今朝の佐賀新聞を見るなり、佐賀県民として誇らしい文字と出会いました。
「その時、日本は佐賀を見ていた。佐賀は世界を見ていた。」
身震いするほどの感動を受け、書かれていた文章を追って行きました。
その書き出しは、
その時 佐賀は時代の先端にいた。
幕末の慶応3(1867)年12月9日 大政奉還後、明治天皇の下での新政府樹立を宣言した。 「王政復古の大号令」によって、265年続いた江戸幕府は崩壊した。 そして日本は、西洋文化を取り入れた近代国家への道を歩み始める。 明治維新がしばしば、「革命」として語られるのは、倒幕による天皇親政という権力構造の転換だけでなく、その後わずか10年ほどで、廃藩置県、四民平等、地租改正、殖産興業など、近代国家の基礎を作り上げた。 世界史上例のない変革の時代だったからである。
そんな、歴史の扉を開いたのが佐賀だった。
欧米列強が植民地獲得のため、アジア進出を強めていた幕末期、佐賀藩はいち早く時代の変化をとらえ、列強に比肩する科学技術力の獲得を目指した。 鉄製大砲の鋳造成功により、当時の日本国内において、絶対的なプレゼンス(存在感)を獲得。 蒸気船(凌風丸)の建造は、その技術力の高さをあらためて証明した。 藩校「弘道館」の教育充実により輩出した有能な人材は、やがて明治国家の基礎をつくる原動力となった。
再来年の2018(平成30)年は、明治改元からちょうど150年の節目。
明治維新という歴史の転換期に、当時の佐賀人たちはどう立ち向かったのか。 日本を根底から変える改革を果たした、そのエネルギーの源泉はどこにあったのか。 「地方創生」が叫ばれる今、幕末維新期の時代精神は私たちに多くの示唆を与えてくれる。
その時、佐賀は世界を見ていたーーー。
江藤新平
1834年佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれる。1871年に廃藩置県を行う。
1872年に司法卿、1873年には参議に就任。1874年佐賀の乱で敗れ、刑死。
大木喬任
1832年今の佐賀市水ケ江に生まれる。1868年に東京府知事、1871年に初代文部卿、
1873年に参議、司法卿、1880年に元老院議長に就任。1899年に死去。
大隈重信
1838年、今の佐賀市水ケ江に生まれる。1870年、参議、1873年、参議兼大蔵卿に
なる。1882年3月、立憲改進党結成。同年10月、東京専門学校(現在の早稲田大学)
を開校。1888年、外務大臣、1898年、内閣総理大臣(第1次大隈内閣)。
1914年、二度目の内閣総理大臣(第2次大隈内閣)。1922年死去、国民葬。
佐野常民
1822年に今の佐賀市川副町に生まれる。1855年に日本初の蒸気機関車模型を完成
させる。1867年にパリ万博にて赤十字について知る。1877年に大給恒らと博愛社を
創設。1880年大蔵卿に就任。1887年に博愛社を日本赤十字社と改める。1902年死去。
島義勇
1822年に今の佐賀市に生まれる。1856年~1857年に北海道と樺太を探検・調査。
1869年に北海道開拓使主席判官に就任し、札幌のまちづくりの指揮をとる。
1871年に秋田県令(現在の秋田県知事)に就任。1874年に佐賀の乱で敗れ、刑死。
副島種臣
1828年に今の佐賀市に生まれる。1869年に参議、1871年に外務卿、1892年に内務大臣
に就任。1905年死去。現在の、佐賀新聞の題字は本人によるもの。
鍋島直正(閑叟)
1814年に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として、江戸に生まれる。1830年に佐賀藩の
第十代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響を受け開明政策を採用し、1834年に佐賀
城下に医学館を建てる。(この後好生館と名を変え、今の佐賀県立病院好生館の原型
となっている。)1850年に今の佐賀市に反射炉を建てる。明治維新後は議定に就任し
大納言の位を受ける。1869年に北海道開拓使長官となるが任地に赴くことなく1871年死去。
と言う 佐賀県七賢人 が紹介されていますが、少し この機会に 同じ時期に生まれ、「有田焼陶祖の神」と言われた 谷口藍田(らんでん) 文政5(1822)年 8月15日 皿山八幡宮(現在の陶山神社)の祭礼の日に生まれた 儒学者がいたことを後ほど、触れたいと思っています。
今日は 素晴らしい新聞の見出しに こころ踊る思いがしました。
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