだろうか。

数多くの絶望を感じ、ほんの少しの希望を感じ、
知りたいことを知り、理解したいことだけを理解する。
嘘に目を奪われたり、真実を追い求めたり
暗い影だけを見つめたり、ありえないほど明るい自分に憧れたり。

ほんのすこしの、自分をわかってくれそうな友達としゃべり
ほんのすこしだけ、他人をわかったようなつもりになる。

そうやって、日々繰り返して
また、おなじ絶望を、こどもたちに伝えるだけが僕のリレーなら。
いまの僕に、生きる意味なんてないんじゃないか?

…。
……。。

…………。。。。

いつだってぼくは中間地点にいる

いつも、僕だけがセカイの中心に居たんだから。
いつも僕だけのセカイを大事にして
いつも僕だけが叫んでいたんなら

ぼくらは、いつも中間地点にいる

すこしだけ、絶望に心躍らせながら、
すこしだけ、希望をつかめるんじゃないかと、
絶望をなだめる歌をうたう。

きみとおなじ世界に執着して
ただ僕はぼくを繰り返す

なにも決められないまま
なにもできないまま。

僕たちは世界を変えることができない。
だからこそ、今だけは、今日を変えることができる大人になりたい。

大人になることを、こわがる君に。
大人になれないと、いいわけする僕に。

今日という日を
今という瞬間を
つたえることができるように

きょうはことばをtojiyou.

読書の余韻

2010年09月09日 17時58分41秒 | 読書
小さい頃は、漫画を読むのが大好きだった。
それに比べて、僕は小説を読むのが苦手な子供だった
決して想像力が豊かな方とは言えなかったし、
僕はいつも自分が生きるために金勘定をして、
どうやったら日々の暮らしをより効率よく切り詰めることが出来るか、
そんなことを電車に乗りながら冷徹に考えているような子供だった。

しかし漫画を読んでいる時は夢中だった。
その世界に没頭し、まわりの時間を忘れてハッとなることや
漫画を買いすぎて親に怒られることすらあった。

中学生の頃、読書感想文の宿題をやるために
僕は嫌々ながらも、活字ばかりの小説を読んだ。
どちらかと言えば耐えることばかりで中に入り込むことの難しかった
昭和文学だが、僕はたまたま題材として
武者小路実篤の「友情」を選んだのだった。
友情について、多くは語らない。
ただ、そこで泣きながらその本を読んだことが、
結果的には、僕にたくさんの友達を作ることに繋がったし
それ自体は後悔はしていないし、むしろとてもいいことなんだと思う。

同じ本の後ろに収録されていた短編エピソード、
「愛と死」それが僕に影を落とした。
自分の行為のすべてを文学のせいにすることなど許されないが、
愛と死は、知人の妹を愛してから失うまでの話が
克明に描かれた短くて小さな悪く言えば些末とさえ言えるような
もの悲しいエピソードだった。
そこに塗り込められたストーリーの、
どこまでが体験に基づき、どこまでが空想の産物で、
どの程度フィクションなのか、僕にはわからない。
ただ、今の僕にわかることは、武者小路実篤の書いた小説は
幼い少年の心を深くえぐり取るような、喪失のエピソードによって練られているのだ。
そのテキストで編まれた残滓を、僕は思春期の心でまっすぐに見つめてしまい、
そこから熱っぽい情の籠もった不安を読み取ってしまったのだ。

愛したものは死んでしまい失う
友情を信じた者は葛藤の中でそれを破壊する
それは弱さと幻想の走馬燈だ。
小説で走らされた想像力の軌跡は、燃え尽きる一瞬が鋭く輝く流星だ。
流れ星の尻尾が長く続くほど、
僕の残滓は尾を引いてしめっぽく苦しく燃える
そこに映った想像力の造形が苦しくて、
僕はより一層、小説から離れていくのだ。

もう少し、夢を追う物語を、
僕は丹念に少しずつ食べるべきだった。
読むことを決して後悔することのないように、
終わらない果てしない物語を読むべきだったのだ。

中毒性を持った活字が語りかける
物語の終わりを、僕は期待しながら読み進める。

まさしさんへのオヘンジ

2010年09月04日 21時00分59秒 | Weblog
まさしさん、コメントありがとうございます。
なぜかわかりませんが、読解するのに時間がかかり、
2、3回読み直してようやく意味がわかりました。

親父とお袋のセックスの結果として、
僕という赤ん坊が生まれたって意味だったんすね。

残念ながらというか、なんというか。
小学校の時には、すでに僕たちは性の欲望の海に
無防備な状態で投げ込まれていたと思います。

僕が初めて他人のキスシーンを目撃したのは、
幼稚園の時でした。
同じクラス(クラスって言うんだろうか)の
女の子が男の子にキスしてたんです。
その頃にはすでに、女の子はラブソングを歌っていました。
これはもちろんメディアの影響やなんかで、
実際に内側から発露されたものなのかどうかは、
非常に疑問はあるのですが。

僕がいささか疑問であるのは、
性欲、食欲、睡眠欲、
それぞれを満たそうとすることによってしか、
僕らは何も成し得ないのか?
ということです。

社会からの経済的圧力によって
いわば去勢された状態にあるのが現在の自分の姿であり、
あるいはまた、そのような社会圧力が無かったとしても、
僕は僕自身の考え方の鉄格子によって
性に対する鍵をかけた人間です。

ただ、子孫を残すことだけを目的意識とするのであれば、
そこに特別な教育は必要無いと思うし、
子供達がよく質問する
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
という問いにまっすぐ答えることはできません。

また、進化のメカニズムの方に目を向けるならば、
原生生物の三すくみ状態が崩れて
今のような動物の進化があるのだという説もありますね。

しかし僕はそのようなものとはまったく異なる水準で、
哲学的な意味を満たそうとしなければならないと考えます。
問をたてるのが哲学だとすれば、
もしかしたら全く違う学問のジャンルになるのかもしれませんが。
僕はもっと、抽象的で万能な水準で、
いわば言葉のクスリのような形で、
どうしても、生きることに意味を与えないといけない時代が来ているような
そんな観念に駆られてしまうのです。

すべてが僕自身の個人的な懐疑と
コンプレックスの発露でしかないのならば、
単純に僕が死ねば解決する程度の問題です。
しかし、僕は僕が抱えている問題は、
現代の若者に通じる文化的問題、
共通の社会意識の問題のような気がするのです。
それらを解決せねば、今は僕の心が満たされないのです。

もし、暴力で問題が解決するのであれば、
社会の問題なんて戦争とレイプで弱肉強食にすればいいんです。
「弱い生き物は死ぬ。」ただそれだけの単純な原理でいいのです。
だけど僕らは秩序の中に生きている。
そしてその秩序のシステムは、
常に僕らを拘束しながらも、前へ歩かせようとする
暴力的性質を持っています。

クマムシという生き物は、
体から水分を排除し、自らを乾燥させることによって、
眠りではなく、仮死状態を作り出すことの出来る
独特な生き物です。
それに比べて、僕たちの生態システムはおそろしく軟弱で、
やはり食べ続け、眠り続け、老化(成長)することからは免れません。
そこに僕は意味を与えたいと思うし、
意味を勝ち取りたいと考えます。
それは一つの生きる価値となりうるものだからです。

長くなってしまいましたが、
>我々は所詮動物なのである。欲望のままに
>行動するのもありなんじゃないかと思う。

と、短く二行にまとめたまさしさんに、
楽観的で前向きな空気を感じて
少しだけ応援する気持ちの僕もまた、
ここにのんびり存在していることを付け加えておきます。

原点回帰のほころび

2010年08月12日 19時32分31秒 | Weblog
世の中の悪意に対して
「見て見ぬフリ」をするか、
「悪意と対抗して自分の正義を貫く」か、
あるいは
「毒を食らわば皿まで。」という構えで
悪意を我がものとし、もっと強い悪意を身につけるか、

また、もっと違う方法として、
「他者の悪意を受け入れずに、迷い続ける」
あるいは、
「全ての他者を許す」
というような様々な方法、構え方があるだろうと思います。

特に、性的な問題に関しては
それがある意味では成人の三大欲求であるところの
「食欲」「性欲」「睡眠欲」
の3つに含まれているため、
成長過程においてとてもややこしい問題を含んでいると思います。

では、性欲を否定して、子供の心を守り続ければ、
自分の老化や成長を止められるのでしょうか?

テリトリーの問題として捉えれば、
確かに自分の防衛ラインを必死で守り、
誰にも犯されることのないように、
他の領域にも出かけないように
自分を制御し続ければそれでいいような気もしますが…
つまり、「保守」を堅持するスタイルになるのかな?

僕は世の中の悪意を
自分の潜在的な欲望の種として捉えています。
それを成長させたくないと思い、
「臭いものに蓋をする」ような感じに
現実から目をそらしているのが実情です。
そこで開き直ることができれば、
僕はもっと強欲でアクティブに行動できるのだと思います。

ですが、僕はそう開き直ることができません。

いわばこの問題には、生を肯定できない自分と
性を肯定できない子供の心が燻っていることに原因があります。

たまにそういう状況で居る僕に対して、
「童貞を捨てろ」とか「風俗へ行け」とか
なかば強制的に現実の渦へ飛び込ませることを提案する人が居ますが、
僕はそのような提案に対しては「暴力」に近い悪質さを感じて
異議を唱えています。

僕はこの問題の本質は
マクロ経済と人口爆発の歪みが関係していると考えています。
右肩上がりの成長をし続けることができない資本主義経済圏
地球に閉じ込められて、増え続けるのが許されない人類。

日本はお金をたくさん持ちながらも、
人口の増加が無理に抑制された、ひずんだ国です。
性行為と成長からあぶれた者は、
みずからを檻の中に閉じ込めることでしか、
つまり子供の殻に閉じこもることでしか、
この国に生存できなかった者たちです。

それを僕は政治の責任だとは思っていません。
今は大人のせいだと考えているけれど、
それは僕の子供心の裏返しでしかありません。

無計画に子供を増やし、
【子孫繁栄】と「存続という名の延命措置」しか、
生きる目的を掲げられない哲学の堕落です。

人間の死生観を、もう一度問い直さねばなりません。

心は「なにか」を通過する。

2010年08月10日 12時10分20秒 | 
僕らの感受性が、ほんの些細な言葉の違いや、
美しい造形が破壊されるイメージだけで 脳内がキリキリと痛むのは
体に新しい感覚器官が製造されていく 進化の過程を生きているからだと思われる。

もし、想像を絶する外部の世界と対峙する時、
未来や過去を感じ取る感覚器官が完成して肉体に備わっていたら、
こころはもう、これほど多くは痛まないだろう。

ただし、それは絶対的な痛覚に繋がって結ばれてしまうだろう。
それがいいかわるいかはわからない。

でもきっと、僕らが美しい匂いを嗅ぐことで
味を感じ取るように、
きっとなにがしかの生に対する感謝に帰結する。