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日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

2023-03-09 14:43:20 | 日記
日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

河合 敦 : 歴史研究家 著者フォロー

1937年の「盧溝橋事件」いったい何があったのか?
昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で、日本の支邦駐屯軍第一連隊第三大隊第八中隊が夜間演習をおこなっていたが、数十発の銃声が聞こえたので、人員点呼してみると、1名が戻ってこない。
「さては、中国軍に殺害されたのだ」と判断した支邦駐屯軍は、付近の中国軍と戦闘状態に入った。これが盧溝橋事件である。
しかし翌日、戦闘は終結し、現地において停戦が成立した。行方不明だった兵士も、この日の未明に無事帰還した。おそらく、日本政府が動かなければ、盧溝橋事件はこのまま終息したはず。もちろん、成立したばかりの近衛文麿内閣も、事件の不拡大方針を唱えていた。
一方、陸軍参謀本部と陸軍省内では、大陸へ兵を増員するかどうかで意見が割れていた。だが、まもなく軍では出兵派が優勢になり、近衛内閣に派兵を求めるようになる。彼らの言い分は、「中国軍が40万人の大軍であるのに対し、現地の日本軍はわずかに6000人弱。もしこれ以上、戦闘が拡大することになれば、在留邦人1万2000人の安全は保証できない。
それどころか、日本軍も全滅する恐れがある。牽制の意味でも兵を増員してほしい」というものだった。陸軍の要請を受けた杉山元陸相は、閣議で派兵を要求した。
すると近衛首相は「あくまで事件を拡大させず、現地で解決に努力する」と述べつつも、あっけなく前言をひるがえし、増派を容認したのである。
ただ、当時は軍部大臣現役武官制があり、杉山が陸相を単独で辞職し、陸軍が後任を出さなければ内閣は総辞職に追い込まれる。そうしたことも、近衛が方針を変えた理由だろう。
この動きに対し、中国を支配していた国民政府の蔣介石は、驚くべき決断を下した。7月17日、蔣介石は廬山(江西省北部)において「満州(中国北東部)を日本に奪われてから6年が経つ。日本軍は北京(北平)の門戸・盧溝橋まで迫っている。もし日本軍が北京を奪おうとするなら、弱国ながらわれわれは徹底抗戦する」という声明を発表したのである。


昭和6年(1931)から、日本軍は満州に軍事侵攻し、翌年、傀儡国家である満洲国を建国した。仕方なく国民政府は、翌年、塘沽停戦協定を結んで満洲国を黙認した。
じつは昭和2年(1927)から、国民党は中国共産党と内戦をしており、蔣介石はそちらとの戦いを優先させたのである。しかし、満洲事変後も、日本軍は華北5省に進出していくなど、侵略の手を緩めなかった。この状況に、中国人は強い不満を持っていた。
そこで昭和11年(1936)12月、国民党の重鎮・張学良は、戦いの視察で西安に来た蔣介石を監禁し、共産党と協力して統一抗日戦線をつくるべきだと迫り、受け入れさせた。
このように盧溝橋事件当時、すでに国民政府は共産党と停戦し、抗日へ向けて共闘できる体制ができつつあった。それが、蔣介石の徹底抗戦宣言につながったのである。
近衛文麿の安易な決断
まさに近衛文麿の安易な決断が、大戦争のトリガーとなったわけだ。もちろん、蔣介石にこう言われてしまっては、日本側も後へ引けなくなった。かくして続々と華北へ軍隊を送り、とうとう全面的な日中の軍事衝突に至ったのである。
すると中国も昭和12年9月、国民政府の蔣介石と中国共産党の毛沢東が第二次国共合作(国民党と共産党の提携)に踏み切り、抗日統一戦線をつくりあげた。
戦いは、上海で日本軍人が殺されたことをきっかけに、ついに華中へも飛び火していった。日本は2個師団を日本本土から上海へ派遣した。これまで日本政府は、盧溝橋事件からの一連の武力衝突を北支事変と称していたが、戦線が華中へも広がっていったことから、支邦事変と名称を変更した。
上海での戦闘は、華北でのそれとは大きく異なり、中国軍はすさまじい抵抗を見せた。日本はさらに3個師団を派遣したが、戦いでの死者は9000人を超え、負傷者も3万人にのぼっていった。柳川平助率いる師団が杭州湾から上陸して中国軍の背後を突いたこともあり、2カ月余りで中国軍が撤収、ようやく上海を制圧した。この戦いを第二次上海事変と呼ぶ。
日本軍は、この勝利の勢いを駆って300キロ離れた国民政府の首都である南京を目指すことにした。これは、現場の司令官による独断行動だった。ただ、現場の指揮官のなかには、南京を制圧する意義を疑問視する声や、長距離の移動に対して補給を心配する声が強かったが、結局、攻略派の意見に押し切られる形で、南京への遠征が決まったようだ。
だが、蔣介石はいち早く南京を脱出し、首都を漢口、さらに重慶へと遷した。昭和12年12月、ドイツ駐中大使トラウトマンは、全面的な武力衝突に発展してしまった日中戦争を終結させるべく、日中の調停に乗り出した。

蔣介石は、この和平案に乗る気を見せていたが、日本側では意見が割れてしまった。陸軍参謀本部は、重慶の蔣介石が、アメリカ、イギリス、ソ連の支援を受けて抗戦すれば、早期に戦いを収拾するのは困難になり、戦争は泥沼化して国力は疲弊し、ついに日本は衰亡してしまうと考え、トラウトマン工作の成功に期待を寄せた。
ところが、近衛内閣の閣僚は「もし、陸軍参謀本部が和平を求めるというなら、内閣は軍部とは別の所信を表明し、この戦争に邁進する」と主張した。このため、参謀本部のほうが妥協し、トラウトマンの工作は日本側の拒絶によって終わってしまった。
もし和平交渉が成立していたら
もしこのとき、和平交渉が成立していたら、太平洋戦争の悲劇はなかったろう。しかも悪いことに、近衛文麿首相は「帝国政府は、爾後国民政府を対手(相手)とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して、更生新支那の建設に協力せんとす」という声明を出してしまう。
さらに、この意味について尋ねられた近衛首相は、「国民政府を対手としないというのは、否認するというより抹殺するということだ」と過激な捕捉説明をおこなった。
このように戦争している相手国政府を否定することによって、戦争終結の道を自ら閉ざしたのである。一方の蔣介石も、日本軍への徹底抗戦を表明した。かくして、日本政府と国民政府との和平の可能性は消滅した。
昭和14年(1939)末までに、大陸に派遣された日本兵は100万人に達した。その後、日本は国民政府の重鎮だった汪兆銘を重慶から脱出させ、彼に南京で新国民政府(日本の傀儡政権)をつくらせた。この新政権と交渉し、講和を結んで日中戦争を終わらせようと考えたのである。が、新国民政府は中国国民の支持を得ることができず、汪政権は蔣介石を圧倒するような大勢力とならなかった。
日中戦争が始まると、近衛内閣は「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」をスローガンに、国民精神総動員運動を展開していった。
儀式や行事で精神教化をはかり、国債の購入や金属の回収を進め、貯蓄を奨励した。国民の戦時気分を盛り上げ、日中戦争に協力させていこうとしたのである。

昭和13年(1938)には、国家総動員法という超法規的な法律をつくり、戦争に人や物を自由に利用できる仕組みをつくった。
ただ、広大な中国との戦争は資源を消耗させる一方で、物資は急速に乏しくなり、切符制、配給制が広まってしまう。昭和15年(1940)には農村における米の供出制が始まった。農家は米を国家に安く買い上げられることになったのである。
この頃の農家は、一家の働き手が徴兵される家も多く、太平洋戦争が始まると化学肥料の輸入が途絶え、生産力は低下していった。
銅や鉄の使用まで制限される事態
供出は農家だけではない。昭和16年(1941)8月30日には、金属回収令が制定され、一般家庭にも鉄や銅製品の供出が命じられた。これをくろがね動員と呼ぶが、すでに昭和13年には、日用雑貨品に対する銅や鉄の使用も制限されていた。
郵便ポストも陶製となったが、同令により、国民は鉄の置物、門扉、看板、傘立て、手摺などを、微々たるお金と交換し、政府に引き渡さなければならなくなった。
戦争で石油が不足してくると、政府は昭和12年にタクシー営業を制限、翌年からガソリン・重油の配給制を実施した。また、石油にかわる代用燃料の開発が進み、アセチレンガスや大豆油、鯨油の使用やガソリンへのナフタリン混入などが考案された。
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だが、もっとも普及したのは木炭である。自動車の後部に釜を設置し、薪を蒸し焼きにして発生するガスをエネルギーに自動車を走らせるのだ。
昭和16年10月に、乗合自動車のガソリン使用が全面的に禁止されると、一気に木炭バスや木炭タクシーといった木炭車が町中を走るようになった。
こうした状況のなか、ドイツが第二次世界大戦で連戦連勝すると、日本は英米との戦争を覚悟のうえで、日中戦争継続のため、南方(東南アジア)へ進出していこうと決断。とうとう12月に、太平洋戦争へとなだれ込んでしまう。
もし盧溝橋事件で増派しなければ、もし国民政府との和平のチャンネルを自ら鎖さなければ、太平洋戦争での敗戦の悲劇は回避できたかもしれないのである。



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