嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

水の心

2010年07月29日 15時10分45秒 | 詩に近いもの
意識はいつも 何かを同じと言うけれど
水の心は その他を指さす

もうなんだかとにかく逃げ出したい。

2010年07月25日 03時05分57秒 | 
寝れない。こんなに現実感が無くなっていくのは久しぶり。

革命の在り処

2010年07月14日 16時07分34秒 | 考え事
堕落の中に居て 堕落を感じず
失望の中に居て 失望を感じることなく
希望の中に居て 希望を感じることはなく、
ただ一人孤独であり続ける。

だから人は革命を望むのかもしれない

人はたった一人だから、一人だけで、すべてを1から覆す、革命を望むのかもしれない。

親を殺すべきなのか、自分が自殺すべきなのか。

2010年07月02日 01時38分42秒 | 
最近、自分の人生をおおかた諦めてしまっている。
ほんの数ヶ月前までは未来に対して希望を持っていたし、
堅実な努力もしていた。

しかし、自分が退職届を出して仕事を辞めたあたりから、
だいぶおかしくなってきている。

まず、一番におかしくなっているのは自分だと思う。
私は時々私自身の頭がおかしくなってきている事に気付くのだけど
それについて深く考えることを避けている。

心療内科や精神科に行くことも考えたが、
そんなことをしても時間の無駄だし、
そもそも薬やカウンセリングで治るとは到底思えない。
そもそも、医者なんか昔から信用していない。
これは自分の体質によるところもあるのだが、
昔から医者から出される薬を飲むたびに、
様々なアレルギー反応が出て、死にかけたり、発疹が出たり、
白内障になったり、意識障害になったりと、副作用の反応がやたらと酷かった。

僕は体質的に外にあるものを受け入れない。
考え方に関してもそうだ。

外からなんやかやと俺の生き方にケチをつける人が現れると、
向きになって相手を否定したり、
時には喧嘩になったりすることさえある。

そういう時は、ずっと長い間人間関係の痛みを、
後悔としてずるずるぐだぐだ引きずるのが俺流の懺悔なのだ。
罪の意識なんか、感じていないはずなのに。

今日、なんとなくムラムラと、
両親を金属バットで殴り倒している自分のイメージが湧いた。
最近両親に対して苛々していることの現れだろう。
理由は簡単で、事あるごとに働け働けと口うるさいからだ。
僕にもっと自信があれば、断固たる意志で、反対の決意を示したり、
口論したりするんだろうか。
両親と素手でとっくみあいの喧嘩をしたり、
親を殴ったりする姉が羨ましいとさえ感じる。

僕は歪んだ価値観と、自分の殻と、親から受け継いだ遺伝子と、
ガチガチにはめ込まれたへんてこな倫理観と道徳観念のせいで、
自分のやりたいことなんかやれないままに死んでいくのだ。
こうやってすべての問題を親のせいにしながら、
生を呪って死んでいくのが僕の生き方、そして僕の死に方なのだ。

なぜ、こんなにも家族の問題で僕が傷つくのか。
それらはすべて明白で、僕が家族の中で一番弱いからだ。
僕のメンタルが、家族の中で一番弱い。
だけど、こんなこと、人に相談したって何にもならない。
他の人間は、僕の家族と一緒に暮らさないし、同じ問題を共有できない。
僕を宥めることは出来ても、僕に嘘を教えることしか出来ない。
本質的には、僕の問題を解決出来ない。

そんなこと、最初から全部解ってる。
だから嫌なんだ。
それはもちろん、家族に対して持っている理想のイメージが強すぎることの裏返しでもあるし、
その願いが強いほどに、僕にその死神がほほえみながら呪いをかけるだけの
つたない行為だと知ってる。
本物の僕自身は、まだココには生まれてさえいない。

全くの他者と出会って、
全く考えもしなかった人生を新しく歩み出す時にしか、
輝かしい無抵抗で無垢で暴力的で異質な世界(現実)と対峙し、向き合い、克己する時にしか、
僕の未来は生まれないし、
そこに1%の可能性も生まれない。

僕は未来と向き合うことから逃げた。
他者の心と真っ直ぐに向き合うことは出来なかった。
僕の親にしたってそうだ。
心を信じることよりも、
愛を信じることよりも、
金と現実を積み上げることで不幸に突進してるのが親の生き様だ。
この哀れな醜い豚に、金属バットを振り下ろしたい衝動を
ぐっとこらえているのが僕の日常なんだ。

甘えだと知ってる
歪んだ愛だと知ってる
コンプレックスだと思ってる。

こんなちっぽけで矮小な世界、
さっさと壊して未来に踏み出せばいいのに。
僕の道徳観念が、僕をこの狭い箱庭に縛る。

違う家で育ったとしても、僕はきっと醜く育った。
どんなに善意にあふれた両親に育てられたとしても、
きっと僕は醜い魂を持って生まれた。
そう思えてならない。

自分が嫌いだ。
どうしようもないほどに、自分が醜くて嫌いだ。

迷子の果てに

2010年06月28日 22時38分43秒 | 考え事



急に不安になることがある。
少し視野を狭めて考え事に集中していると、ふと、
自分がどこに居るのかわからなくなることがある。

人生迷路の迷子というような比喩の類の話ではなく、
実際に、自分が今、自宅の部屋に居るのか、
街に居るのか、学校に居るのか、外に居るのか中に居るのか、
北がどっちなのかわからなくなったり、
今、自分が部屋のどっち向きに座っているのかわからなくなったりすることがある。

たいして恋をしているわけでもないのに、
急に失恋するのが怖くなったり、
誰かに話しかけるのが怖くなったり、
嫌われるのが怖くなったり
謎の不安に襲われることが増え
 そんなときは
  たいがい
背筋や首筋のあたりがウゾゾっと寒くなってくる

決まっていることが一つある。
「働きたくない」ということだ。
これは、以前のようなNEET時代の発想とは少し違っていて
どちらかというと、働いたことの後悔からくるものだ。

まだ働いたことが無くて、働くことが恐ろしいというのは、
まだ女性を真剣に好きになったことがない頃の失恋恐怖状態に似ている。

実際には、僕にとって失恋はとても清々しい感情でいっぱいの、
そしてまた、葛藤と残酷な感動の連続だったのだけれど、
その話は今回ここでは省く。

今、自分の中にある不安は、
子供心に、夢いっぱいの希望を持っていて、
自分がいつかきっと凄い立派な人間になって、
社会や世の中で大活躍できるという、
半ばヒーローになりたいという幼い願望や、
勧善懲悪を信じていたら、この世界は善悪で計れないことに気付いてしまった喪失感や、
お金持ちになりたいと真剣に思っていたのに、
お金よりも大切なものを見つけてしまって自分が気が狂う感じにも似ている。

結局のところ、
怖いのは自分の形が変わることなのだ。
自分の殻を捨てたり、
ポリシーを捨て去って、
全く違う物差しで世界を測り直すことが怖いのだ。

いつも僕は迷子だ。
そして僕はこの迷子状態を心底気に入っていて、
もう自分探しが楽しくて楽しくてしょうがないくらいに、
ずっと馬鹿な子供のままで居たいのだ。

(『あるいは、子供のままで居たかったのだ』)。

ほどなく、終わりが来て、
強制的に大人になるか、
あるいは自決するかを選ぶ時が来る。

そのときに、
子供らしい生に無頓着な我が侭自分勝手の自尊心{プライド}と、
なんら絶望も希望もなく、生に執着する延命措置のような{本能的理性}と、
僕は、どちらを大切にするだろうか。

判決の日が来るのが、とても恐ろしい。
自分に自信がない

今の僕は、いつも不安だ。
でも、偽物のSOSしか、
僕は発信していない。

メンヘラーになんかなりたくない。

2010年06月21日 05時19分44秒 | 考え事
欲しいのはきっと鈍感さだと思う。
誰からどれだけ否定されても、自分の意志を貫いて努力できるような、
そんな鈍感さが欲しいんだ。

繊細さは褒め言葉として聞こえるけれど、
それが直接自分を満たすことは無い。

宿命の中で役目を果たせなかった僕は、
新しい神が降臨するのを待っている卑しい存在だ。

もっと早くに死ぬべきだった。
たとえこの2年間に、知り合えた様々な人との感動が得られなかったとしても、
僕は自分の決意のままに、この世界を消し去るべきだった。

果たせなかった想いは呪いに変わる。
約束は罪に変わる。

肉体の契約を交わすことの無かった僕は、
その無責任さを容認することで、生きている。

『摂氏零度の少女』(著者:新堂冬樹) を読んで思ったことなど。

2010年06月20日 02時16分18秒 | 読書
まず、帯にある宣伝文句から。
>「善悪ってなに?誰が決めるの?」
とある。

単純に答えを言ってしまえば、
善悪は良心と倫理観に従って、善と悪の線引きを信じるものが
勝手に引いた境界線であり、善、もしくは悪、あるいは両方を信じる者が
その采配を決めている。

もし、成長の人格形成過程において、その形質が歪に歪められてしまったのなら、
あるいは、真っ直ぐに純化されてしまったのなら、
もしくは、裏返って、違うものに変化してしまったのなら、
そこには新しい着眼点、新しいアイディア、新しい神が現れる。

つまり、視座が変わるということだ。

この物語において重要なことは、
少女が愛犬のリトルを失う行為を、
生物的な反作用の中で、何年もかけて理解しようとしている点だ。

つまり、彼女は犬が死ぬということを、瞬時には理解できなかったし、
また、我々人間の方に、大人とか子供とかのものさしを持って来る前に、
ひとつの孤独な生き物として、例えば「知恵を振り絞って考えることの出来る猿」
としての立ち位置だったとしても、目の前に起こっている【死】というひとつの出来事を、
そう簡単に解ることなど出来ようか?

もし、理解に行動や経験を伴なう必要性があるとしたら、
例えばそれがパズルのようなものだったとしても、
ぐるぐるとキューブを回転させることでしか解らない人も居るし、
バラバラに分解しないとわからない人も居るし、
回さなくても瞬時に解答を導ける人も居るだろう。

だが、残念なことに、死は生の向こう側にある。
こちら側ではない。
にも関わらず、少女は大人から「天国」という嘘を教わってしまう

それをまったくのジョークや嘘として処理できれば
ことはもっと単純で簡単に折り合いのつくものかもしれないが、
もし、ある種の無知と純粋さによって、
無垢な魂のありかを探し出すトリガーとなってしまったとしたら、
少女はもう、引き金をひくしかないのだと思う。
それは死が持つ暴力性や優しさによって達成されるものではないが、
人の物差しがその計測を邪魔する。
人を殺すことは決して暴力的でも優しくもなく、
もっと冷たい温度の無い現象に過ぎない。
だが、そこへは人が意味を介入させる。

「少女が親を殺すとはどういうことか?」
「子どもが大人を毒殺するとは何か?」
「主人公はいかにして母を殺すに至ったか?」

いわばもう、これは読者に向けて延々と説教のように語られる
オリジナルの供述調書だ。
現象を人が事件にする。
そして、事故にする。
踏みつぶした蟻に許しを乞うのは、蟻の命に人と等しい価値があるからではない。
許されたいという動機を持つ者だけだ。
蚊を殺すことと人を殺すことに差をつけるのは、
その、両者に価値基準を適用できる者だけだ。

もし、姉がリトルを殺したら、
彼女は豹を愛したか?
という問いが生まれる。

毒殺のオリジナルは、ライオンにあるのでも、
彼女にあるのでも、グルムグンシュにあるのでもなければ、
グレアムヤングにあるのでもない。
「白衣を着た男性獣医」にあるのだ。
この切り取った、小さなBookの世界観において言えば。

だけどそのことについては多くを語られない。
少女にとっては愛する母親から初めて教わった
「生き物を殺すということ」であり、
その恩を、愛情を、行動で示さなければならないのだろう。
これは優等生にありがちなパラノイアであり、
良い子で居ること と 権力者 との間で起こる葛藤なき
宗教的行為でもある。

もし、リトルという器に入った魂の意志が、
略奪されない秘密の部屋で行われる孤独な行為であったのなら、
きっとこうはならなかった。
自己が確立できない間に行われる「育てる」という行為の憑依試験の中で
あのふさふさした被毛を撫でながら、衰弱していく犬を見つめる行為の中に
新しい自分を発見したかもしれないのだ。

だが、残念ながらリトルは
そして少女の自己は、確立されるよりも前に、
ライオンの檻の中で育っていく忠実なモンスターの僕(しもべ)なのだ。
育った愛で飼い主を食い殺す新しい息吹だ。

ぼくは例の事件が起きた時、
glmugnshu -グルムグンシュ-
を読み漁った。
繊細な心を感じさせる文才と、
子供の中にある特有の闇の匂いを感じ取ることの出来る
貴重なサイトだった。

どうしても、僕はその少女と比較しながら、
桂木涼子(風矢信介)を見てしまう。
たぶん、僕はこの本の忠実な読者にはなれないだろう。
本を読む前に、多くのことを知りすぎて居る。

それでも、読んでいくうちに、ハッとさせられることは
何度かあった。

もし、この本を弱さで読み取ることの得意な人が見たら、
この少女の心を、弱いものだと勘違いするかもしれない。
もちろん、そうした読み取りはその本人にとっての
真実の供述調書となりうるものなのだと思うけれど。

最後に、この文章を読んでくれた読者のあなたに、
この言葉を捧げたい。

「――なんだよ。みるなよ! 足が一杯になるだろ!」

観測点に対する考察

2010年06月07日 10時36分50秒 | 
世界はすべて、肉体の形に歪んでしまう。
あらゆる認識は、肉体の個性に依存する。
ゆえに、同じ世界を直接観測することは出来ない。

だがもし、ハードウェアを使用せずに、
観測内容を伝搬する手段があるとすれば、
その超越的なインターフェイスによって、
同じ何かを観測できるだろう。

世界のゆりかごの中で時の波が出会う。

2010年05月19日 04時26分19秒 | Weblog
100%受け身の、空間時計の中で
生の代理人と死の代理人が出会うことで、
ぐにゃぐにゃとした、がちゃがちゃと死んでいく
成長の土粘土が
ごうごうと揺れる世界のゆりかごの中で
100年程度の生涯を閉じる。
その波動は世界を開くこともあるし、
世界を閉じることもある。

僕の中で死んでゆけ
僕の、成長の魂たち。
世界を開くために、今はただ、閉じてゆけばいいのだ。

荒れ狂う、ビッグクランチのように。

これから僕は現実を離れる

2010年05月19日 04時11分25秒 | 物語
後悔しているわけではないんだけど。
これから僕は、しばらくの間げんじつを見れなくなる。
それは次第に病気に蝕まれていく不治の病にかかった人の見ているものに近いと思うんだけど、
僕自身が病魔に侵されているということではない。
蝕まれているものがあるとすれば、それは僕の現実感だ。
例えば運命的な出会いをして、恋心ゆえに盲目的になる10代の若者と似ている。

それの半分は、僕自身が決めたものだ。
あるいは別の言い回しを用いれば、僕自身が選んだものだ、
望んだものでもあるし、欲しかったものでもある。
僕は、もう一度、胸の奥で、生き生きと感じられる何か、
大切な使命のようなもの、心のエンジンに火をつける潤滑油のようなもの、
生を守るために他者を殺そうとする母親の霊のようなもの、
湧き上がる業のようなもの、
溢れ出るパトスのようなもの、
そういった運命に対する言いがかりのような、
呆れるほど暴力的な欲望の到来を待っていたのだ。

願わくば、それが歯車になることを祈っている。
世界の運命を僕の力で回すための、
小さく振るえて巨大なエネルギーを震い立てる
存在のハートビートになることを願っている。
それがもし、ほんの少しでも正確な位置の確結(かっけつ)と
原点への回帰と回顧を願う引力のようなものになるなら、
僕の物語は、君たちを惹きつけるだろう。

誰しもが、投影を行う意識の鏡において、
物語は正確に、君の中でこそ語られるのだから。

ありがとうを言うための一次閉塞

2010年05月12日 05時49分02秒 | 考え事
俺のゴミみたいな思考の流れが
君の流れを作り出す、思考の時をもたらしたのなら、
それを僕は、【嬉しい】と呼ぶよ。

過去なんて探しても見つからないよ

2010年03月16日 16時05分44秒 | 考え事
純粋なもの、永いこと、「純粋なもの」は徹底的に暴力的な、
いわば血肉から削り取られた骨のように、
まっすぐで力強い業から、
あるいはどうしようもないほど手に負えない、
いわば性欲や食欲のような、
ある種の破壊的なパトスを洗練することで純化されたものが
純粋なものかと勘違いしていた。

純粋なものは、汚れた物の中から削り出された女神ではないのだ。
真っ黒な鉄の塊を煮やして成形したものでもなく、
選び抜かれて皆から認められたものでもないのだ。

純粋さは、いわばそこに立ち現れているだけのものであって、
こちら側のフレームやのぞき窓、
見ようとする意志の方が肝心なのだ。

悪しき心で覗いたフレームも
善しき心で覗いたフレームも、
純粋さによって、バラバラに打ち砕かれて反省するというようなものではないのだ。

退廃的な達観の心で覗いた幼女の姿は純粋か?
汚い腐敗の衣をまとった大人達の強欲の中で、
何も知らず、自然を見つめる子供の裸体は純粋か?

そうではないのだ。

無垢であることに純粋さを求める時代は間違ってる。
大人が子供を汚すことの競争が闇で始まるだけだ。

純粋さは、汚れた者からの投影によって現れる幻想だ。
ここに純粋なものなど無い。
ガッカリする必要はないのだ。
はじめから、そんなもの、持ち合わせていないのだ。

人は後悔によって、純粋さに憧れる獣の弱き尖端なのだ。
「現世に過去は存在しない」

― 人はナゼ、小さきものに過去を求めるのですか? ―

鏡を壊すことは出来ない。

2010年02月13日 15時55分09秒 | 考え事
今はもう、それほどこの世界を憎んではいない。
だからこそ、自殺がうまくいかないんだと思う。
困ったものだ。

考えが整理されない

2010年01月24日 12時39分06秒 | 考え事
衝突を避けて建前で生きるべきなのか、
人を傷つけても、本音で生きるべきなのか。
死を避けてしまった僕は、矮小な生き方を選んだはずなのに、
自分を上手に割り切ることは出来ない。

こんなことなら、もっと全力で人とぶつかるべきだったんじゃないのか?
本当は、人を傷つけることが怖かったんじゃなくて、
ただ、自分が傷つくことが怖かっただけの、臆病者に過ぎなかったのだろうか。

自分を知ることは?

2010年01月02日 01時20分54秒 | 考え事
伝えることに苦痛とわだかまりと怯えを感じているうちはまだまだだ。
もっと人を好きにならなければ、
きっと本物を伝えることも、自分を好きになる事もできない。
今は他人が怖い。
自分と真剣に向き合うことも、痛いと感じている。