芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし 奇跡の復活(2)

2016年05月26日 | 競馬エッセイ

 長浜牧場はこれまで生産馬が重賞を勝ったこともない、家族経営の小さな牧場である。
 1988年にトウカイナチュラルから誕生した牡駒は、あまりルドルフに似ていなかった。ひょろひょろと脚が長く何とも華奢に見えた。しかし肌は薄く天鵞絨のように艶やかで、額から鼻の流星も美しく利口そうで、どこか気品が漂っていた。仔馬は父の愛称「皇帝ルドルフ」に因み「帝王」と呼ばれ、そのままトウカイテイオーとして登録された。
 やがて二風谷軽種馬共同センターで調教される頃、彼は注目を集めるようになった。驚くほどの柔軟性と勝負根性が際立ち、調教のため騎乗すると初めて体験する乗り心地だったらしい。クラシックを狙える馬だと誰もが思った。繫が非常に柔らかく、球節が地面につきそうだったという。これは諸刃の剣で、テイオーのバネともなろうが、あるいは故障の原因になるかも知れなかった。

 テイオーは松元省一厩舎に入った。厩舎の馬のレースによく騎乗し、調教もつけていた安田隆行騎手が、テイオーの調教も手がけた。
 安田は1972年に騎手デビューした。何度か大きな怪我に見舞われたこともあり、あまり騎乗数に恵まれず、まことに地道に小倉や中京などローカルで活躍する38歳のフリー騎手であった。
 松元調教師は彼の腕と真面目な人柄を信頼し、安田に「レースでもテイオーに乗ってくれ」と伝えた。安田は目を輝かせ「よろしくお願いします」と頭を下げた。何しろこれほど柔らかな背に乗ったことがなかったからだ。この馬なら大きなところを勝てる。
 1990年の12月、テイオーは新馬戦と特別レースを楽に連勝し、91年を迎えた。先ず強力メンバーが揃った若駒ステークスを楽勝し、東上した。初戦は皐月賞前哨戦となる中山の若葉ステークスである。スローペースに馬が引っ掛かったものの直線は楽だった。
 テイオーは4戦全勝で第51回皐月賞を迎えた。18番の不利な大外枠なのに圧倒的な一番人気である。安田は馬群に揉まれず都合が良いと割り切った。しかも前日の雨でインの馬場は荒れており、どっちみち外を回った方がよい。スタートのよいテイオーである。無理なく外目の好位置につけた。4コーナーでテイオーの勝利を確信し、直線に入ると先頭に躍り出た。ゴールまで並びかける馬はいなかった。先ずは一冠である。
 そして第58回ダービーである。前夜さすがに不安で安田の胸がざわついた。
パドックでのテイオーは泰然としており、その鞍上で安田の心も落ち着いた。この日もスタートは良く、いつものように好位置につけた。直線に向くとテイオーをマークしていた馬たちのほうが早めに仕掛けた。それを待ってから安田が仕掛けると、あっという間に先頭に躍り出た。まさにライバルたちとは物が違っていた。テイオーは父ルドルフのように無敗のままダービーを制した。誰もがこれで父と同様三冠も達成するものと思った。
 しかし数日後、テイオーの左脚に骨折が認められ、全治6ヶ月と診断された。
これで三冠馬となる夢は断たれた。

 テイオーは古馬となり、傷癒えて戻って来た。松元師は春の天皇賞の前に大阪杯を使うことにした。安田は自ら降板を申し入れた。責任を感じていたのである。安田は調教師試験を頑張りたいと言った。
 彼の替わりに岡部幸雄が騎乗することになった。テイオーの父シンボリルドルフに騎乗していた岡部である。岡部は言った。「ルドルフそっくり、凄い乗り味だ」
 大阪杯は、骨折の休み明け十ヶ月ぶりというのに圧倒的な一番人気である。スローペースにも引っ掛からず、三番手の好位置につけたまま、直線に向くと何と馬なりで先頭に躍り出、他馬を全く寄せつけない楽勝ぶりであった。
 天皇賞もテイオーが一番人気となった。最大の対抗馬は若き武豊騎乗のメジロマックィーンである。
 メジロパーマーが逃げ、マックィーンは5、6番手の好位置、テイオーは外目の中団にいた。3コーナーを過ぎると武マックィーンは早過ぎる仕掛けをした。瞬発力ではテイオーに敵わないがスタミナなら上。早めに前に出て、あとは持久力で勝ち残る作戦だ。4コーナーで岡部テイオーが動いた。パーマーをかわすと、誰の目にもマックィーンとテイオーの一騎打ちかと思われた。直線マックィーンは力強くゴールに驀進した。テイオーは意外に伸びぬどころか、左右から他馬に抜かれて5着に沈んだ。
…こんな負け方は予想外だった。距離の壁なのか(※1)、あるいは翌日に判明した左脚の剥離骨折のせいなのか。
(※1)父シンボリルドルフは本質的にステイヤーである。母の父は天皇賞(春)と宝塚記念、有馬記念(二回)勝ったスピードシンボリで、テイオーの母の父ナイスダンサーも12ハロン(2400メートル)をこなしており、距離の壁が敗因ではあるまい。パーソロン(本質的にマイラー)系は母系によりステイヤーが出る。メジロマックィーンもパーソロン系の典型的ステイヤーである。

 幸い怪我は軽く、陣営は直接秋の天皇賞に出陣することにした。二千の距離ならテイオーの最適距離だろう。しかも有力馬が故障で次々と離脱した。当然一番人気である。一時熱発による調整の狂いも伝えられたが、当日は馬体の張りも素晴らしく、調子が良さそうだった。…ところが、勝ったのは穴馬レッツゴーターキンで、テイオーはなすところなく7着に沈んだ。熱発の影響なのか。…私には、彼から走る意欲、闘争心が消えていたように思えた(※2)。
(※2)馬体が良く見えても、馬には闘争心が消えることがままある。オグリキャップにもそんな時期があり、最近のゴールドシップからも闘争心が消えている。

 第12回ジャパンカップは、英ダービー馬ドクターデヴァイス、欧州年度代表馬ユーザーフレンドリー、全豪年度代表馬レッツイロープ、豪ダービー馬ナチュラリズム等、海外からかなりな有力馬がやってきた。日本の有力馬ミホノブルボンが脚部不安で回避し、テイオーの天皇賞の惨敗ぶりを見れば、また外国勢が勝つだろうと予想された。テイオーは屈辱の5番人気に甘んじた。直線、内からナチュラリズムが力強く抜け出した。すると外からやって来たのはテイオーであった。二頭は並んだまま叩き合い、ゴールまで壮絶な一騎打ちを演じた。首差ながら勝ったのはテイオーだった。珍しく岡部がガッツポーズをした。スタンドは感動にどよめき続けた。日本馬のJC優勝は父シンボリルドルフ(騎手岡部)以来、七年ぶりのことであった。
 陣営の次の目標は暮れの有馬記念に向かった。ところがその一週前、岡部が進路妨害で騎乗停止処分を受けてしまった。岡部に替わる騎手として選ばれたのが、その日空いていた田原成貴騎手であった。実は田原はエリザベス女王杯でお手馬のサンエイサンキューの調子やローテーションをめぐって、どうしても出走させたい馬主や、調教師、果ては競馬記者たちと激しくやり合った。彼はサンエイサンキューが疲れている、休ませるべきだと主張したのだ。そのため田原は有馬記念に出走するこの牝馬から降ろされたのである。
 第37回有馬記念、テイオーは一番人気に返り咲いた。彼はパドックでも、本馬場での返し馬でも、絶好調に見えた。
 予想通りメジロパーマーが逃げ、テイオーの位置取りは珍しく後方である。道中いつものテイオーではないと、この馬をマークしていたライスシャワーの的場や、ヒシマサルの武など、他の騎手たちが気づいた。彼等はパーマーを追って先に動いた。テイオーはいつものように動けないままなのであった。メジロパーマーが見事な逃げ切り勝ちを演じ、テイオーは馬群に沈み11着の惨敗である。ちなみにサンエイサンキューはこのレース中に故障を発生、競走を中止し、闘病空しく亡くなっている。「馬主なんか素人や」…田原の主張が正しかったのである。
 さてテイオー惨敗の理由は何か。スタート直後にトモを滑らせた? レース前の寄生虫駆除の投薬?…。私にはやはり闘争心が消えていたとしか思えない。

 引退か、現役続行か、松元師は現役続行を選んだ。テイオーはどこか虚弱な体質である。またガラスの脚である。一度温暖な海の近くで調整させようと、鹿児島の牧場に放牧された。海岸で調教し、海水で脚を冷やした。
 春に帰厩し、6月の宝塚記念を目標に調整を開始したが、そのレースの一週前、彼は再び左前脚を骨折し、今度は二風谷に放牧された。
 一年ぶりのレースとなるが、暮れの有馬記念を目指して帰厩し、調整に入った。藤田伸二騎手によれば、帰厩したテイオーは全くオーラがなく、ガレて(痩せて)いたという。
 このレースのライバルは、岡部騎乗で菊花賞を圧勝したビワハヤヒデ、ダービー馬ウイニングチケット、桜花賞とオークスを圧勝したベガ、JCを勝ったレガシーワールドと強力であった。岡部は活きの良いビワハヤヒデと、骨折で一年の休養明けのテイオーを比較し、迷わずビワハヤヒデを選択したのだ。
 レースの一週前、テイオーの調教を終えた田原が藤田にこう言ったらしい。「こんなもんアカンぞ、一年ぶりだし勝つわけがないだろ」…しかし目つきが違う、内心は自信満々なのだと藤田は見た。「田原さんは策士」なのである。
 第38回有馬記念の一番人気はビワハヤヒデであった。テイオーは多分に心情馬券が含まれた四番人気である。やはりメジロパーマーが逃げた。テイオーはゲート出もよく、好調時のように好位置につけた。芦毛の馬体ビワハヤヒデが早めに上がっていき、直線に向くと先頭に踊り出た。道中掛かったウイニングチケットや、その日のレガシーワールドはいつもの伸びを欠く。やはりビワハヤヒデかと思われたとき、外からもの凄い勢いで飛んできたのがトウカイテイオーであった。二頭の激しい一騎打ち、追い競べである。田原が何か叫びながら鞭を振るった。もう少しでゴール板だ。わずかにテイオーが前に出たかに見える。そしてさらにグイと半馬身出てゴールを過ぎた。
 テイオーが勝った! トウカイテイオーが復活した! 奇跡の復活だ!
 レース後、田原はウィナーズサークルで泣いた。…「久々の苦しいレースなのに、よく頑張ってくれた…本当に頭が下がる思いです」
 藤田伸二騎手は田原を「策士、アーティスト、エンターテイナー」と評している。「あれはウソ泣きだ」と藤田は言う。後で「どやった? ファン酔うてたやろ。感動するやろ、あのほうが」と田原は言ったらしい。
 アーティスト田原はテイオーの鞍上で脚に負担を感じさせない心地よい手綱さばき心がけ、エンターテイナー田原は競馬ファンを楽しませること、感動に酔わせることを心がけたのだ。
 藤田は言う。「ああいう人のことを生粋のプロというのだと思う。まさに天才。なりたくて努力でなれるもんじゃない」

 翌年もテイオーは現役続行し、先ず大阪杯を選んだが、右トモを痛めて回避。宝塚記念を目標にするも、また四度目の骨折をした。やはりガラスの脚だったのである。次に秋の天皇賞に目標を切りかえたが再び脚部不安に見舞われ、ついに引退が発表された。正直多くのファンはほっとしたのである。
 内村正則はトウカイテイオーを「情の生んだ馬」と言った。トウカイテイオーは、ヒサトモから六代目、トウカイローマンと共にその消滅しかかった血を奇跡的に復活させ、また自らも、奇跡の復活劇を演じたのである。
 まことに惜しむらくは、シンボリルドルフ、トウカイテイオーの父系が途絶えたこと、そしてヒサトモの母系の血が再び低迷していることだ。また彼等の奇跡の復活劇を見たいものである。競馬は大河ドラマなのだから…。


                                                

光陰、馬のごとし 奇跡の復活(1)

2016年05月25日 | 競馬エッセイ
                                                              


 ある年ある日の、競馬における感動的な奇跡は、ほんの一瞬の出来事なのである。しかしそれは、大河ドラマのような人馬の蹄跡から生まれる。

 1931年、宮内省下総御料牧場はアメリカから三頭の受胎した牝馬を輸入した。その産駒は「持込馬」となる。日本の近代競馬の黎明期からイギリス系の血統に偏っていたサラブレッドに、アメリカの血を入れようというのである。その三頭は基礎牝馬としての期待を背負っていた。
 キャンプファイヤーの子を受胎したフェアリーメイドンは、日本での繁殖牝馬としての登録名を「星旗」と名付けられた。生まれた仔は牝馬で、クレオパトラトマスとして帝室御賞典を勝ち、月城と名付けられて繁殖入りした。星旗はさらに1939年(昭和14年)の第8回ダービー馬クモハタ(父トウルヌソル)を出した。クモハタは戦後種牡馬となり、数多くの名馬を輩出した。
 サーギャラハットを付けられたアイマベービィは「星若」として登録され、生まれた牝馬エレギヤラトマスは帝室御賞典を勝ち、月丘として繁殖入りし数々の名馬の牝祖となった。
 もう一頭、マンノウォーの子を宿したアルザダは、日本での血統名を「星友」と名付けられた。彼女が生んだのは唯一の牡駒で、月友と名付けられ、未出走のまま種牡馬となった。何しろ父マンノウォーは、今日も「20世紀アメリカの100名馬」の第1位の伝説的名馬なのである。21戦20勝、種牡馬としても数々の名馬、名種牡馬を輩出し、その赤毛を帯びた栗毛から、誰もが「ビッグレッド」と呼んだ。
 月友も栗毛である。1944年(昭和19年)第13回東京優駿は、戦時のため東京能力検定競走として無観客で施行され、月友の産駒で栗毛のカイソウが優勝した。日本ダービー史で、カイソウはダービー馬なのである。カイソウは翌年軍馬として徴用され、名古屋第13方面軍兼東海軍管区司令官の乗馬となったが、名古屋大空襲の折に行方不明となった。戦後、月友産駒の栗毛のミハルオー、栃栗毛のオートキツがダービー馬となった。
 さて、1937年(昭和12年)の第6回ダービーは牝馬のヒサトモ(父トウルヌソル)が優勝した。騎手は中島時一である(後に息子の中島啓之がコーネルランサーでダービーを勝ち、親子制覇を果たした)。発馬のバリヤーが上がったとき彼女の馬体は横を向いており、大きく出遅れたがレコードで圧勝した。ヒサトモ(久友)は星友の娘で、月友の半妹なのである。その後ヒサトモは帝室御賞典も大差で圧勝した。ヒサトモは「まるで無人の野を行くが如く」走ったらしい。その強さは、牝馬ながら1943年(昭和18年)の第12回ダービーを勝ち11戦全勝のまま引退したクリフジ(※1※2)より強かったという。
 繁殖入りしたヒサトモは、戦時中でもあり体調も優れず、子出しが悪かった。産駒は十年間で四頭のみであった。二頭は成績不振、牡駒のヒサトマンは5勝し(種牡馬となったがその系統はすぐに途絶えた)、唯一の牝馬ブリューリボンも5勝した。
 ヒサトモは戦後の食糧難を理由に牧場を出され、以前の馬主の元に送られたが、馬主が経営する海運事業の不振もあり、馬資源が不足していた地方競馬の戸塚競馬に彼女を売った。こうしてヒサトモは15歳6ヶ月で現役に復帰したのである。ヒサトモは戸塚や柏競馬場でわずか十八日間に5戦2勝し、次走に向けて浦和競馬場に送られて間もなく、心臓麻痺で死んだ。

(※1)クリフジの鞍上で手綱をとったのは、弱冠20歳の前田長吉で、日本ダービー史上の最年少優勝騎手である(戦後日本中央競馬会発足後のダービー最年少優勝記録は、田島良保がサラ系の雑草ヒカルイマイで勝ったときの23歳)。翌年満州に出征した前田は、敗戦後シベリアに抑留され23歳で死亡した。戦争がなければ、間違いなく大騎手になったであろうと言われている。
(※2)2007年、ウォッカによって牝馬によるダービー優勝が64年ぶりに成し遂げられた。牝馬のダービー馬はヒサトモ、クリフジ、ウォッカの三頭のみなのである。

 ヒサトモの娘ブリューリボンも子出しが悪く、産駒の成績も不振だった。ブリューリボンの娘トップリュウも同様で、ヒサトモの血は消滅しかかっていた。
 大阪で東海パッキング工業という会社を経営する内村正則は、1967年の晩夏に、地方競馬の馬主で馬を購入予定の仲間に同行し、北海道を旅行した。彼自身も地方競馬の馬主資格を取得したばかりで、気に入った馬がいれば購入したいと考えていた。
 彼等は浦河の田中牧場に立ち寄り、元気に放牧場を駆け回る若駒たちを見た。ただ一頭、厩舎に淋しげに繋がれたままの牝の若駒がいた。内村が田中場長に尋ねると、脚元が悪いのだという。生まれつき変形していて走るとすぐ腫れ上がるらしい。そのためセリに出しても売れず、次のセリも取り止めにしたという。買い手がいなければ繁殖にあげることも考えられるが、脚部の欠陥が子に遺伝する懸念もある。また血統的に活躍馬も出ておらず、祖母も母もあまり子出しが良くなかったという。ではどうするのかと訊くと場長は言葉を濁した。小柄な彼女の目は悲しげであった。その子の黒く潤んだ瞳を見ていると堪らなくなった。「可哀想に」…内村は無類のお人好しで人情家であり、また義侠心の持ち主であった。「私が買いましょう」と彼は言った。衝動買いである。
 競馬の知識はあまりなかった内村である。普通なら誰も買わない馬であろう。内村はその牝馬をトウカイクインと名付けて走らせた。トウカイクインは脚元の不安を抱えながら、無事に56戦も走り6勝を挙げた。地方競馬の深いダートコースが、脚にあまり負担をかけなかったのだろう。
 トウカイクインの健気な頑張りに感動した内村は、改めてその血統を調べ直した。母トップリュウ、祖母ブリューリボンである。曾祖母の繁殖名・久友についても改めて調べた。その父は日本の競馬の黎明期を支えた名種牡馬トウルヌソルではないか。しかもヒサトモは牝馬ながら第6回ダービー馬であり、帝室御賞典も大差で圧勝した馬ではないか。その母はアメリカから輸入された「星友」で、半兄は名種牡馬「月友」ではないか。さらに内村は知った。星友、久友、ブリューリボン、トップリュウの牝系は、もはや風前の灯火なのである。義侠の人、人情家の内村は決意した。この牝系は俺が守る。
 内村はトウカイクインの妹トウカイモアーも購入した。幸いなことに岡部牧場で繁殖に入ったトウカイクインは子出しが良く、九頭の母となり、うち牝馬は五頭であった。内村はそれを全て自分の所有馬とした。トウカイガゼル、トウカイミドリ、トウカイリボン、トウカイマリー、トウカイポーラ。

 1979年、内村は中央競馬の馬主資格をとった。勝負服は「白、青山形一本輪、桃袖」である。
 トウカイミドリは栗東の田所厩舎に預けられたが、生命も危ぶまれる大怪我をした。奇跡的に助かったものの未出走のまま終わり、岡部牧場で繁殖にあがった。彼女も子出しが良かった。1981年生まれの底力血統ネバーベンド系ブレイヴェストローマンの牝駒は、トウカイローマンと名付けられ、栗東の中村均厩舎に預けられた。翌年に生まれたノーザンダンサー系ナイスダンサーの牝駒はトウカイナチュラルとして松元省一厩舎に入った。
 1984年の第45回オークス。トウカイローマンは岡富俊一騎手を背に、天才騎手・田原成貴騎乗の圧倒的一番人気のダイアナソロンを破って優勝した。馬主として内村の初重賞、初GⅠ制覇である。彼の祈りにも似た信念が実り、ヒサトモは数えて六代目にして復活したのである。
 その翌週シンボリルドルフが無敗のまま第51回ダービーを圧勝し、皐月賞に次いで二冠を制した。内村はルドルフを「畏敬」し、決意した。ルドルフが種牡馬になったら、その種付け権利を入手してローマンに付けよう。実現し仔馬が生まれれば、ダービー馬とオークス馬の子である。
 その後トウカイローマンは低迷した。86年に七冠馬シンボリルドルフは引退し種牡馬になった。ローマンは不振のまま競走生活を続行した。
 87年に内村はルドルフの種付け権利を入手した。ローマンを引退させ繁殖にあげようと思っていた矢先、彼女の調子が上向いたのである。迷ったあげく、現役を続行させることにし(※3)、代わりに未出走のまま引退して長浜牧場で繁殖入りした妹のトウカイナチュラルに、ルドルフを付けることにした。

(※3)87年10月の京都大賞典、この春デビューした武豊はトウカイローマンに騎乗し初重賞勝ちを果たした。


愛読書「日本語 表と裏」

2016年05月24日 | エッセイ
          


 私の愛読書に森本哲郎の「日本語 表と裏」がある。何度読み返しても飽きがこない。何度読んでも、思わずうなってしまう。〈やっぱり〉面白い。見事だ。
 我々日本人が、日常何気なく、ほとんど無意味のように頻発して使用する言葉がいくつもあって、それが日本語を母語としない外国人からすれば「どういう意味?」であり、彼らの言語にはない言葉なのだ。類似語のようなものがあっても、〈どうも〉深いところで意味もニュアンスも異なる言葉であるらしい。
 著者はそれを流れるような見事な文体と論理で解き明かすのだが、持って回った言い回しや、意味不明な晦渋さは全くなく、昨今、三島由紀夫賞を贈られた、かの蓮實重彦先生の難解な文章の対極にある。
 著者はそのように日本語の表と裏を読み解きながら、決っして大仰に構えない実に秀逸な日本人論、日本文化論、日本論に仕立てている。
 剣客に例えるなら、相手と対峙しながら春風のような微笑みを浮かべ、肩から力が抜けた自然体でゆらゆらと、刀も抜かずして立ち、相手に「参りました」と言わせてしまう仙人のような剣豪なのである。あるいは池波正太郎の描く秋山小兵衛先生であろうか。森本先生はこの「参りました」も取り上げている。その書き出しはこうである。
 
 小野派一刀流の開祖、小野治郎右衛門忠明と佐々木小次郎は、たがいに刀を抜いて向かい合っていた。その様子を吉川英治はこう書いている。
 ――双方とも、固着したまま、姿勢の上にはいつ迄、なんの変化も見えなかった。たが、小次郎も忠明も、肉体の内には、恐ろしい生命力を消耗していた。その生理的変化は、鬢をつたう汗となり、鼻腔の喘ぎとなり、青白な顔色となって、今にも、寄るかと見えながら、剣と剣は、依然、最初の姿勢を持続していた。
『――参ったっ』
 忠明が叫んだのである。――叫びながら、刀と身を、そのまま、ぱっと後ろへ退いたのであった。(『宮本武蔵』=二天の巻)
 忠明が負けたのである。小次郎と剣をまじえた瞬間、忠明は「自分の敵する所ではない」と見てとり、潔くそう思い捨てた。「参ったっ」と彼が叫んだのは、自分が「負けた!」ということにほかならない。
「参った」という日本語は、いうまでもなく「参る」の過去形、あるいは現在完了形である。ところが、その「参る」という言葉のそもそもの意味は、宮廷や社寺など、高貴な場所へ行くことであった。すなわち「参入る」がつづまったのである。だからいまでも神社や仏閣へ行くことを、「おまいりする」という。高貴な場所へ参入する――ここから、相手に屈する、負けるという意味が生まれたのであろう。人間は、神さま、仏さまに対しては、どうあがいてみても、とうてい勝ち目はないからである。…
 
 どうも参った、長い引用になってしまった。しかも参ったことに、引用の引用である。こうして森本先生は日本語の話し言葉に頻出する「参った、参った」を語り出す。さらに天正五年にポルトガルからやって来た宣教師ロドリゲスの「日本文典」を引き、日本語特有の「参った」の微妙なニュアンスと、深い原意を、ごく自然体で解き明かしていくのである。いやあ参った、恐れ入りましてござりまする。
 
 彼が取り上げた言葉は以下の通りである。
「よろしく」「やっぱり」「虫がいい」「どうせ」「いい加減」「いいえ」「お世話さま」「しとしと」「こころ」「わたし」「気のせい」「まあまあ」「ということ」「春ガキタ」「おもてとうら」「あげくの果て」「かみさん」「ええじゃないか」「もったいない」「ざっくばらん」「どうも」「意地」「参った、参った」「かたづける」

 どうせ引用するなら、やはり「やっぱり」の章の一部も、以下に引用しておこう。

「やっばり」とか「やはり」というこの慣用語は、じつは、その恐怖を無意識のうちにいいあらわしているのである。日本人が何かについての意見をきかれたときに、やたらに「やっぱり」か「やはり」を連発するのは、「私が思っていたとおり」という予言者的な、つまり、自信に満ちあふれた立場の表明ではなく、「あなたをはじめ、みんながそう思っているように」「世間一般の人たちが考えているように」自分もそう思う、という意味の「やっぱり」なのだ。だから、マイクを差し出されて意見をただされたときに、ほとんどの人が「やっぱり」をつい連発してしまうのである。それは無意識のうちに世間におうかがいを立て、自分の意見がけっして人並み外れた考えではなく、世間のみなさんと同じように自分もそう考えます、ということを弁明する強調詞だといってもいい。
 だとすれば、数多くの日本語のなかで、「やっぱり」、あるいは「やはり」という慣用語こそ、何より日本的な性格を正直に告白している言葉とはいえないであろうか。
 私はこの言葉こそ、日本の主語だと思う。「自分はこう思う」というときの主語は、むろん、その意見を発表する「自分」である。だが、「やっぱり」とか「やはり」という間投詞をさしはさむときには、「自分」という主語のほかにもうひとつ、「日本」という、あるいは「世間」という大主語が無意識のうちに予想され、前提されているのだ。

 森本先生の文章を丸写ししていると、やっぱり気のせいか、自分も達意の書き手に変じたような快感がある。虫のいい話だが、私などはどうせいい加減な人間なので、ここらでこのエッセイをかたづけよう。引用を中略とか割愛しようとも思うのだが、先生の文章がやはり面白く、中略・割愛はもったいない。
 あげくの果て、どうもざっくばらんでいい加減になり過ぎたかも知れないが、まあええじやないかと嗤ってほしい。どうも、すみません。

コルビュジェ

2016年05月23日 | ミニコラム
                                                             


 ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関イコモスの勧告で、上野の国立西洋美術館が世界遺産登録が決定的だという。ル・コルビュビェの設計による建築物としての評価である。コルビュジェの威力は凄いものだ。
 だいぶ以前、フランス革命400年祭の日本委員会(黒川紀章委員長)で、それにふさわしい展覧会イベントの企画を求められたことがある。
 私はナダール展を提案した。「大王と呼ばれた男~写真の先駆者ナダール展」である。当時ナダールは(おそらく今でも)知る人ぞ知る存在で、一般的には日本でほとんど知られていなかった。
 私は朝日新聞の大崎紀夫氏のナダール・コレクションや、ロス在住の日本人女性が所有するナダール・コレクションを中心とした展覧会と、大崎氏の研究をもとにしたドキュメンタリー番組を当時のテレコムスタッフに持ち込んで進めていた。
 黒川紀章委員長は「ル・コルビュジェ展」を提案された。結局、委員長案で決まった。委員長は強い。また当時の私に言わせれば「またコルビュジェかよ」だったが、日本では知られていなかったナダールとル・コルビュジェでは勝負にならなかった。
 当時の私は「知られざるものを知らしめること」にイベントや番組の価値を置いていた(今も)。


                                                             

                              

内橋克人さんが語るTPP

2016年05月22日 | 言葉
                                                                  

 内橋克人氏の著書は、岩波書店から刊行された「同時代への発言」全8巻も含め、ずいぶん読んできた。時にNHKの「視点論点」「クローズアップ現代」を見る機会もあり、その意見、論点に学ぶところ多く、また大いに賛意を覚えたものである。
 彼は、世に流行する単にアメリカから輸入したような新自由主義、自由市場原理主義という名の強欲資本主義、カジノ資本主義、金融資本主義、グローバリズム、そしてアメリカの口移しのような構造改革、規制緩和に異をとなえた。
 全く内橋克人氏の言う通りで、自民党や民主党にせよ、アメリカから押し付けられたような構造改革と規制緩和で、それは日本にとってデフレ圧力なのであった。そして消費税増税、こうして日本は先進国の中で唯一デフレに陥っていったのである。さらにTPPと消費税10%増税…全てデフレ圧力だ。
 内橋克人氏がTPPについてもずいぶん発言されておられる。


 
 日本では3・11をきっかけに、大規模・一極集中型の経済社会を転換する動きが強まっています。その先にあるのは食糧、エネルギー、ケア(医療・介護など)をそれぞれ地域内で自給する循環型・地域主権型の社会です。成長するための経済効率や市場競争原理を至上としてきた米国スタンダードと決別し、人間生存と環境を主軸にすえた「共生の社会」と言えるでしょう。
 TPPに参加することで、被災地はじめ小さなコミュニティーで始まった「社会転換」の動きにもブレーキをかけることになるのではないか。TPPは日本が変わろうとしている方向とは真逆にあるという危機感を強く持っています。
 

 日米首脳会談で関税撤廃の「聖域」がありうるかのような表明を出しあったのは、日本に対するTPPへの誘い水、米国が日本に「アメ」を先に差し出したということでしょう。
 米国はそれだけTPPを重視している。日本との自由貿易協定にとどまらず、中国に対抗する安全保障上の意味も兼ねた世界戦略の道具そのものです。一方の中国も輸出先である米国と協調関係を保ちつつ、米国抜きの「ASEAN(東南アジア諸国連合)+3(日中韓)」などを舞台にアジア諸国と経済連携を深めたり、IMF(国際通貨基金)への出資比率を高めたりして、米国主導の経済体制にくさびを打ち込もうとしている。中国はTPPに入らないし、米国も入れる気はない。TPPを実効あるものにするには、日本の参加が欠かせないということです。
 だからと言って、米国が日本の農産品をそのまま聖域にする保証はありません。米国は政権交代しても一貫して「経済ルールの米国化」をめざす戦略を取り、戦後の経済交渉では日本が必ず押し切られてきた。北米自由貿易協定(NAFTA)の成功を世界に広げようと企てて失敗した多国間投資協定(MAI)を含め、長い歴史の延長線上にTPPはあるのです。
 二国間貿易のセンシティビティー(重要項目)に農産品が挙がった、という直近の出来事だけで物事を判断すると間違えます。TPPに参加して農業の競争力を高めるべきだという人もいますが、米西海岸の稲作とは規模が違い過ぎる。
「アメは先に、ムチは後で」は、外交の常道です。最初はコメの聖域扱いを容認するかもしれませんが、いずれ保険、医療なども含めた広範な分野で市場開放を強く迫ってくるでしょう。